甲陽軍鑑 / 品第四十八
又其十日の間に伊豆いたつまにおいて北條家のはが伯耆·笠原兩侍大將と信玄家の侍大將山縣一手にて合戰の時、頸四百三十甲州方へ討取り、北條家の家老こと〳〵く敗軍なり、其節辻彌兵衞·和田加介鑓をあはする、鑓下の高名川手豐左衞門·長坂宮內左衞門、其八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめ、あたりの在郷放火の時、韮山の城のおさへに山縣三郞兵衞罷有、城より備へを出してせりあひ有、
新字:又其十日の間に伊豆いたつまにおいて北条家のはが伯耆·笠原両侍大将と信玄家の侍大将山県一手にて合戦の時、頸四百三十甲州方へ討取り、北条家の家老こと〳〵く敗軍なり、其節辻弥兵衛·和田加介鑓をあはする、鑓下の高名川手豊左衛門·長坂宮内左衛門、其八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめ、あたりの在郷放火の時、韮山の城のおさへに山県三郎兵衛罷有、城より備へを出してせりあひ有、
書き下し
又其十日の間に伊豆いたつまにおいて北条家のはが伯耆·笠原両侍大将と信玄家の侍大将山県一手にて合戦の時、頸四百三十甲州方へ討取り、北条家の家老こと〳〵く敗軍なり、其節辻弥兵衛·和田加介鑓をあはする、鑓下の高名川手豊左衛門·長坂宮内左衛門、其八日目に信玄公伊豆韮山へとりつめ、あたりの在郷放火の時、韮山の城のおさへに山県三郎兵衛罷有、城より備へを出してせりあひ有、
現代語訳
またその十日のあいだに、伊豆の板妻において北条家の垪和伯耆・笠原の両侍大将と、信玄家の侍大将山県が一手にて合戦の時、首四百三十を甲州方へ討ち取り、北条家の家老はことごとく敗軍なり。その節、辻弥兵衛・和田加介が鑓を合わする。鑓下の高名は川手豊左衛門・長坂宮内左衛門。その八日目に信玄公が伊豆の韮山へ取り詰め、あたりの在郷に放火の時、韮山の城の押さえに山県三郎兵衛が罷りあり、城より備えを出して競り合いあり。
解説
十日のあいだに大きな合戦があり、四百三十の首を取る。そして八日後には別の城の押さえに回る。誰が鑓を合わせ誰が鑓下かは、そのたびに名前で書き留められる。働きの記録が途切れずに続いている。働きの記録が途切れずに続いている。十日のあいだに四百三十の首を取り、八日後には別の城の押さえに回るという密度で書き留められている。
この章句が説くこと
伊豆韮山山県首数鑓下記録
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『甲陽軍鑑』品第四十八則ち其年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郎兵衛·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川弥三左衛門·辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀨郷左衛門·みしな内膳·西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛·和田賀助·渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豊後·早川弥三左衛門·辻弥兵衛鑓下の高名、猪子才蔵·広瀨郷左衛門·曲淵庄左衛門·此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、
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『甲陽軍鑑』品第四十七翌日仰せ出さるゝは、彼の長沼兄弟両人是に置きなば、わかき者共にて若し增城と又喧嘩など仕ては、おしくおぼしめさるゝ者なれば、隔てゝ後によび給へとて、義信公へ信玄公所望なされ内藤修理に預け給ふ、両人其後西上野みのわにて数度手抦をあらはし、兄は此年みか尻合戦の刻手抦なる討死して、かばねの上までもほまれあり、弟長八郎は猶以て数度おほへ有りて信玄公御證文、後は七ツまで下されて待ち、
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