甲陽軍鑑 / 品第三十九
以上一四月十一日未の刻より信玄公御氣相あしく御座候て、御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出來、御齒五ツ六ツぬげ、それより次第によはり給ふ、旣に死脉うち申候につき信玄公御分別あり、各譜代の侍大將衆御一家にも人數を持ち給ふ人々悉く被召寄信玄公被仰は、六年先き駿河出陣まへ板坂法印申候は、膈と云煩なりといひつる、此わづらひは工夫積て心草臥候へば如此の煩ひ有と間、
新字:以上一四月十一日未の刻より信玄公御気相あしく御座候て、御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出来、御齒五ツ六ツぬげ、それより次第によはり給ふ、旣に死脉うち申候につき信玄公御分別あり、各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給ふ人々悉く被召寄信玄公被仰は、六年先き駿河出陣まへ板坂法印申候は、膈と云煩なりといひつる、此わづらひは工夫積て心草臥候へば如此の煩ひ有と間、
書き下し
以上一四月十一日未の刻より信玄公御気相あしく御座候て、御脉殊の外はやく候、又十二日の夜亥刻に、口中にはくさ出来、御齒五ツ六ツぬげ、それより次第によはり給ふ、旣に死脉うち申候につき信玄公御分別あり、各譜代の侍大将衆御一家にも人数を持ち給ふ人々悉く被召寄信玄公被仰は、六年先き駿河出陣まへ板坂法印申候は、膈と云煩なりといひつる、此わづらひは工夫積て心草臥候へば如此の煩ひ有と間、
現代語訳
四月十一日の未の刻から信玄公はご容態が悪くなり、脈がことのほか速くなった。また十二日の夜、亥の刻に口の中に瘡ができ、歯が五つ六つ抜け、それから次第に弱っていかれた。すでに死の脈を打つようになったので、信玄公は思うところがあり、譜代の侍大将衆、ご一家で人数を持つ人々をことごとく召し寄せて仰せられた。六年前、駿河へ出陣する前に板坂法印が申したのは、膈という病である、ということだった。この病は、工夫が積もって心が草臥れると、このように起こるのだと聞いている。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『正法眼蔵随聞記』巻一示して云く、人は思ひ切て命をも棄て、身肉手足をも截ことは中々せくるゝなり、然あれば世間の事を思ふに、名利執心の為にも多くかくの如く思ひ切るなり、只依り来る時に、事に触れ物に随て、心品を調ふること難きなり、学者身命を捨ると思ふて、且くおしゝづめて、云ふべきことをも、修すべきことをも、道理に順ずるか順せざるかと案じて、道理に順せば云ひ、若くは行じもすべきなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻五今の人病なふして坐禅ゆるくすべからず、病は心に随て転するかと覚ゆ、世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て、陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ、我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、悪風出来て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ、是を以て思ふに、学道勤労して他事を忘るれば、病も起るまじきかと覚るなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三さる比丘尼問て云く、世間の女房なんどだにも仏法とて勤学す、比丘尼の身には少々の不可ありとも、何ぞ仏法にかなはざるべきと覚ゆ、いかんと、示して云く、此の義然あらず、在家の女人は其の身ながら仏法を学して、得る事はありとも、出家の人出家の心なからずは得べからず、仏法の人を択ぶにはあらず、人の仏法に入らざればなり、出家在家の義、其の心異なるべし、在家人の出家人の心あるは出離すべし、出家人の在家人の心あるは二重のひがことなり、用心大に異なるべきことなり、
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論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
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言志四録・南洲手抄信を人に取るは難し。人は口を信ぜずして躬を信ず。躬を信ぜずして心を信ず。是を以て難し。
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『正法眼蔵随聞記』巻五一日雑談の次でに示じて云く、人の心本より善悪なし、善悪は縁に随て起る、喩へば人発心して山林に入る時は、林下はよし人間は悪しとおほゆ、亦退屈の心にて山林を出る時は、山林は悪しとおぼゆ、是れ即ち決定して心に定相なし、縁に随て兎も角もなるなり、かるが故に善縁にあへば心よくなり、悪縁に近づけば心悪くなるなり、我が心本より悪しと思ふことなかれ、只善縁に随ふへきなり、