甲陽軍鑑 / 品第四十八
其節辻彌兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大將の山縣前にかしこまりゐる、山縣大きにいかつてみかたの引とらざる內にもどりたると有儀にて、辻彌兵衛を山縣三郞兵衞しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戰に山縣手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻彌兵衞と申す此者十七歲の九月初陣より二十九歲の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲數なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の國府にての儀は信玄公御病氣なれば、歸陣有て來春甲府にて下さるべしとて御感狀出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
新字:其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
書き下し
其節辻弥兵衛鑓下の高名して、ひざの口をのぶかに射られ、其矢をぬかずして、とりたるくびを持てきたり大将の山県前にかしこまりゐる、山県大きにいかつてみかたの引とらざる内にもどりたると有儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛しかりて塲をおひたつる、其後又味方が原合戦に山県手にて一番鑓はらみ石源右衛門、二番鑓辻弥兵衛と申す此者十七歳の九月初陣より二十九歳の三月までの間に遠州みつけにての物見をそへ以上十度の塲数なり、但し信玄公御證文は三ならでもたず、仔細はみかたが原見付の国府にての儀は信玄公御病気なれば、帰陣有て来春甲府にて下さるべしとて御感状出でざる間、翌年三月の公事なる故によつて御證文三ツならでなし、
現代語訳
その節、辻弥兵衛が鑓下の高名をして、膝の口を野深に射られ、その矢を抜かずして、取りたる首を持ちて来たり、大将の山県の前に畏まり居る。山県は大きに怒って、味方が引き取らざる内に戻りたるとある儀にて、辻弥兵衛を山県三郎兵衛が叱りて場を追い立つる。その後また味方が原合戦に山県手にて、一番鑓は原見石源右衛門、二番鑓は辻弥兵衛と申す。この者は十七歳の九月の初陣より二十九歳の三月までのあいだに、遠州見付にての物見を添え、以上十度の場数なり。ただし信玄公の御証文は三ならで持たず。子細は、味方が原・見付の国府にての儀は信玄公が御病気なれば、帰陣あって来春甲府にて下さるべしとて御感状が出でざるあいだ、翌年三月の公事なるゆえによって御証文は三つならでなし。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十八辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、
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『甲陽軍鑑』品第四十八右の辻六郎兵衛武辺二十八度の塲数にて、御證文十七給はるとあるは首尾不合のやうなれども、惣別武辺十度の塲数には證文下さるゝほどなるは二度相おほくして、三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて山県同心の内にて若手には辻弥兵衛·和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門·今福求ノ介是両人も若手の武士なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八則ち其年九月十日に川中島合戦の時、右の辻弥兵衛よき者をうつて手疵二ケ所かうふる、翌年松山陣の時、山県三郎兵衛一手にてみのわへはたらく時、日の内に三度せりあひに三度ながら辻弥兵衛首尾を合する山県下にて鑓をあはせ候者は初めの度、古畑伯耆·小菅五郎兵衛·鑓下の高名は長坂宮内左衛門·早川弥三左衛門·辻弥兵衛、二度目のせりあひに鑓合するは広瀨郷左衛門·みしな内膳·西巻監物鑓下の高名、辻弥兵衛·和田賀助·渡辺三左衛門右三人目の三左衛門是は山県被官なり、又三度のせりあひに、鑓は上野豊後·早川弥三左衛門·辻弥兵衛鑓下の高名、猪子才蔵·広瀨郷左衛門·曲淵庄左衛門·此庄左衛門は前両度のせりあひに両度ながら人を討、少しづゝ手負候へ共、ぬきんでたる高名なきとて三度めに鑓下の高名也、
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『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、
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『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十八さありて広瀨·みしなにさいはいをゆるさねば山県大ぞなへにて人数まはりかぬる、まはりかぬれば自らほさきもよはきやうになる、よはければ合戦·せりあひにをくれをとるぞ、をくれをとれば三郎兵衛が負といはず信玄がまけと云、我ためにて有ほどに、広瀨·みしながさいはいに辻弥兵衛遺恨は相やめてくれ候へ、其方などにも、さいはいゆるしてもよからんずれ共、当時新羅三郎公より武田家の作法にて、侍大将せぬ者に四十をこさねばさいはいゆるさゞる軍法なれば、かた〳〵もつて信玄に免じて物いひすべからず、