甲陽軍鑑 / 品第四十
右申平野久助もからめ手にては此者一人鎗をあはせ是も信玄公御褒美被下候へ共、塲所のかわりたるに大熊備前をねたみそねみ、種々の事を申て大熊をそしれば、我手前あかると無案內なるせんさく故、彼久助を追出し候へば目安をかきて信玄公へ申上る、件の樣子それがしも言上いたせば、信玄公さやうの者はかならずぶせんさくにて、縱へ手がらあり共めてくちなる侍にも同前なり相木とて御内儀を得、扶持をはなせば我等むこにて候、
新字:右申平野久助もからめ手にては此者一人鎗をあはせ是も信玄公御褒美被下候へ共、塲所のかわりたるに大熊備前をねたみそねみ、種々の事を申て大熊をそしれば、我手前あかると無案内なるせんさく故、彼久助を追出し候へば目安をかきて信玄公へ申上る、件の様子それがしも言上いたせば、信玄公さやうの者はかならずぶせんさくにて、縦へ手がらあり共めてくちなる侍にも同前なり相木とて御内儀を得、扶持をはなせば我等むこにて候、
書き下し
右申平野久助もからめ手にては此者一人鎗をあはせ是も信玄公御褒美被下候へ共、塲所のかわりたるに大熊備前をねたみそねみ、種々の事を申て大熊をそしれば、我手前あかると無案内なるせんさく故、彼久助を追出し候へば目安をかきて信玄公へ申上る、件の様子それがしも言上いたせば、信玄公さやうの者はかならずぶせんさくにて、縦へ手がらあり共めてくちなる侍にも同前なり相木とて御内儀を得、扶持をはなせば我等むこにて候、
現代語訳
右に申す平野久助も搦手ではこの者一人が槍を合わせ、これも信玄公の御褒美を下されたけれども、場所が違うのに大熊備前を妬み嫉んで、種々の事を申して大熊を謗るので、我が手前が上がると不案内な詮索のゆえに、かの久助を追い出したところ、目安を書いて信玄公へ申し上げる。くだんの様子はそれがしも言上いたせば、信玄公は、そのような者は必ず詮索がなくて、たとえ手柄があっても攻め口である侍にも同前であると。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十一山県三郎兵衛土屋にかたりていはく、兵にもぶせんさくなる侍は家中さだちてあしゝ、其いはれは平野久助といふ我等同心大略の者なりしが、上州みのわにて、それがしそなへを二ッにわけ、小菅五郎兵衛を将にして侍七十騎のうちに、右平野久助も入て搦手をおさへ、又一方は、ほうばう寺の一の門へおしよせ、我等下知仕る敵剛の武士共にて追手·からめ手共について出、勝負の時はたもとより加勢にまいられ、城内のやしまと鎗を合せ、手をおい引とらるゝ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七名人なる御屋形にて其辺に聞召し指置給ひて、其後本奉行衆を召て公事の様子さたなされ、就中此彥介が公事は源五郎横奉行の時、やがて指次に有之所に、平三郎おごらぬもやうなるにより平三郎を一入褒美なさるゝに付て、源五郎が平三郎をねたみて、彥介をよび讒言するやう、
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『甲陽軍鑑』品第四十信州あひき所へはしりこみ、山県三郎兵衛に侘言ありて給はれとて、備をかりて居ながら、あひきうちの丸田と云侍の手がらしたるを、右の通りに様々いひて後、喧嘩をいたし、しかもさん〳〵ふりあしうて、在々のかぶあなへにげいり、殊外最後わるく相果候、とかくぶせんさくなる者は一段よきようにても終に仕形あしく候へば、武士はせんさくにきわまりたり、山県土屋に物語り申され候なり、
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『甲陽軍鑑』品第四十就中よき武士他国より来る類親なき者、手がらの儀ひいき〳〵に申につき、信玄公度々御諚に、おのれがぬき出たる手がらをして、大略にいはるゝは、何程口惜からんと分別してみよ、そこの程をかんがうる者は、かならず中悪き人の事をも、ありように云ふを、其手抦をそしらぬ侍の我身にかけて大きなる武篇をいたす儀と、又よし贔負おほうして種々作ことをいひ、
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『甲陽軍鑑』品第四十此方ちとめてくちの時、越後牢人大熊備前我等同心の時、敵に指物をとられ、おしこみ、指物とりたる敵をうち、指物に敵のしるしをそへて帰る、むるいのはたらき是なりと信玄公はめなさるゝ時、
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『甲陽軍鑑』品第四十目付衆·横目衆頓而御耳に立る、信玄公きこしめし、長坂長閑·石黒豊前·ごみ新右衛門を御使になされ、則ち書立をもつて仰下さるゝ、其御書の趣き南部下野·山本勘介と云ふ大剛の兵を悪口の事ぶせんさくなる儀なり一山本勘介小身成者の城取·陣取まことしからぬとある儀、