甲陽軍鑑 / 品第四十
其上臨濟寺雪齋の義元公かひぞへに御座ありて、公事沙汰萬事の指し引きあさからざる故、尾張國織田彈正なども駿府へ出仕いたすにつき、末々は都迄も義元公御仕置なさるべしと各々風聞にて候へ共、我等式は一段あやふく存知奉つる、いはれは雪齋明日にも遷化においては家老衆のさばき縱ひよく共、雪齋と申す物しりのさばきよりおとりなりと諸人かろく存ずべし、さありて雪齋のごとくなる、長老をまた尋ね給はゞ今川家の事、悉皆坊主なくてはならぬ家と諸人思ひ候てケ樣に批判申さば、扨て以來あやうき事なりと申上る故、
新字:其上臨済寺雪斎の義元公かひぞへに御座ありて、公事沙汰万事の指し引きあさからざる故、尾張国織田弾正なども駿府へ出仕いたすにつき、末々は都迄も義元公御仕置なさるべしと各々風聞にて候へ共、我等式は一段あやふく存知奉つる、いはれは雪斎明日にも遷化においては家老衆のさばき縦ひよく共、雪斎と申す物しりのさばきよりおとりなりと諸人かろく存ずべし、さありて雪斎のごとくなる、長老をまた尋ね給はゞ今川家の事、悉皆坊主なくてはならぬ家と諸人思ひ候てケ様に批判申さば、扨て以来あやうき事なりと申上る故、
書き下し
其上臨済寺雪斎の義元公かひぞへに御座ありて、公事沙汰万事の指し引きあさからざる故、尾張国織田弾正なども駿府へ出仕いたすにつき、末々は都迄も義元公御仕置なさるべしと各々風聞にて候へ共、我等式は一段あやふく存知奉つる、いはれは雪斎明日にも遷化においては家老衆のさばき縦ひよく共、雪斎と申す物しりのさばきよりおとりなりと諸人かろく存ずべし、さありて雪斎のごとくなる、長老をまた尋ね給はゞ今川家の事、悉皆坊主なくてはならぬ家と諸人思ひ候てケ様に批判申さば、扨て以来あやうき事なりと申上る故、
現代語訳
そのうえ臨済寺の雪斎が義元公の介添えでおられて、公事の沙汰も万事の差し引きも浅くないゆえに、尾張国の織田弾正なども駿府へ出仕いたすにつき、末々は都までも義元公が御仕置きなさるだろうと、それぞれ風聞でございますけれども、我らごときは一段と危うく存じ奉ります。いわれは、雪斎が明日にも遷化においては、家老衆のさばきがたとえよくても、雪斎という物知りのさばきより劣りであると諸人が軽く存ずるだろう。そうであって、雪斎のようである長老をまた尋ねられたなら、今川家の事はことごとく坊主がなくてはならぬ家だと諸人が思い、このように批判申すならば、さて以来は危うい事であると申し上げるゆえに。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十一山本勘介駿河より甲府へ始めて召しよせられたる時、信玄公勘介に駿河今川家の肖語を尋ねなさるこ、山本勘介申すは、義元公の御家むかしより高家にてまします子細は、公方たへば吉良つぐ、吉良たへば今川つぐとある謂れにて、家風いづれも少しとしてひだちの入る事も御座有るまじく候、しかも駿河·遠州·三河三ケ国のあるじなれば、様子けだかく物の名人のあつまりにて、殊更能き家老衆沢山にして、中名·小名迄に武道専ら心がけ申す事是非に及ばず候、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
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『甲陽軍鑑』品第四十四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて参河·遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郎殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て、扨は四郎殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大将の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山県三郎兵衛申されて座敷を立なり、
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『甲陽軍鑑』品第十六又他国にても遠からぬ、九年以前の庚申の年の五月、今川義元公討死の刻、今川家の家老、岡部丹波守尾州星崎の城にて古今まれなる手抦をいたす故、義元公は討死なれども信長公今川家を奥深く思ひ給ひ、氏真公無分別微弱にておはしませど、今に駿河長久なるは偏へに岡部丹波守が、武道の心ばせちがへさるをもつてなり、又三州家康公も、右義元公御討死の節、尾州大高の城にて武道の御心ばせあさからざるをもつて、近国·遠国までも其名かくれなし、其武道たがはせ給はぬ故、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長の仕置今はまづあやうし、子細は内の衆に大国をくれて国主に各を仕らるゝ、其中に名人のなき事は有るまじ、さありて明日にも信長病死ならば、子息城介殿二代の大身なる故、何としてもよろづこまかに有るまじ、又仕出での侍は何事もめいさいなれば、本からの大身と仕出での大身とくらぶれば、一ツ時代には仕出での方かつ物にて候、さなくして信長仕置さへよくば嫡子城介信忠も舎弟伊勢国司に定めらるゝ三助も、殊の外能くむまれつきたる大将ときこへ候間少しも子細なく、信長死後にもおさまり候はんと高坂弾正が真田安房守にいひをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十四年以前に他界まします信玄、今迄御在世に付ては天下の仕置なさるゝ事なにうたがひあらんや、子細は伊勢·越前·河内·和泉·四国其外紀伊国·大和国小身なる者共まで信玄公へ申通し、法性院殿都入を相待とある事なり、さありて三河の家康をさへおしつぶせば、信長大身にてもそれはあまり手間とらぬ事、