甲陽軍鑑 / 品第六
さて藏人元康は義元公討死の其はたらきにはや元康をあらためて家康と名乘給ひ、其年の暮に伯父の野州あつかひをもつて家康と信長和睦の儀有之、尾州に事出來らは家康公信長へ加勢し、三州に事出來らは信長公家康公へ加勢有べしと互に起請文を取かはし內々無事を作り給ふ、見合の儀を今川衆家康表裡と申事一向無勿体儀なり、
新字:さて蔵人元康は義元公討死の其はたらきにはや元康をあらためて家康と名乗給ひ、其年の暮に伯父の野州あつかひをもつて家康と信長和睦の儀有之、尾州に事出来らは家康公信長へ加勢し、三州に事出来らは信長公家康公へ加勢有べしと互に起請文を取かはし内々無事を作り給ふ、見合の儀を今川衆家康表裡と申事一向無勿体儀なり、
書き下し
さて蔵人元康は義元公討死の其はたらきにはや元康をあらためて家康と名乗給ひ、其年の暮に伯父の野州あつかひをもつて家康と信長和睦の儀有之、尾州に事出来らは家康公信長へ加勢し、三州に事出来らは信長公家康公へ加勢有べしと互に起請文を取かはし内々無事を作り給ふ、見合の儀を今川衆家康表裡と申事一向無勿体儀なり、
現代語訳
さて蔵人元康は、義元公討死のその働きで、早くも元康を改めて家康と名乗られ、その年の暮れに伯父の野州の扱いをもって、家康と信長の和睦の儀があった。尾州に事が出来すれば家康公が信長へ加勢し、三州に事が出来すれば信長公が家康公へ加勢するはずだと、互いに起請文を取り交わし、内々に無事を作られた。この様子を今川衆が家康の表裏だと申す事は、一向にもったいない儀である。
解説
元康の元は義元からもらった字である。それを捨てて家康と名乗った時点で、今川からの独立は名の上で済んでいる。そのうえで、後の同盟の内容まで一文で書き、これを裏切りと呼ぶのは筋違いだと言い切る。次の段がその理由になる。元の字を捨てて名乗り直した時点で、今川からの独立は名の上で済んでいる。これを裏切りと呼ぶのは筋違いだと、次の段で理由が示される。
この章句が説くこと
改名独立同盟起請文表裏和睦
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十信長尾張一国ならば互に尾張·三河にてみかたとばかり申すべく候へ共、信長国数をとり大身に成に付、家康は一国にて無事なれば、一国の方をはたしたと云ふ、かやうの事も生れ替りの家にてはわかき衆其たてわけをしらねば、武士道無案内のやうに候と小宮山内膳·小山田彥三郎両人に、もろが入道がゝへたるを高坂弾正聞き候て、くどけれども紙面にあらはし、わかき衆にせんさくよくなされよとの儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
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『甲陽軍鑑』品第六氏実公政道よくましまさば家康公の表裡にても有べし氏実公あしき大将にてもあれ家康公今川殿に伝る家老ならはこそ人のいふも尤なれ、家康公はもとより一城の主たり、時のけんにまかせて属したる大名と申物也、時のけんによつて属したる人は万事を抛て時を見あはせ我立身を専にする物なれは、家康公今川殿の家老にてはなし努々表裡に有べからず、
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『甲陽軍鑑』品第六さる間竹千世殿駿州今川義元公に属し給ひ蔵人元康と元服し給ひ、十五歳にて参州岡崎へ帰城有て、十九歳の五月義元公の先手として尾州へ発向ある義元の先陣の人々大高の城をせめ落し、番手に元康を置給ふ翌日義元公討死し給ふと元康公伯父水野下野方より以飛脚告げ来る、
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『甲陽軍鑑』品第六元康聞給ひて二のくる輪まで出させ給ふが、又立ち帰り本城に御座家老の人御前に参り、是はいかなる事ぞと申す、元康聞き給ひて義元公討れさせ給ふと水野野州より告来る、然るに野州敵方共味方共見へず義元公御利運におひては、我をたよりて今川方に成べし、若し又信長利運に成ならば籠居して義元へ礼を申さゞるを忠節たりといはん覚悟なれ共、先つ大略は信長方のやうなる物ぞかし、されば伯父といひながら敵方より告来るは計略と思ふへし、計略するはいにしへより今に至るまて敵味方のならひ也、
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『甲陽軍鑑』品第四十七右金丸平三郎をきりたる落合彥介何方へ可参と僉議まち〳〵なり、然れ共駿河今川殿小田原北条殿いづれも其比は御無事にてましませば、少しのとがには参る者これあれども、かやうの科の者は中々今川殿·北条殿へは不参、尾州信長も庚申の年の五月今川殿と合戦に勝、義元を討とり、其いきはひにて尾州を随へ、同年のくれに美濃の国へとりかけ、七年戦かふて七年目寅の年と申すに信長公三十三のとし美濃·尾張両国の主と成給ふ、彼彥介が仕合せも右申の歳、殊更三月なれば未た信長も尾州さへみなもたぬ時にてあれば、信長へと疑ひやうもなし、猶以て家康は其年十九歳の六月までは元康と申、駿河今川殿御旗下なり、騎河·遠江·三河三ケ国今川殿の御国なる故、家康も岡崎の城一ツやう〳〵所持に付、