甲陽軍鑑 / 品第四十
七に牢人衆とは他國より此家中へ賴みをかけきたる侍を、それ〳〵に扶助せしめ、其本國を手に入れては本領をくれ、さなく共其身の武功·分別·心ざしの届きたるを見合せ、人數をあづけとりたてらるこ大身衆、是は譜代衆と大略同事なり、さるほどに、右を委しく申せば、第一に信玄公御家にて信濃に眞田·上野に小幡·越後より來る大熊、是三人は牢人の大身とて信玄公御取立なり、此內眞田·小幡は先方の取立衆と申さん、子細は信濃上野信玄公御手に入るほどに如此大熊は牢人とりたてなり、
新字:七に牢人衆とは他国より此家中へ頼みをかけきたる侍を、それ〳〵に扶助せしめ、其本国を手に入れては本領をくれ、さなく共其身の武功·分別·心ざしの届きたるを見合せ、人数をあづけとりたてらるこ大身衆、是は譜代衆と大略同事なり、さるほどに、右を委しく申せば、第一に信玄公御家にて信濃に真田·上野に小幡·越後より来る大熊、是三人は牢人の大身とて信玄公御取立なり、此内真田·小幡は先方の取立衆と申さん、子細は信濃上野信玄公御手に入るほどに如此大熊は牢人とりたてなり、
書き下し
七に牢人衆とは他国より此家中へ頼みをかけきたる侍を、それ〳〵に扶助せしめ、其本国を手に入れては本領をくれ、さなく共其身の武功·分別·心ざしの届きたるを見合せ、人数をあづけとりたてらるこ大身衆、是は譜代衆と大略同事なり、さるほどに、右を委しく申せば、第一に信玄公御家にて信濃に真田·上野に小幡·越後より来る大熊、是三人は牢人の大身とて信玄公御取立なり、此内真田·小幡は先方の取立衆と申さん、子細は信濃上野信玄公御手に入るほどに如此大熊は牢人とりたてなり、
現代語訳
七に牢人衆とは、他国よりこの家中へ頼みをかけて来た侍を、それぞれに扶助せしめ、その本国を手に入れては本領をくれ、さもなくともその身の武功・分別・志の届いたのを見合わせ、人数を預け取り立てられる大身衆である。これは譜代衆と大略同じ事である。さるほどに、右を詳しく申せば、第一に信玄公の御家にて、信濃に真田、上野に小幡、越後より来る大熊。この三人は牢人の大身とて信玄公の御取り立てである。このうち真田・小幡は先方の取り立て衆と申そう。子細は、信濃・上野が信玄公の御手に入るほどにこのとおり、大熊は牢人の取り立てである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十高坂こたへていはく、信玄公の人取立給ふに、真田一徳村上におしたをされ、牢々なるをとり立、本知を下され、或は小幡上総謙信に背きて、是も牢々して甲州へ参りたるをかゝへ置、上野をおさめ取立、
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『甲陽軍鑑』品第四十本知を下され候へば辱なく存知、御譜代の衆にも同前に其身も存知、上様も左様思召、殊に大熊輝虎の機にちがひ甲州へ参候て山県同心に也数度の手抦故、出頭小宰相の婿に仰付られ取立給ふ故、是も御譜代のごとくなり、それを上杉扇谷老四人の内、見田と申侍聞候て甲州へ参り、長坂長閑·跡部大炊介を頼、御家へ奉公に罷出る、信玄公かこへ置給へど切符少づゝにて召置ると、長坂長閑信玄公へ申上る、越後牢人大熊なみに見田をも御取立あれかしと言上いたせば、
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『甲陽軍鑑』品第四十第三に駿河国にて岡部次郎右衛門城をよく持ちたるとて是は又先方衆の中にて取りたてなり、忠節もなく、手抦もなく、只国なみにかこへらるゝを大小共に先方衆と申すなり、第四に信州木会殿飛弾の国江間、常陸·越中の神保など信玄公へ起請をもつて侘言有る、是を降参の大身と申す、第五に越前の浅倉殿、関東安房の里見殿、関東たがや、江州の浅井備前守、上総の万喜·宇都宮殿 是等はみかたと云ふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十大将には能々出頭人なり共、傍輩に物云ふやうにならねば殊に一ツ二ツにて、はやえつうあそばす事は国持の専ら也、一入信玄公十八歳よりそれがし廿五歳の時より奉公申奉るに、御わかき時分せんさくなされ、此儀をよそのやうに語給ひて定めらるゝ、今、曽根内匠·真田喜兵衛·三枝勘解由左衛門三人にケ様の定めを仰せきかされてこそ牢人衆の参るに右三人、先其侍を見とどけ、それ〳〵に披露いたすと大方みへまいらせ候と穴山殿に馬塲美濃守をしへまいらするなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十一関東の管領上杉則政公の取立て大身になさるゝ人をば、十人の内八人·九人を諸傍輩次第にすへ程あしう取さた申つると聞、扨信玄公御取立の人をは前々十分によきさたなき人をも次第に各讃申候、又其人なにぞ一かど仕得たる事ありて、近国·他国にもほむるとある、則政公の御分別と信玄公のあそばしやう、此様子仰られきかせ給へと高坂弾正に真田喜兵衛いへば、
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『甲陽軍鑑』品第四十如件一関東上野国峯の城主小幡上総守は、信玄家へ牢人なるを、信玄公御ほこさきの威勢をもつて上野へ小幡上総本意仕る、此小幡は同国簔輪の城主長野信濃守むこなり、然れば件の信濃守弘治三年丁巳年よりやさしくも信玄公と取りあひ大剛の武士なる故、七年の間楯をつき、永禄六癸亥年に簑輪洛城仕り、長野が一党を悉く退治あそばす、其後小幡上総を甲府へ召し寄せられ御諚に女房を離別仕候へ、武田御家の譜代衆に縁辺仰合有るべきと原隼人佐·内藤修理正両使を以ての上意なり、小幡上総畏て御返事申上る、此儀を長野信濃守御誅罰の以前に仰下さるゝに付ては尤上意にまかせ少しも違変申しあぐまじ、