甲陽軍鑑 / 品第四十八
此さたありて其翌日に板坂法印へ振舞として、馬塲美濃·山縣·内藤·高坂·小山田、其外足輕大將四五人大身小身ともに中老より下の衆、若功者たちばかりよばれて參らるゝ、侍大將の中に內藤修理殿、足輕大將の中に橫田十郞兵衞、此兩人寄合たる座敷にては種々の物まねをし或ひは理究つめをいふて中々物のなりも聞へぬほどいつもおどけごと申人達なり、然れば内藤殿申さるゝは横田に右の公事四奉行のさばき、それ〳〵を批判してみよとあれば、橫田十郞兵衞、文武二道にて智惠才覺にあまり、賢こき辯說きゝ、ことに物云ふ侍なる故則ち申す、
新字:此さたありて其翌日に板坂法印へ振舞として、馬塲美濃·山県·内藤·高坂·小山田、其外足軽大将四五人大身小身ともに中老より下の衆、若功者たちばかりよばれて参らるゝ、侍大将の中に内藤修理殿、足軽大将の中に横田十郎兵衛、此両人寄合たる座敷にては種々の物まねをし或ひは理究つめをいふて中々物のなりも聞へぬほどいつもおどけごと申人達なり、然れば内藤殿申さるゝは横田に右の公事四奉行のさばき、それ〳〵を批判してみよとあれば、横田十郎兵衛、文武二道にて智恵才覚にあまり、賢こき弁説きゝ、ことに物云ふ侍なる故則ち申す、
書き下し
此さたありて其翌日に板坂法印へ振舞として、馬塲美濃·山県·内藤·高坂·小山田、其外足軽大将四五人大身小身ともに中老より下の衆、若功者たちばかりよばれて参らるゝ、侍大将の中に内藤修理殿、足軽大将の中に横田十郎兵衛、此両人寄合たる座敷にては種々の物まねをし或ひは理究つめをいふて中々物のなりも聞へぬほどいつもおどけごと申人達なり、然れば内藤殿申さるゝは横田に右の公事四奉行のさばき、それ〳〵を批判してみよとあれば、横田十郎兵衛、文武二道にて智恵才覚にあまり、賢こき弁説きゝ、ことに物云ふ侍なる故則ち申す、
現代語訳
この沙汰ありてその翌日に、板坂法印へ振舞いとして、馬場美濃・山県・内藤・高坂・小山田、そのほか足軽大将四五人、大身・小身ともに中老より下の衆、若功者たちばかりが呼ばれて参らるる。侍大将の中に内藤修理殿、足軽大将の中に横田十郎兵衛。この両人が寄り合いたる座敷にては、種々の物真似をし、あるいは理詰めを言うて、なかなか物のなりも聞こえぬほど、いつもおどけごとを申す人達なり。しかれば内藤殿が申さるるは、横田に、右の公事の四奉行の裁き、それぞれを批判してみよとあれば、横田十郎兵衛は文武二道にて智恵・才覚にあまり、賢き弁説を聞き、ことに物言う侍なるゆえ、すなわち申す。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『墨子』公孟程子曰く、「甚だしいかな、先生の儒を毁るや」と。子墨子曰く、「儒に固より此の各の四政無くして、我れ之を言わば、則ち是れ毁るなり。今、儒に固より此の四政有りて、我れ之を言わば、則ち毁るに非ざるなり、聞くを告ぐるなり」と。程子、辭無くして出づ。子墨子曰く、「之に迷えるかな」と。反り、後に坐して、進みて復た曰く、「鄉者、先生の言に聞く可き者有り。若し先生の言のごとくんば、則ち是れ禹を譽めず、桀紂を毁らざるなり」と。子墨子曰く、「然らず。夫れ孰辭に應ずるに、議に稱いて之を為すは、敏なり。厚く攻むれば則ち厚く吾れし、薄く攻むれば則ち薄く吾れす。孰辭に應じて議に稱うは、是れ猶お轅を荷いて蛾を擊つがごときなり」と。
-
『墨子』公孟二三子、子墨子に復して曰く、「告子曰く、『義を言いて行い甚だ惡し』と。請う、之を棄てん」と。子墨子曰く、「不可なり。我が言を稱して以て我が行いを毁るは、亡きに愈れり。人、此に有り、『翟は甚だ不仁なり、天を尊び、鬼に事え、人を愛して、甚だ不仁なり』と。猶お亡きに愈るなり。今、告子は言談甚だ辯にして、仁義を言いて吾を毁らず。告子は猶お亡きに愈るなり」と。
-
孟子・盡心章句下貉稽(ハク・ケイ)曰く、「稽大いに口に理あらず。」孟子曰く、「傷むこと無かれ。士は茲の多口に憎まる。詩に云う、『憂心悄悄たり、羣小に慍らる』とは、孔子なり。『肆(ついに)に厥に慍りを殄(たつ)たず、亦た厥の問を隕とさず』とは、文王なり。」
-
尚書・秦誓人を責むる斯れ難きこと無し、惟れ責めを受けて流るるが如くならしむる、是れ惟れ艱きかな。
-
『韓非子』忠孝第五十一人の臣と為りて、常に先王の德厚を譽めて之を願うは、是れ其の君を誹謗する者なり。・・・其の君を非る者は、天下之を賢とす。此れ亂るる所以なり。
-
論語・憲問篇微生畝、孔子に謂いて曰く、「丘、何為れぞ是れ栖栖たる者ぞ。乃ち佞を為すこと無からんや。」孔子曰く、「敢えて佞を為すに非ざるなり、固を疾むなり。」