甲陽軍鑑 / 品第三十九
去年味方が原の砌も、信長·家康申合、十四ケ國に取つゝきたる所へおしかけ、二三里近くの二俣をせめ取、其上合戰にかち、遠州·三州の間刑部に極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長樣々降參のうへ、我等被官秋山伯耆守を信長をばむこにして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に、信玄方より破りて信長居城の六里近く迄やき詰、一万餘の人數にて信長出たるに、馬塲美濃守千にたらぬ備をもつて、上道一里あまりおしつけ候へば、跡もみず岐阜へにげこみて、岩村の城を此方へせめをとすさて信玄武勇の事は人をたよらず、只今にいたりても氏政加勢に可罷出と被申候へ共、無用と申候、武篇の手抦は如此也、
新字:去年味方が原の砌も、信長·家康申合、十四ケ国に取つゝきたる所へおしかけ、二三里近くの二俣をせめ取、其上合戦にかち、遠州·三州の間刑部に極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長様々降参のうへ、我等被官秋山伯耆守を信長をばむこにして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に、信玄方より破りて信長居城の六里近く迄やき詰、一万余の人数にて信長出たるに、馬塲美濃守千にたらぬ備をもつて、上道一里あまりおしつけ候へば、跡もみず岐阜へにげこみて、岩村の城を此方へせめをとすさて信玄武勇の事は人をたよらず、只今にいたりても氏政加勢に可罷出と被申候へ共、無用と申候、武篇の手抦は如此也、
書き下し
去年味方が原の砌も、信長·家康申合、十四ケ国に取つゝきたる所へおしかけ、二三里近くの二俣をせめ取、其上合戦にかち、遠州·三州の間刑部に極月廿四日より正月七日迄十四日の間罷在に、天下のぬし信長様々降参のうへ、我等被官秋山伯耆守を信長をばむこにして、それにことよせ末子の御坊と云ふ子を甲府迄差越候に、信玄方より破りて信長居城の六里近く迄やき詰、一万余の人数にて信長出たるに、馬塲美濃守千にたらぬ備をもつて、上道一里あまりおしつけ候へば、跡もみず岐阜へにげこみて、岩村の城を此方へせめをとすさて信玄武勇の事は人をたよらず、只今にいたりても氏政加勢に可罷出と被申候へ共、無用と申候、武篇の手抦は如此也、
現代語訳
去年の三方ヶ原の折も、信長と家康が申し合わせ、十四か国に取り続いた所へ押しかけ、二、三里近くの二俣を攻め取り、そのうえ合戦に勝ち、遠州と三州のあいだの刑部に、十二月二十四日から正月七日まで十四日のあいだ在陣した。天下の主である信長がさまざまに降参したうえ、我が被官の秋山伯耆守に信長を婿にし、それにかこつけて末子の御坊という子を甲府まで差し越したのに、信玄の方から破って、信長の居城の六里近くまで焼き詰め、一万余の人数で信長が出てきたところ、馬場美濃守が千に足りない備えをもって一里あまり押し付けたので、後ろも見ずに岐阜へ逃げ込み、岩村の城をこちらへ攻め落とした。さて信玄の武勇のことは人を頼らない。今に至っても氏政が加勢に出ようと申されたけれども、無用と申した。武篇の手柄とはこのとおりである。
解説

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『甲陽軍鑑』品第四十一前の極月遠州味方が津原において家康へ加勢の信長衆に、村井·佐久間·平手·水野·沢田などゝ云ふ侍大将共きたつて、ひとはもあはす敗北する、殊更滝川丹波ト全などゝ云ふ侍大将は都合十三頭来て、今ぎれのわたりより引かへし、悉くにげたりと聞、それ故立むかふ事ならずといへども、信玄公は遠慮をふかくあそばし信長大敵の故、功者の馬塲美濃守を指むけなさるゝ、但し岩村の城に秋山伯耆守をさし置給ふ故、先信長押は秋山伯耆守なり、
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『甲陽軍鑑』品第三十九扨信長·家康は互にあなたをすけ、こなたをすけ、利運に互に仕り、すでにもつて信長はまきたる城をまきほぐし、味方を捨、退口あらき事数度あり、然も一向坊主などを敵にして、家康なくば成間敷候、本より家康は少身なる若気也、又奥両国にも輝虎ほどなる大将なし、四国·九国にも毛利元就程なるはなし、日本国中に右の大将衆程の誉れの侍、今は大唐にもなきと聞ゆる、然所に信玄手がらは若き時分より他国の大将をたのみ馬を出させ、両旗をもつて弓矢を取たる事一度もなし、まきたる城をまきほぐしたる事一度もなし、味方の城を一ツと敵に取しかれたる事なし、甲州のうちに城墎をかまへ用心する事もなく、屋敷がまへにて罷在、
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『甲陽軍鑑』品第四十一岐阜の信長は未だ手あひしかとみへざる子細は、申の極月信長とは御無事きれて、酉の三月中旬にはじめて信長持の国東美濃へ取懸、岩村の城を信玄公御先衆に四郎殿·典厩·穴山三人を警固としてせめ給ふ時、信長一万ばかりの人数にて大物見に出る、馬塲美濃守八百の備へにてかこるを見て、岩村の落城にもかまはず信長早々引入て、岩村きりが城を信玄公へ取給ふ其右十日の間に東美濃かんの大寺まで信玄公御手に入候といへども信長終に出あはず候事、
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『甲陽軍鑑』品第十四惣別信玄公の合戦は働き前へに取りかけんと、思ふ国のゑづをもつて、各守侍大将打ち寄り、其国の嶮難の塲をさたして、一の手·二の手·横鎗·脇備·後備·小荷駄奉行所に依りてまほる旗遊軍·押勢などゝ申す事わり候ひて、卒爾にがけなどへころびおつる儀いづかたにても、さのみ無之、左様にいたすを甲州の軍法といふ、但しかり田などにゆき人夫の一二人は在々などにて、自然穴へおつることも有るべし、味方が原合戦の刻みがけへ落ちたる武田武者一人もなく候、家康武者もみだりに北たる衆なければ、結句馬塲美濃守は浜松衆の体皆勝負をして死する故、此方へ向きたると信玄公御前にて家康衆をあさからずほめ候、信長衆佐久間右衛門は合戦にあはず浜松の城に迯げ入り、其外六七手は其夜に吉田岡崎迄落ちつるときく、是れは味方が原の儀馬をいるゝと云ふに付ての事、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十今明年の間に右の家康と一戦なうてかなふまじ、さあるに付ては信長も後をかんがへ、今こそ当家と縁辺の無事なり共、家康へ信長加勢あらば両家を相手になされ、信玄公合戦をとげられ、都までほまれのためなれば、是には猶以て軍法のいる所なりと穴山殿に馬塲美濃守申きかす也穴山伊豆守殿馬塲美濃守に又とはるゝ、