甲陽軍鑑 / 品第四十七
扨て件の志村金ノ助度々の手がらにて有りつるが時田合戰に討死する、其子に志村金右衛門と申す、飯富兵部御成敗ありて後、兵部同心諸手へわけらるゝ、此志村金右衞門をば板垣殿へ付け下さるゝ、板垣家中にても平原宮内ノ介·志村金右衞門とて兩人わか手の持く侍なり如件、
新字:扨て件の志村金ノ助度々の手がらにて有りつるが時田合戦に討死する、其子に志村金右衛門と申す、飯富兵部御成敗ありて後、兵部同心諸手へわけらるゝ、此志村金右衛門をば板垣殿へ付け下さるゝ、板垣家中にても平原宮内ノ介·志村金右衛門とて両人わか手の持く侍なり如件、
書き下し
扨て件の志村金ノ助度々の手がらにて有りつるが時田合戦に討死する、其子に志村金右衛門と申す、飯富兵部御成敗ありて後、兵部同心諸手へわけらるゝ、此志村金右衛門をば板垣殿へ付け下さるゝ、板垣家中にても平原宮内ノ介·志村金右衛門とて両人わか手の持く侍なり如件、
現代語訳
さて、かの志村金ノ助は度々の手柄にてありつるが、時田合戦に討死する。その子に志村金右衛門と申す。飯富兵部が御成敗ありて後、兵部の同心は諸手へ分けられる。この志村金右衛門をば板垣殿へ付け下さるる。板垣家中にても、平原宮内ノ介・志村金右衛門とて、両人は若手の持く侍である、件のごとし。
解説
裁きで守られた側の後日が書かれる。手柄を重ねて討死し、その子はまた別の家中で若手の柱になった。上役が失脚しても、人は他の組に分けられて残る。一人を裁く判断が、二代先まで続いている。一人を裁く判断が、二代先まで続いている。守られた側は手柄を重ねて討死し、その子はまた別の家中で若手の柱になったと記される。
この章句が説くこと
志村討死子板垣若手後日
関連する章句
-
説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
-
『墨子』耕柱公孟子曰く、「君子は作らず、術ぶるのみ」と。子墨子曰く、「然らず。人の其れ君子ならざる者は、古の善き者は誅がず、今や善き者は作らず。其の次に君子ならざる者は、古の善き者は遂げず、已に善有れば則ち之を作り、善の己より出でんことを欲す。今、誅ぎて作らざるは、是れ遂ぐるを好まずして作る者に異なる所無きなり。吾れ以為えらく、古の善き者は則ち之を誅ぎ、今の善き者は則ち之を作り、善の益ます多からんことを欲すと」と。
-
説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
-
論語・里仁篇子曰く、三年父の道を改むること無きは、孝と謂う可し。
-
尚書・大誥考室を作るが若く、既に法を厎すも、厥の子乃ち堂を肯えてせず、矧んや構を肯えてせんや。