甲陽軍鑑 / 品第四十八
御主殿に於て廣瀨郷左衛門·みしな肥前兩人、一方は又辻彌兵衛左右方の申分あり、先廣瀨·みしな申す、公事は何樣の者共仕べく候へども、武邊·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼彌兵衛永祿四年川中島合戰初陣にて當年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武邊の御證文とても二三の儀なり、
新字:御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、
書き下し
御主殿に於て広瀨郷左衛門·みしな肥前両人、一方は又辻弥兵衛左右方の申分あり、先広瀨·みしな申す、公事は何様の者共仕べく候へども、武辺·公事の儀はあひ手によりての儀にて御座候、彼弥兵衛永禄四年川中島合戦初陣にて当年まで十三ヶ年ならで陣は仕候はず候、其上未だ年も二十九歳、武辺の御證文とても二三の儀なり、
現代語訳
御主殿において広瀬郷左衛門・三品肥前の両人、一方はまた辻弥兵衛、左右方の申し分あり。まず広瀬・三品が申す。公事はどのような者どもも仕るべく候えども、武辺公事の儀は相手によりての儀にて御座候。かの弥兵衛は永禄四年の川中島合戦が初陣にて、当年まで十三か年ならで陣は仕り候わず候。そのうえ、いまだ年も二十九歳。武辺の御証文とても二つ三つの儀なり。
解説
訴えを受けた側は、まず相手が同じ土俵に立てるかを問う。十三年しか陣に出ておらず、年も二十九、証文も二つ三つだと数える。中身に入る前に、争う資格から削りにかかっている。中身に入る前に、争う資格から削りにかかっている。年数、年齢、証文の数という三つの数字を並べて、まず土俵の外へ押し出そうとする論法である。
この章句が説くこと
武辺公事資格年数証文広瀬三品
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十八扨又此公事の意趣は山県三郎兵衛同心小菅五郎兵衛には山県三郎兵衛従弟といひ、かた〳〵もつての儀なれば、駿河はじめて出張の時六年先にざいをゆるし給ふ、それは辰の年なり、さありて此度広瀨·みしな両人にも小菅なみに、ざいをゆるし下さるゝは六年後酉年なり、辻弥兵衛是れを聞て目安をかき広瀨·みしな両人をあひてにて武辺公事を仕る、奉行は真田喜兵衛·曽根内匠·三枝勘解由左衛門·今井新左衛門四人なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八右の辻六郎兵衛武辺二十八度の塲数にて、御證文十七給はるとあるは首尾不合のやうなれども、惣別武辺十度の塲数には證文下さるゝほどなるは二度相おほくして、三度ならでなき物なれども、此辻弥兵衛がはたらきは十度の内九度は非だちのいらざるつよみなり、さるほどに辻弥兵衛差物はあかねのふきぬき、和田加介は白き練のふきぬきにて山県同心の内にて若手には辻弥兵衛·和田加介両人なり、又長坂宮内左衛門·今福求ノ介是両人も若手の武士なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八みしな申は、それは又我等広瀨度々手抦をあらはしたる故なりと申す、辻弥兵衛申すは、手抦も人にこされたるは深き儀にては有まじといへば、みしな申すは、広瀨·我等こしたる人はあまり覚へずといふ、辻弥兵衛申すは、旁はさすがのうでぬきをさする衆が武辺の儀に首尾不合なりといへば、みしな申すは、なにか口の違たる事ありやといへば、辻弥兵衛申すは、さいはいを手にかくる人より上の武士有間敷といひながら、今年さいをゆるされ申候て其以前三十年の間人にすぐれたると云ふは、さて首尾不合にてはなきと申て辻弥兵衛大きに笑へば、みしな一口もあかず、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八ここに甲州東郡にのろと云ふ在所に辻弥兵衛と申て其年二十九歳になる侍山県三郎兵衛が同心なり、此若者、父は辻六郎兵衛とて信玄公の外様近習四十五騎の内なり、武篇は二十八度の塲数有り、大剛の兵にて、信州かいづの小幡山城入道日意が好んでむこにいたす程の武士なれば、甲州において、米倉一党·辻一党両侍の一類に臆病なる者一人も無之、類親広き中に米倉一党に丹後守·辻一党に六郎兵衛是れ両人は一入名を得たる覚への兵なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八そこにてみしな申は、さいはいを手にかくるより上の兵は有まじといへば、辻弥兵衛申は、さあらばかた〳〵の三十一年こうさをつむ事は諸傍輩におとりたる儀を、何とて日来山県三郎兵衛同心被官の内に広瀨·みしな両人をこしたる覚への者有間敷と、いんげんを申つるぞ、さいはいは今年今月こそ免され申せといへば、
-
『甲陽軍鑑』品第四十八辻弥兵衛申すは、尤もかた〳〵の塲数は、いんげんに及ばぬ人の存知たる儀なり、さりながら我等罷出ぬ以前は、それがし親の辻六郎兵衛と申者、各も少しは御存知あらん、六郎兵衛も武辺塲数の御證文十七迄戴き候て外様近習の内に人をこせ共終に人にこされず、度々の手疵をかうふり、あら勝負を仕り、殊に十三年以前に信州わりが嶽にて、当家にかくれなき覚の名人なれば近国·他国まで名高き原美濃殿に立合、則ち其塲にて討死いたす其はたらきは原入道信玄公へ直札申上られ候、其かくれ有まじ、