甲陽軍鑑 / 品第四十
一上州むさしのさかい鬼のつらと云ふ所にて、敵馬上五騎のところへ四郞殿と秋山紀伊守と二騎の中に四郞殿はやくのりつけなされ、河中にて五騎のうち一騎きりおとし給ふ事、一去々年信玄公小田原御發向の時、武州瀧山三のくるはをせめおとしなさるゝ刻、北條奧州家老諸岡山城と鑓をあはせらるゝ事、一小田原のき口の時しんがりをなさるゝ酒匂に、松田が家老酒井と云ふ侍と、たがひに馬上にて手と手をとりあふほどの事、小田原より佐川の間にて四度御座候事一右の翌日に、みまぜにて馬塲美濃殿小勢故、敵ともみあひ勝負つかざる所を、勝賴公自身鑓とつて、よこ鑓に入くづし給ふは信玄公御眼前にて候、
新字:一上州むさしのさかい鬼のつらと云ふ所にて、敵馬上五騎のところへ四郎殿と秋山紀伊守と二騎の中に四郎殿はやくのりつけなされ、河中にて五騎のうち一騎きりおとし給ふ事、一去々年信玄公小田原御発向の時、武州滝山三のくるはをせめおとしなさるゝ刻、北条奥州家老諸岡山城と鑓をあはせらるゝ事、一小田原のき口の時しんがりをなさるゝ酒匂に、松田が家老酒井と云ふ侍と、たがひに馬上にて手と手をとりあふほどの事、小田原より佐川の間にて四度御座候事一右の翌日に、みまぜにて馬塲美濃殿小勢故、敵ともみあひ勝負つかざる所を、勝頼公自身鑓とつて、よこ鑓に入くづし給ふは信玄公御眼前にて候、
書き下し
一上州むさしのさかい鬼のつらと云ふ所にて、敵馬上五騎のところへ四郎殿と秋山紀伊守と二騎の中に四郎殿はやくのりつけなされ、河中にて五騎のうち一騎きりおとし給ふ事、一去々年信玄公小田原御発向の時、武州滝山三のくるはをせめおとしなさるゝ刻、北条奥州家老諸岡山城と鑓をあはせらるゝ事、一小田原のき口の時しんがりをなさるゝ酒匂に、松田が家老酒井と云ふ侍と、たがひに馬上にて手と手をとりあふほどの事、小田原より佐川の間にて四度御座候事一右の翌日に、みまぜにて馬塲美濃殿小勢故、敵ともみあひ勝負つかざる所を、勝頼公自身鑓とつて、よこ鑓に入くづし給ふは信玄公御眼前にて候、
現代語訳
一、上州と武蔵の境の鬼のつらという所で、敵の馬上五騎の所へ四郎殿と秋山紀伊守と二騎のうち、四郎殿が早く乗りつけなされ、河中で五騎のうち一騎を斬り落とされた事。一、一昨年、信玄公が小田原へ発向の時、武州滝山の三の曲輪を攻め落とされる折、北条奥州の家老の諸岡山城と槍を合わせられた事。一、小田原の退き口の時、殿をなされた酒匂で、松田の家老の酒井という侍と、互いに馬上で手と手を取り合うほどの事。小田原から佐川のあいだで四度ございました事。一、右の翌日に、みまぜで馬場美濃殿が小勢ゆえに敵ともみ合い、勝負がつかない所を、勝頼公が自身で槍を取って横槍に入り崩されたのは、信玄公の眼前でございます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十山県阿部にとはるゝ、貴方功者故、四郎殿へかひぞへになされ、信州伊奈たかとふにゐらるこが、四郎勝頼の御作法は立入て見奉るに何様に御座候ぞと山県尋る、阿部則ち四郎殿武篇揚数を指折てかそふる、一去る永禄六年上州みのわ椿山にて四郎殿十八歳の時、初陣に長野が内にて覚へ有、藤井豊後物見に出て帰るを追懸、組討になさるゝ、其儀御屋形信玄公へ深く隠し申候、飯富兵部殿見給ひて我等に腹をきらせんと御呵り候事、
-
『甲陽軍鑑』品第四十四郎殿の御さた何共仰られず候一去年の正月駿州花沢にて門脇の左の方ひきみへ、五人つゝそれも四郎殿·名和無理介·長閑·諏訪越中·初鹿伝右衛門五人なり、我等は朝もこを少し鉄砲にさへられ其塲へ参らず候事、一去年四月廿八日に越後国の輝虎小田原北条殿に頼まれ、信州のくびきし長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに、伊奈より四郎殿夜がけになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿八百の備にて合戦をかけらるゝ所に、謙信四郎殿と聞、ほめてなみだをながし、無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて参河·遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郎殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て、扨は四郎殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大将の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山県三郎兵衛申されて座敷を立なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十但し殿にさがりて物見する侍二騎残りたるを四郎殿乗つけ一騎切ておとしなさる、其刻我等もやう〳〵つどき申、今一人の者を切おとし候へば、さすがの謙信衆も、のき口早々にて右両人をすてゝ引とらるこ、我等の切おとしたる者は元来趙遥軒の被官に落合彥介と申す各御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手にて候、
-
『甲陽軍鑑』品第四十三こゝをもつて信玄公油断强敵とある事を専ら思し召し関東·越後·美濃·尾張·三河諸国の武士をまねき、其国この武辺形義しつて戦ひ勝て後、猶以て甲のゝをしむるとの儀にて、すこしもそゝけたるはたらきこれなき信玄公の軍法也、此儀を勝頼公非義と思し召し、信玄公にましたる働き候、御心懸け卒爾に分別あそばす故、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八次の日は山県·松山信玄公御陣所へ帰陣也、さて其後辻弥兵衛富士の大宮神田屋敷において半月の指物をさしたる敵九人出たるを、尾州牢人猪子才蔵と辻弥兵衛と両人にて、敵働らかれぬ細道ゆへか鑓をもちて、ふたきどつゐておしこむ、各味方つゞいて、二木戸ながら破るは悉皆件の才蔵·弥兵衛が大剛强のはたらきゆへ也、中にも弥兵衛は半月指たる者を一人つきふせて討なれば、結句老功の才蔵よりはこしたると云ふ義を信玄公御前にて猪子才蔵がくわしく言上いたし候、