甲陽軍鑑 / 品第四十七
翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟兩人是に置きなば、わかき者共にて若し增城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば、隔てゝ後によび給へとて、義信公へ信玄公所望なされ內藤修理に預け給ふ、兩人其後西上野みのわにて數度手抦をあらはし、兄は此年みか尻合戰の刻手抦なる討死して、かばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て數度おほへ有りて信玄公御證文、後は七ツまで下されて待ち、
新字:翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟両人是に置きなば、わかき者共にて若し增城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば、隔てゝ後によび給へとて、義信公へ信玄公所望なされ内藤修理に預け給ふ、両人其後西上野みのわにて数度手抦をあらはし、兄は此年みか尻合戦の刻手抦なる討死して、かばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て数度おほへ有りて信玄公御證文、後は七ツまで下されて待ち、
書き下し
翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟両人是に置きなば、わかき者共にて若し增城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば、隔てゝ後によび給へとて、義信公へ信玄公所望なされ内藤修理に預け給ふ、両人其後西上野みのわにて数度手抦をあらはし、兄は此年みか尻合戦の刻手抦なる討死して、かばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て数度おほへ有りて信玄公御證文、後は七ツまで下されて待ち、
現代語訳
翌日仰せ出だされるは、かの長沼兄弟の両人をここに置きなば、若き者どもにて、もし増城とまた喧嘩などいたしては、惜しく思し召さるる者であれば、隔てて後に呼び給えとて、義信公へ信玄公が所望なされ、内藤修理に預け給う。両人はその後、西上野の箕輪にて数度の手柄を現し、兄はこの年、三箇尻合戦の刻に手柄なる討死して、屍の上までも誉れあり。弟の長八郎はなおもって数度の覚えがあって、信玄公の御証文、後は七つまで下されて待ち。
解説
裁きが済んだ翌日、勝った側を別の組へ移す。惜しい者だから、また喧嘩になっては困るという理由である。離してから改めて呼び戻すという配りで、兄弟はその後、別の戦場で手柄を重ねた。離してから改めて呼び戻すという配りで、兄弟はその後、別の戦場で手柄を重ねた。惜しい者だから、また喧嘩になっては困るという理由が、裁きの翌日に実行されている。
この章句が説くこと
配置離す惜しむ長沼手柄後日
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