甲陽軍鑑 / 品第四十二
明けくれ雜談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂彈正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成樣申上る一山縣三郞兵衞御働きなされてよきとすゝめ申上る一內藤修理何方へ御働きと指圖申上る、其樣子は北條家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、關東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと樣子を積りて內藤申上る一高坂彈正者二ツなく敵國へふかく働き或は御一戰必ず御延引と計り申上、能く隱密するにより働きまへにしれず、但し侍大將衆は存候なり一文のいる事には小山田彌三郞をめして、七書·五經の古語をいはせて聞給ふ一何國先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衞門·眞田喜兵衞·曾根內匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他國にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他國より御客來の挨拶、又は狀文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の兩人なり、
新字:明けくれ雑談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂弾正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成様申上る一山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る一内藤修理何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、関東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと様子を積りて内藤申上る一高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き或は御一戦必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより働きまへにしれず、但し侍大将衆は存候なり一文のいる事には小山田弥三郎をめして、七書·五経の古語をいはせて聞給ふ一何国先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衛門·真田喜兵衛·曽根内匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他国にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他国より御客来の挨拶、又は状文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の両人なり、
書き下し
明けくれ雑談を聞給ふ故なりと馬塲美濃高坂弾正に語る也信玄公軍法之御挨拶人一馬塲美濃軍の被成様申上る一山県三郎兵衛御働きなされてよきとすゝめ申上る一内藤修理何方へ御働きと指図申上る、其様子は北条家をかすめ給ふにも、伊豆か相摸か、はちかたか、関東にては新出·足利か、家康にては遠州か三河か信長東美濃か、扨は越後かと様子を積りて内藤申上る一高坂弾正者二ツなく敵国へふかく働き或は御一戦必ず御延引と計り申上、能く隠密するにより働きまへにしれず、但し侍大将衆は存候なり一文のいる事には小山田弥三郎をめして、七書·五経の古語をいはせて聞給ふ一何国先方衆にも疑ひ有るなしの御用心の事は土屋右衛門尉·三枝勘解由左衛門·真田喜兵衛·曽根内匠申上るに少しも私しなし一陣取、或は他国にて陣塲をみたつる事原隼人佐次第に被成候也一他国より御客来の挨拶、又は状文の取引は跡部大炊介·長坂長閑是の両人なり、
現代語訳
明け暮れ雑談を聞き給うゆえであると、馬場美濃が高坂弾正に語るのである。信玄公の軍法の御挨拶人。一、馬場美濃は軍のなされ様を申し上げる。一、山県三郎兵衛は御働きなされてよいと勧め申し上げる。一、内藤修理はどちらへ御働きかと指図を申し上げる。その様子は、北条家を掠め給うにも、伊豆か相模か、八形か、関東にては新田・足利か、家康にては遠州か三河か、信長は東美濃か、さては越後かと様子を積もって内藤が申し上げる。一、高坂弾正は二つなく、敵国へ深く働き、あるいは御一戦は必ず御延引と、ばかり申し上げ、よく隠密するにより働きの前に知れず。ただし侍大将衆は存じ候なり。一、文の要る事には小山田弥三郎を召して、七書・五経の古語を言わせて聞き給う。一、何国の先方衆にも疑いのあるなしの御用心の事は、土屋右衛門尉・三枝勘解由左衛門・真田喜兵衛・曾根内匠が申し上げるに、少しも私がない。一、陣取り、あるいは他国にて陣場を見立てる事は原隼人佐次第になされ候なり。一、他国より御客が来ての挨拶、または状文の取引は跡部大炊介・長坂長閑、この両人である。
解説

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『韓非子』難一第三十六仲尼之を聞きて、曰く、「文公の霸たるや宜なるかな。既に一時の権を知り、又万世の利を知る」と。或ひと曰く、雍季の対は、文公の問ひに当たらず。凡そ問ひに対ふる者は、問ひの小大緩急に因りて対ふること有るなり。問ふ所高大にして、対ふるに卑狭を以てすれば、則ち明主受けざるなり。今文公「少を以て衆に遇ふ」を問ひて、対へて「後必ず復び無し」と曰ふ、此れ応ずる所以に非ざるなり。且つ文公は一時の権を知らず、又万世の利を知らず。戦ひて勝てば、則ち国安くして身定まり、兵強くして威立つ、後復び有りと雖も、此より大なるは莫し、万世の利奚ぞ至らざるを患へん。戦ひて勝たざれば、則ち国亡び兵弱く、身死して名息む、今日の死を抜拂するも及ばず、