甲陽軍鑑 / 品第四十
一又或る夜信玄公仰せらるゝは工夫と思案のかはるごとく、分別と才覺とは別ならん子細は、世間にありて才覺のなき人もあり、才覺ありて又分別なき者もあり、されば手を付ていはねば、若き者知惠つかざる間、かれが爲になづけて申さば、分別は心にてする、才覺は氣のきいたる者のわざなり、分別者には越度まれなり、才覺ばかりで分別なきはあやまりおほし物しりたる人の上には批判いかほども有べし、それは無學の若者合點まれなり一或る時信玄公仰らるゝ、
新字:一又或る夜信玄公仰せらるゝは工夫と思案のかはるごとく、分別と才覚とは別ならん子細は、世間にありて才覚のなき人もあり、才覚ありて又分別なき者もあり、されば手を付ていはねば、若き者知恵つかざる間、かれが為になづけて申さば、分別は心にてする、才覚は気のきいたる者のわざなり、分別者には越度まれなり、才覚ばかりで分別なきはあやまりおほし物しりたる人の上には批判いかほども有べし、それは無学の若者合点まれなり一或る時信玄公仰らるゝ、
書き下し
一又或る夜信玄公仰せらるゝは工夫と思案のかはるごとく、分別と才覚とは別ならん子細は、世間にありて才覚のなき人もあり、才覚ありて又分別なき者もあり、されば手を付ていはねば、若き者知恵つかざる間、かれが為になづけて申さば、分別は心にてする、才覚は気のきいたる者のわざなり、分別者には越度まれなり、才覚ばかりで分別なきはあやまりおほし物しりたる人の上には批判いかほども有べし、それは無学の若者合点まれなり一或る時信玄公仰らるゝ、
現代語訳
またある夜、信玄公が仰せられるには、工夫と思案が変わるように、分別と才覚とは別であろう。その子細は、世間にあって才覚のない人もあり、才覚があってまた分別のない者もある。であるから、手を付けて言わなければ若い者は知恵がつかないので、彼らのために名付けて申すならば、分別は心でする。才覚は気の利いた者の業である。分別のある者には落ち度が稀である。才覚ばかりで分別がないのは誤りが多い。物を知った人のうえでは批判がいくらでもあろう。それは無学の若者には合点が稀である。
解説
この章句が説くこと
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