甲陽軍鑑 / 品第四十
家康よのつねならず恭なく返事を被成、其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし、此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に、是はさせる儀にてなきと存候てこそ、すゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覽あり、其書付を御手へ取り給ひ、しばらく目をふさぎまし〳〵て後、御眼をひらき宣ふは、
新字:家康よのつねならず恭なく返事を被成、其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし、此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に、是はさせる儀にてなきと存候てこそ、すゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覧あり、其書付を御手へ取り給ひ、しばらく目をふさぎまし〳〵て後、御眼をひらき宣ふは、
書き下し
家康よのつねならず恭なく返事を被成、其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし、此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に、是はさせる儀にてなきと存候てこそ、すゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覧あり、其書付を御手へ取り給ひ、しばらく目をふさぎまし〳〵て後、御眼をひらき宣ふは、
現代語訳
家康は世の常ならずかたじけなく返事をなされ、その桃を隠して捨て、家康は食べられる事がない。この儀を天野宮内右衛門が書き付けて上げる。一つ書きの多い中に、これはさしたる儀ではないと存じてこそ、末にいかにも粗相に書いたのを信玄公がご覧になり、その書付を御手へ取られ、しばらく目を塞いでおられた後、御眼を開いて宣われるには。
解説
報告した本人が、たいしたことではないと思って末尾に粗末に書いた一件である。ところが信玄はその書付を手に取り、しばらく目を閉じてから口を開く。報告する側と読む側とで、同じ事実の重みがまったく違っている。報告する側と読む側とで、同じ事実の重みがまったく違っている。末尾に粗末に書かれた一件を、信玄は手に取ってしばらく目を閉じている。
この章句が説くこと
家康桃報告重み信玄読み
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十もろ〳〵のさかひめ、侍大将衆へ近国·他国の大将の行儀·作法·仕形·聞出し次第·善悪共に一ッ書にて言上いたせとあるに付、或年遠州いぬい天野宮内右衛門と申す侍大将の所より進上仕る書付に、美濃の岐阜織田信長へまはり一尺の桃三ツなりたるを枝折りに仕り、霜月中の十日にあげつれば、信長指し引きのさへたる名大将にて、うへはことをやぶりても、内心には時により一段ねれたる事の多き武士にてましませば、右の桃を大きに心いはひして、一ツは信長きこしめし、又一ツは嫡子城之助信忠へ参らせられ、三ツめをば遠州浜松徳川家康公へ送り給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十是は歌をよむか、物を書か、家康つはさを長閑存知たらば申せとある、長閑承り此家康事は一文不通の人にて、少も花車なる事なくして一段無道なると申ならはし候と申せば、信玄公御諚には国もちの武功なくして、花車成は結句賤しきにたとへたり、又国もちの武篇して無能なるは、いたりて花車なると、これをいふ子細は、
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『甲陽軍鑑』品第四十これをいふ子細は、信玄は若き時、鷹野へ出て在々の家を見つるに、石臼と云ふ物は種々の用にたて共、百姓さへ座敷へはあげぬなり、扨又茶臼と云ふ物は、茶を引一種なれ共、是は又侍の所にて一入馳走いたす、信玄が見立は家康が無能は茶臼、氏政·氏真手跡の能と、歌の作は只石臼のごとしと信玄公の御批判なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨て家康は義元公討死より以降十年内外の国持ちなるが、駿河さかりの作法をおさなくて見きいたる儀ならん、信玄公の奉行衆公事さばく、様子に少し相似たるごとくなり、何にても公事の落着はめづらしき事きかね共、それは昨今の家康国持なる故、各々の感じ給ふことはまだ十年過ぎてもあるまじ、あの若き家康申付る三人の奉行に三様の形義をいひつけたるとみへて、仏かうりき·鬼作左·どちへんなしの天野三兵と浜松にて落書にたてたると聞く、