甲陽軍鑑 / 品第六
今時の世を見るに、自然の儀出來り縱ひ一旦治まるといふ共、又翌日よりみだれなん、此趣き四國より佐藤一甫といふ牢人鐵炮の師として來り、信玄公の御代より旗本に召置る、其一甫委細をよく知てかたる、又修理太夫殿幼少にての義は山本勘介四國へ渡り詳に知て語りしをきゝ、何れにても名將は幼少より衆人にかはりてすぐれたる處御座と也、
新字:今時の世を見るに、自然の儀出来り縦ひ一旦治まるといふ共、又翌日よりみだれなん、此趣き四国より佐藤一甫といふ牢人鉄炮の師として来り、信玄公の御代より旗本に召置る、其一甫委細をよく知てかたる、又修理太夫殿幼少にての義は山本勘介四国へ渡り詳に知て語りしをきゝ、何れにても名将は幼少より衆人にかはりてすぐれたる処御座と也、
書き下し
今時の世を見るに、自然の儀出来り縦ひ一旦治まるといふ共、又翌日よりみだれなん、此趣き四国より佐藤一甫といふ牢人鉄炮の師として来り、信玄公の御代より旗本に召置る、其一甫委細をよく知てかたる、又修理太夫殿幼少にての義は山本勘介四国へ渡り詳に知て語りしをきゝ、何れにても名将は幼少より衆人にかはりてすぐれたる処御座と也、
現代語訳
今時の世を見るに、自然の儀が出来して、たとえ一旦治まるといっても、また翌日から乱れよう。この趣は、四国から佐藤一甫という牢人が鉄炮の師として来て、信玄公の御代から旗本に召し置かれ、その一甫が委細をよく知って語る。また修理太夫殿の幼少の頃の儀は、山本勘介が四国へ渡って詳しく知って語ったのを聞いた。いずれにしても、名将は幼少より衆人に変わって勝れたところがおありだ、ということである。
解説
この品の締めくくりに、話の出どころを二人の名で明かしている。四国の事は牢人の鉄炮師と、渡って見て来た山本勘介から聞いた、と。伝聞をそのまま並べるのではなく、誰から聞いたかを書き添えるのが、初めに置いた飾らぬという断りの実行になっている。誰から聞いたかを書き添えるのが、初めに置いた飾らぬという断りの実行になっている。四国の事は、二人の名を挙げて出どころを示す。
この章句が説くこと
出典伝聞名将幼少勘介証言
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