甲陽軍鑑 / 品第四十
一或時御舍弟一條殿高坂彈正にとはるゝ、關東の上杉則政は我下手の衆へ三年に一度つミ知行わりありて加恩をあたへ給へと、各のぞみたらばくる日もゆく日も、所領とらんことを思ひ、父管領の代より子息則政の代に三双倍四双倍に身上成たる人もかたじけなく、思はずして內々には則政衆北條氏康へ心をよせたる樣子は、則政の知行くれられたるも、やうありやこのことはりを高坂彈正いひ給へ、きかんと一條右衛門太夫殿いはるれば、
新字:一或時御舎弟一条殿高坂弾正にとはるゝ、関東の上杉則政は我下手の衆へ三年に一度つミ知行わりありて加恩をあたへ給へと、各のぞみたらばくる日もゆく日も、所領とらんことを思ひ、父管領の代より子息則政の代に三双倍四双倍に身上成たる人もかたじけなく、思はずして内々には則政衆北条氏康へ心をよせたる様子は、則政の知行くれられたるも、やうありやこのことはりを高坂弾正いひ給へ、きかんと一条右衛門太夫殿いはるれば、
書き下し
一或時御舎弟一条殿高坂弾正にとはるゝ、関東の上杉則政は我下手の衆へ三年に一度つミ知行わりありて加恩をあたへ給へと、各のぞみたらばくる日もゆく日も、所領とらんことを思ひ、父管領の代より子息則政の代に三双倍四双倍に身上成たる人もかたじけなく、思はずして内々には則政衆北条氏康へ心をよせたる様子は、則政の知行くれられたるも、やうありやこのことはりを高坂弾正いひ給へ、きかんと一条右衛門太夫殿いはるれば、
現代語訳
ある時、御舎弟の一条殿が高坂弾正に問われる。関東の上杉則政は、我が下手の衆へ三年に一度、積み知行の割り当てがあって加恩を与えられ、それぞれが望んだなら、来る日も行く日も所領を取ろうと思い、父の管領の代から子息則政の代に三倍・四倍に身上がなった人も、かたじけなく思わないで、内々では則政衆が北条氏康へ心を寄せた様子は、則政が知行を下されたのにも訳があるのか。この道理を高坂弾正、言われよ、聞きたいと一条右衛門大夫殿が言われれば。
解説
この章句が説くこと
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