甲陽軍鑑 / 品第四十
此新八郞駿河岡部二郞右衞門におとらぬ剛の者也とて信玄公御家に置給はんとあれども、奥平九八郎人質家康にある故、奧平が人質と菅沼新八郞を替物になされ候、其三月めの四月十二日に信玄公御他界なくんば、何としても家康めつきやく酉の年中に仕らん、家康さへ滅却なれば信玄公都入に子細はなし、
新字:此新八郎駿河岡部二郎右衛門におとらぬ剛の者也とて信玄公御家に置給はんとあれども、奥平九八郎人質家康にある故、奥平が人質と菅沼新八郎を替物になされ候、其三月めの四月十二日に信玄公御他界なくんば、何としても家康めつきやく酉の年中に仕らん、家康さへ滅却なれば信玄公都入に子細はなし、
書き下し
此新八郎駿河岡部二郎右衛門におとらぬ剛の者也とて信玄公御家に置給はんとあれども、奥平九八郎人質家康にある故、奥平が人質と菅沼新八郎を替物になされ候、其三月めの四月十二日に信玄公御他界なくんば、何としても家康めつきやく酉の年中に仕らん、家康さへ滅却なれば信玄公都入に子細はなし、
現代語訳
この新八郎は駿河の岡部次郎右衛門に劣らぬ剛の者であるとて、信玄公の御家に置き給わんとあれども、奥平九八郎の人質が家康にあるゆえに、奥平の人質と菅沼新八郎を替え物になされ候。その三月めの四月十二日に信玄公の御他界がなくば、何としても家康を滅却、酉の年中にいたそう。家康さえ滅却であれば、信玄公の都入りに子細はない。
解説
惜しんで召し抱えようとした剛の者を、味方の人質と交換して手放す。人柄の値打ちよりも、こちらの人間を取り返すほうを取っている。そこから話は、あと三月あれば家康を滅ぼして上洛できたという嘆きへ移っていく。人柄の値打ちよりも、こちらの人間を取り返すほうを取っている。そこから話は、あと三月あれば上洛できたという嘆きへ移っていく。
この章句が説くこと
菅沼人質交換家康他界信玄
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