甲陽軍鑑 / 品第四十七
よき人はあまり申す事もなけれども、只增城源八が樣なる者來りて、さき〳〵へ如此と申しならはす、長助·長八兄弟いかにもさは有るまじ、縱ひ左樣に增城源八申さるゝとも其右甲州より信濃へ參られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度·六度までは堪忍申すべしとて、長助·長八郎兄弟の者物いはず兩人取りあはぬにて、猶以て增城源八郞一類きほふて、增城源八を鬼神の樣に取りなす、又長沼長介·長八兄弟にあふては源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、
新字:よき人はあまり申す事もなけれども、只增城源八が様なる者来りて、さき〳〵へ如此と申しならはす、長助·長八兄弟いかにもさは有るまじ、縦ひ左様に增城源八申さるゝとも其右甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度·六度までは堪忍申すべしとて、長助·長八郎兄弟の者物いはず両人取りあはぬにて、猶以て增城源八郎一類きほふて、增城源八を鬼神の様に取りなす、又長沼長介·長八兄弟にあふては源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、
書き下し
よき人はあまり申す事もなけれども、只增城源八が様なる者来りて、さき〳〵へ如此と申しならはす、長助·長八兄弟いかにもさは有るまじ、縦ひ左様に增城源八申さるゝとも其右甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度·六度までは堪忍申すべしとて、長助·長八郎兄弟の者物いはず両人取りあはぬにて、猶以て增城源八郎一類きほふて、增城源八を鬼神の様に取りなす、又長沼長介·長八兄弟にあふては源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、
現代語訳
よい人はあまり申す事もないけれども、ただ増城源八のような者が来りて、先々へこのとおりと申し習わす。長助・長八の兄弟は、いかにもさはあるまじ、たとえさように増城源八が申さるるとも、その右、甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書いての事であれば、その恩はかたじけなき子細であるゆえに、五度・六度までは堪忍申すべしとて、長助・長八郎の兄弟の者は物言わず、両人が取り合わぬにて、なおもって増城源八郎の一類が競うて、増城源八を鬼神のように取りなす。また長沼長介・長八の兄弟に会うては、源八は少しも余儀なくいたし、陰では悪く申すゆえに、大きにこの事が広まる。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十七殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵·矢崎新九郎·飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟道理千万なり、各々諏訪より只何となく帰り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と其方両人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七誠に右敵討の時、長助·長八兄弟は手前十分になき故喧嘩にいたしたるかと屋形様おぼしめすならば、跡にて誰もよく申しあげては有るまじ、さありてはかばねのうへの恥辱なり、さて又是は只の事にあらず、侍道の事なれば目安をもつて信玄公の御さばきに仕られ、それにてまけなば、それは両人次第と石田·矢崎·飯室三人長沼兄弟に異見いたす故、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さて又增城源八·飯室喜蔵·矢崎新九郎·石田長蔵四人の者共長沼兄弟をすけたる所は尤も頼もしき心ざし、専らたけき武士の道も是にひとしからん、猶以て親兄弟の敵をうつ近付へ頼もしつく仕るは、をのれ〳〵が親兄弟への孝行にも通じて一入是も剛の武士なり、さりながら長沼長介·長八両人が存知よらずは、無理に傍の者すくふ事叶ふまじ、すくはれて入魂をもちなり共、親兄弟のかたきうつは手抦ならん、まして幼少より数年心にかけて討ちすましたる敵なれば、
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『甲陽軍鑑』品第四十七以上長沼長助·長八親の敵討事付增城源八郎と同長助·長八公事之事一永禄元年戊午に公事あがる濫觴を尋ぬるに、甲州西郡今諏訪と云所に長沼長右衛門とて元は板垣譜代ずじ也、此者用有りて信濃へ行き、其比は信濃国未だ武田の御手に不入、又信州座光寺被官に青柳柳之介·同綠之介と申兄弟の者、様子何としてやらん今の長沼長右衛門を殺所に長右衛門が子に長沼長介長八とて両人あり、此兄弟に母が申しをしへてあればこそ、一度親の敵をうたんとたくみ年月積り、兄は廿一弟は二十歳の春、思ひ立ち信州へ罷越し、親の敵をうたんとて諏訪や塩尻のあたりに宿をとり、しのびまはりて目をつけ出たる所をうたんと、百日あまり信濃に逗留する、
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨て上下の批判に、信玄公御弓矢巳の時にてまします故、かやうにつよき敵討なり、本人の事は申すに及ばず、すけ手四人の人々剛の者共かなと諸人批判なり、親の敵討なれば公儀より崇もましまさず、增城源八·飯室喜蔵·太郎義信公の衆也、長沼長介·同長八·石田長蔵·矢崎新蔵四人は又被官なれ共、此手抦にて信玄公御意をもつて義信公の衆になさるゝ、長沼長介·長八郎を信玄公御覧なさるゝ度に御詞をかけ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七さて翌年未の正月、增城源八·長助·長八が御前のよきをそねみて、柳ノ介をば我等討てとらせたり、手負事も兄には四ケ所、弟は六ケ所、我等はわき人なれど八ケ所手負ひて、柳ノ介を某がしの殺したる故おぼへとらするとて增城源八郎申す口にて、源八が親類共ひろき者なれば、各々方々ありき、長沼長介·長八が手抦、我等親類の增城源八を頼たる故なりと申しひろむる、