甲陽軍鑑 / 品第十四
うたひ申す其越前金ヶ崎の時、三河家康信長を助けて若狹國へ働給ふ、淺井備前、越前をすけて金ヶ崎へ後詰と聞せ給ふ、信長は家康をすて敗軍なるを、家康は若狭侍を思ひのまゝにしづめ尋常に退き給ふ、近國へきこゆる若き者の剛なる心ばせなり、家康廿六七歲の時分かと覺へ候が、信長十双倍も强よからんと信玄家にても批判あり、
新字:うたひ申す其越前金ヶ崎の時、三河家康信長を助けて若狭国へ働給ふ、浅井備前、越前をすけて金ヶ崎へ後詰と聞せ給ふ、信長は家康をすて敗軍なるを、家康は若狭侍を思ひのまゝにしづめ尋常に退き給ふ、近国へきこゆる若き者の剛なる心ばせなり、家康廿六七歳の時分かと覚へ候が、信長十双倍も强よからんと信玄家にても批判あり、
書き下し
うたひ申す其越前金ヶ崎の時、三河家康信長を助けて若狭国へ働給ふ、浅井備前、越前をすけて金ヶ崎へ後詰と聞せ給ふ、信長は家康をすて敗軍なるを、家康は若狭侍を思ひのまゝにしづめ尋常に退き給ふ、近国へきこゆる若き者の剛なる心ばせなり、家康廿六七歳の時分かと覚へ候が、信長十双倍も强よからんと信玄家にても批判あり、
現代語訳
その越前の金ヶ崎の時、三河の家康が信長を助けて若狭国へ働かれた。浅井備前が越前を助けて金ヶ崎へ後詰めすると聞かれたので、信長は家康を捨てて敗軍したのを、家康は若狭の侍を思いのままに鎮めて尋常に退かれた。近国へ聞こえる、若い者の剛なる心ばえである。家康が二十六、七歳の時分かと覚えているが、信長より十倍も強かろうと、信玄の家中でも批判があった。
解説
金ヶ崎の退き口が、信長と家康の対比として書かれる。信長は味方を置いて崩れ、家康は敵地を静めてから普通に退いた。二十六、七の若さでそれができたことを、武田の家中でも評価していたという。強さを、押す時ではなく退く時で測っている。強さを、押す時ではなく退く時で測っている。二十六、七でそれができたという事実が、敵方の家中で語られているところに重みがある。
この章句が説くこと
退金ヶ崎家康信長剛敗軍
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第十四又尾州織田信長は日本にて、上杉管領入道輝虎につゞきては、織田右大臣信長とて信玄公他界まし〳〵て後は、両大将を弓矢の花の本に申す中にも、信長は六年己来都の異見なれば、武辺のつよみなる塲数は、輝虎といへども結句信長と名をよぶ者多し、此信長をも下郎の歌に作りうたふ、一に憂事金ヶ崎、二にはうきこと志賀の陣、三に福島野田ののき、口〓〓と、
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