甲陽軍鑑 / 品第四十
家康此ほどの國持ちなれども、道理非をわけたる大將故、如此惡き大將ならば馬をころしたるとて三左衞門に腹を切らせん、家康はさなくして赦免の儀國持大將のくはしきせんさく手本是也と存知、高坂彈正が爰に書きしるすなり、
新字:家康此ほどの国持ちなれども、道理非をわけたる大将故、如此悪き大将ならば馬をころしたるとて三左衛門に腹を切らせん、家康はさなくして赦免の儀国持大将のくはしきせんさく手本是也と存知、高坂弾正が爰に書きしるすなり、
書き下し
家康此ほどの国持ちなれども、道理非をわけたる大将故、如此悪き大将ならば馬をころしたるとて三左衛門に腹を切らせん、家康はさなくして赦免の儀国持大将のくはしきせんさく手本是也と存知、高坂弾正が爰に書きしるすなり、
現代語訳
家康はこのほどの国持ちであるけれども、道理と非を分けた大将であるゆえにこのとおりである。悪い大将ならば、馬を殺したとて三左衛門に腹を切らせよう。家康はさもなくして赦免の儀、国持大将の詳しき詮索の手本はこれであると存じ、高坂弾正がここに書き記すのである。
解説
敵方の大将の裁きを、手本として書き留めている。悪い大将なら馬一頭のために腹を切らせただろうところを、家康は許した。人と馬のどちらが重いかを取り違えないことを、詮索の細かさと呼んでいる。人と馬のどちらが重いかを取り違えないことを、詮索の細かさと呼んでいる。敵方の大将の裁きを、手本としてそのまま書き留めている。
この章句が説くこと
家康赦免道理詮索手本高坂
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