甲陽軍鑑 / 品第四十
信長國へだち信玄輝虎と終に武篇の參會無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御聟にとある緣邊なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戰の刻、信長二十七歲にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縱へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の國と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
新字:信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
書き下し
信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
現代語訳
信長は国が隔たっていて、信玄・輝虎とついに武辺の参会がない。とりわけただ今は、信長の嫡子である城之介殿が信玄公の御聟であるという縁組である。それにつけて信長が手立てをなさるべき敵はそれほどない。十二年前、今川義元公と合戦の折、信長は二十七歳で無類の手柄がこれである。その頃は信長が小身で若かったので、大敵には種々の謀りごとがあって信長は勝利を得られたのである。謀りごとを行う軍法のない弓矢は、たとえば下手が集まってする能の見物のようなものである。仕損なうだろうと思い、見ながら危ういのである。信長の弓矢も、美濃の国と七年のあいだ取り合って武功の分別が定まるのである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第六義元運の末にや是を実なりとおほして、彼新左衛門をめすに駿府までまいるに及ばずとて、参州吉田において速に頭をぞはねられける、其四年にあたつて庚申しかも七庚申ある歳の五月信長廿七の御年人数七百斗り、義元公人数二万余りを卒して出給ふ、于時駿河勢所々へ乱坊に散たる隙をうかどひ、味方の真似をして駿河勢に入交る、義元は三河の国の僧と路次のかたはらの松原にて酒盛しておはします所へ、信長伐てかゝり終に義元の頸を取給ふ、此一戦の手柄によつて於日本其名を得給ふ、是とても件の戸部新左衛門存命においては中々可為難儀処に信長公智謀深く陳平張良が項王の使者をはかりしに不異、信長公消息の行は廿四歳の御時也、
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『甲陽軍鑑』品第四十一或る時穴山殿馬塲美濃にとはるこ、旣に織田信長今天下を意見する程ならば、聞及て人の手本に仕るへき軍法一ツもなき事是如何とあれば、馬塲美濃こたへていはく、信長の敵は美濃衆に七年手間取斗り残りはみな信長におづる人々なる故軍法もいらず候、其上信玄公輝虎と大かた世間に有程の手だて·はかりこと被成に付、他国の弓矢を当御家にて、さのみおもしろふ存せず候、殊更信長も当年三十八歳、天下も三吉殿をおしのけ、都の義誠に我意見仕らるゝは去年七月からの事なり、軍法も大敵·强敵に逢ての行にて候へば、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十七信玄公つね〳〵仰られしは、信長あらきなる行義いたすはみな虚言也、我等と輝虎なくは定めて真に物を執行申さるべく候と、いつも仰られしごとく、今度長篠にての様子我等不参候へ共、皆語るを承はれば、前に子息の域介信忠のうはさ申されしごとくに少しもかわらず、海道一番の家康当年三十四歳、日本に名高き信長当年四十二歳、いづれも武道·分別ともに盛なり、子息城介信忠と三大将、しかも人数十万ばかりの大勢なり、又こなたは勝頼公一大将にて、いはんや御年三十歳ことに敵に対せば五分一の人数なり、旁以て信長無理をはたらかるべき所に、節所をかまへ、剰へ柵の木を三重までつけ、大事にいたさるゝ事は手の外にて候、
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『甲陽軍鑑』品第四十一曽根内匠がいはく、信玄公の御弓箭、信州村上殿五郡持ち給ひても、信濃国甲州より広ければ、武田勢より村上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし、殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に、同く信州大身衆諏訪殿·小笠原殿·木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ、就中上杉衆是は猶以て大敵なり、小田原北条殿ひろき国を持ち給へば、是れ以て大敵なり、日本に弓箭の儀、若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし信玄公とあひたこかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の强将なれ共此大将衆にから給ふ、是によつて信玄公御武勇当代の無双也、
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『甲陽軍鑑』品第四十頓て又三年の間に氏康公·氏政公·信玄公三大将を相手にして輝虎は一大将なれ共、松山落城をきこしりぞかず、しかもきさいの城を攻おとし、城王は忍の成田がおとうと小田の助三郎といふ者をはじめ、雑兵三千なでぎりにいたされのがるゝ事、信長は二十七歳の時八百の人数にて二万の大敵義元公にかち、其後公方様御供申、天下へ仕すへまいらせ、三年の間公方を守護し奉り其以後都支配の事、いづれも此外自余の大将衆おぼへに成程の事はいかほども御座あれ共それは際限なし、