甲陽軍鑑 / 品第四十八
ほどに、かの六郞兵衛永祿四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乘取給ふ時、彼六郞兵衛其年四十五歲にて原美濃守·加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが信玄公殊の外惜み給ふて、六郞兵衞が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男·八貫次男·五貫三男、扨て二ツになる男は父が內々出家と申置候とて、妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郞兵衞が一男は此彌兵衞なり、是を親のごとくに外樣近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、
新字:ほどに、かの六郎兵衛永禄四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乗取給ふ時、彼六郎兵衛其年四十五歳にて原美濃守·加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが信玄公殊の外惜み給ふて、六郎兵衛が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男·八貫次男·五貫三男、扨て二ツになる男は父が内々出家と申置候とて、妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郎兵衛が一男は此弥兵衛なり、是を親のごとくに外様近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、
書き下し
ほどに、かの六郎兵衛永禄四年辛酉に、信州わりが獄の城を信玄公乗取給ふ時、彼六郎兵衛其年四十五歳にて原美濃守·加藤駿河守一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが信玄公殊の外惜み給ふて、六郎兵衛が二十五貫の知行を子共三人に分けて下さるゝ、十二貫は一男·八貫次男·五貫三男、扨て二ツになる男は父が内々出家と申置候とて、妙音寺と申法花坊主に契約也、扨又六郎兵衛が一男は此弥兵衛なり、是を親のごとくに外様近習に罷成申べしと信玄公仰出さるゝ、
現代語訳
ほどに、かの六郎兵衛は永禄四年辛酉に、信州割ヶ嶽の城を信玄公が乗り取り給う時、かの六郎兵衛はその年四十五歳にて、原美濃守・加藤駿河守と一所にて無類の働きを仕り、討死をいたすが、信玄公は殊のほか惜しみ給うて、六郎兵衛の二十五貫の知行を子ども三人に分けて下さるる。十二貫は一男、八貫は次男、五貫は三男。さてまた二つになる男は、父が内々に出家と申し置き候とて、妙音寺と申す法花坊主に契約なり。さてまた六郎兵衛が一男は、この弥兵衛なり。これを親のごとくに外様近習に罷り成り申すべしと信玄公が仰せ出だされる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十八辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八さて信玄公馬塲美濃·山県·内藤·高坂各をめしつれられ、しのびて此公事をきゝ給ひ、辻弥兵衛を大方ならず御感あつて機の逸物なる者かな、才覚もあつて弁舌もあきらかなると云ふは、辻弥兵衛がやうなる事にてこそ有らめ道理かな、父は辻六郎兵衛、はは小幡山城とて我家にて十人となき大剛の兵のむすめなり、明日に広瀨·みしな·小菅死しても、若手に又あのやう成者あれは、あとのあかぬ道理なり、我一代は大身·小身ともに日を追てかやうの武士共の出るは是れたゞごとならず、ひとへに八幡大菩薩のめぐみ給ふ故かとて、則ち八幡宮にて神楽有、其護摩上毘沙門堂にて諸侍のために二十一座のごまあり、扨又其後右四人の者を御つかひにて辻弥兵衛申分一段きこへ候とて、則ち東郡にて十五貫の御加恩あり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七然れば板垣被官·曲淵少左衛門と申す者数度武辺誉ある故取りあげ、信玄公御被官になされ、板垣には同心と仰せわたされ候、殊更板垣信形討死の後、子息板垣弥次郎代になり、よの同心衆も同前に曲淵知行にある段銭催促いたす、父信形代には段銭の事、上より知行にむすび板垣に下さることいへども、曲淵手前計りをば信形とらずして指し置く、但しつかはすとはいはず年々合力の心なり、惣別何の家中にも同心衆棟別段銭の事御蔵入にてなし、人に給はる程なれば、其寄親へ知行に積り下さるゝなり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十三去々年長篠にて討死なり○一米倉丹後守一加藤駿河守○右之外七人一馬塲美濃守信虎公の御代に十八歳より初陣仕り、其身廿五歳より信玄公へめしつかはる、信虎公·信玄公·勝頼公迄三代召つかわれ、去々年長篠合戦六十二歳にて討先仕らる、信虎公·信玄公二代の間に武篇数度の走り迴りいたす中に、我一備にすぐれたる事二十一度、仍而御父子之御證文二十一取て持つ内に、然かも諸軍に勝れたると云ふ儀九ツ有、是程の手がらをあらはし申され候へども、六十二歳まで手疵一ケ所もかうふらざる仁なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十七扨て上下の批判に、信玄公御弓矢巳の時にてまします故、かやうにつよき敵討なり、本人の事は申すに及ばず、すけ手四人の人々剛の者共かなと諸人批判なり、親の敵討なれば公儀より崇もましまさず、增城源八·飯室喜蔵·太郎義信公の衆也、長沼長介·同長八·石田長蔵·矢崎新蔵四人は又被官なれ共、此手抦にて信玄公御意をもつて義信公の衆になさるゝ、長沼長介·長八郎を信玄公御覧なさるゝ度に御詞をかけ給ふ、