甲陽軍鑑 / 品第四十八
我等兩人の事、みしなは十八、廣瀨は十六歲にて平澤合戰から仕はじめ當年まで三十一年の間に、みしな鑓を八度あはせ、頸數は十六の内に、さいはいを手にかけたる武士の頸を七ッ取候て、旣に御證文十五戴き候、廣瀨は三十一年の間に鑓を六度合候て、しるし五十九取申候中に、さいはいを手にかけたる頸を十一取候て御證文十七戴きもち申す、我等兩人うち申候者共、信州にては村上殿·誠訪賴氏·ふかしの小笠原殿·上野上杉衆·北條家もらしの御敵の中に、はた奉行或ひは足輕大將、一備への內にて五六人の名有者斗りうつて、さいはいをそへて御實撿を得奉る、
新字:我等両人の事、みしなは十八、広瀨は十六歳にて平沢合戦から仕はじめ当年まで三十一年の間に、みしな鑓を八度あはせ、頸数は十六の内に、さいはいを手にかけたる武士の頸を七ッ取候て、旣に御證文十五戴き候、広瀨は三十一年の間に鑓を六度合候て、しるし五十九取申候中に、さいはいを手にかけたる頸を十一取候て御證文十七戴きもち申す、我等両人うち申候者共、信州にては村上殿·誠訪頼氏·ふかしの小笠原殿·上野上杉衆·北条家もらしの御敵の中に、はた奉行或ひは足軽大将、一備への内にて五六人の名有者斗りうつて、さいはいをそへて御実撿を得奉る、
書き下し
我等両人の事、みしなは十八、広瀨は十六歳にて平沢合戦から仕はじめ当年まで三十一年の間に、みしな鑓を八度あはせ、頸数は十六の内に、さいはいを手にかけたる武士の頸を七ッ取候て、旣に御證文十五戴き候、広瀨は三十一年の間に鑓を六度合候て、しるし五十九取申候中に、さいはいを手にかけたる頸を十一取候て御證文十七戴きもち申す、我等両人うち申候者共、信州にては村上殿·誠訪頼氏·ふかしの小笠原殿·上野上杉衆·北条家もらしの御敵の中に、はた奉行或ひは足軽大将、一備への内にて五六人の名有者斗りうつて、さいはいをそへて御実撿を得奉る、
現代語訳
我ら両人の事、三品は十八、広瀬は十六歳にて平沢合戦から仕り始め、当年まで三十一年のあいだに、三品は鑓を八度合わせ、首数は十六の内に、采配を手にかけたる武士の首を七つ取り候て、すでに御証文を十五戴き候。広瀬は三十一年のあいだに鑓を六度合わせ候て、印し五十九を取り申し候中に、采配を手にかけたる首を十一取り候て御証文を十七戴き持ち申す。我ら両人が討ち申し候者どもは、信州にては村上殿・諏訪頼氏・深志の小笠原殿、上野の上杉衆・北条家、洩らしの御敵の中に、旗奉行あるいは足軽大将、一備えの内にて五六人の名ある者ばかりを討って、采配を添えて御実検を得たてまつる。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十八かた〳〵の我等罷出ざる以前の武辺は、それがし父の六郎兵衛、ほそ心操をもつて次あひに仕候、左候は十三年以降はわかく候へども各より、ちと我等仕りかさみ申候、其上広瀨殿頸沢山に御取候よし、それは尤も大剛の人なり、さりながら我等の五ツ取候しるしも、ざいこそ手にかけず共、かねまつ黒に付て匂ひ芬々ととめたる頸にて候へば、かた〳〵の討たる者にはます共おとり申まじ、さいはい手にかけたる人よりも結句ましの者にても候べしと申せば、
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『甲陽軍鑑』品第四十八就中我等十七歳、みしな十九歳の時かるいざわ合戦の刻、板垣信形下にて別して走り迴りの者をえらび、赤椀にて種々のさかなをとゝのへ振舞を仕る、頸二つ取者には二膳、三には三膳すわり、又手にあわざる衆には黒椀にて精進の振舞を板垣仕られ候時も、我等とみしなとやりを仕、追崩して後みしなは諸岡隼人をうち申す、拙者は藤田丹後と申者をうち候て、みしなと我等とゝ取にいたし、左右の一の上座に罷有候儀、淵底御屋形様御存知候、其塲へのり申者は今三郎兵衛に御預候者の内も曲淵庄左衛門三膳すはり、上野豊後二膳すはり申候、ことに広瀨は信濃の川上入道を御成敗の時も、川上をはじめて上下四人を一人にてうち候、左様の大塲をもふまざる辻弥兵衛が、一ツ二ツのひろいくびにて我等共に、さいはい御免のさまたげは蟷螂が斧とやらんはいまだ愚かに候と申上る、四人の奉行衆も舌をふるひ是非に及ばざるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十小身にても本の兵一番鑓·二番鑓を多ほうして三番鑓も、强敵又は大敵ならば自然にあらん、それにつゞきて鑓わきかたなにてこたゆる人ひとつなり、弓にてこたゆる人二なり、鉄炮にてこたゆる人三なり、就中鑓下の高名は一番の人にさしつゞきての武功なり、扨又大将をうつ人は大略十が九ツ追頸とおほしめせ、然れ共国もつ大将をうつ人は国五ケ国·十ヶ国の家にもおほうして二人·三人ならでなし、扨其冥加を感じて是又まれの武士と云ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十八御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八みしな申は、それは又我等広瀨度々手抦をあらはしたる故なりと申す、辻弥兵衛申すは、手抦も人にこされたるは深き儀にては有まじといへば、みしな申すは、広瀨·我等こしたる人はあまり覚へずといふ、辻弥兵衛申すは、旁はさすがのうでぬきをさする衆が武辺の儀に首尾不合なりといへば、みしな申すは、なにか口の違たる事ありやといへば、辻弥兵衛申すは、さいはいを手にかくる人より上の武士有間敷といひながら、今年さいをゆるされ申候て其以前三十年の間人にすぐれたると云ふは、さて首尾不合にてはなきと申て辻弥兵衛大きに笑へば、みしな一口もあかず、
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『甲陽軍鑑』品第四十八そこにてみしな申は、さいはいを手にかくるより上の兵は有まじといへば、辻弥兵衛申は、さあらばかた〳〵の三十一年こうさをつむ事は諸傍輩におとりたる儀を、何とて日来山県三郎兵衛同心被官の内に広瀨·みしな両人をこしたる覚への者有間敷と、いんげんを申つるぞ、さいはいは今年今月こそ免され申せといへば、