甲陽軍鑑 / 品第四十
心のいたらぬ若者に機遣と訓候はゞ何方へも出ず、物もいわず、萬事機遣をして武士道も一返よはくならん事いかゞといへば內藤修理申、侍が左樣の樣子にて其人智惠つかん、扨こそ氣遣は分別の花なり、此花に實なれば是分別共申さんと、内藤修理小山田彌三郎にをしゆるなり一信玄公宣ふ、
新字:心のいたらぬ若者に機遣と訓候はゞ何方へも出ず、物もいわず、万事機遣をして武士道も一返よはくならん事いかゞといへば内藤修理申、侍が左様の様子にて其人智恵つかん、扨こそ気遣は分別の花なり、此花に実なれば是分別共申さんと、内藤修理小山田弥三郎にをしゆるなり一信玄公宣ふ、
書き下し
心のいたらぬ若者に機遣と訓候はゞ何方へも出ず、物もいわず、万事機遣をして武士道も一返よはくならん事いかゞといへば内藤修理申、侍が左様の様子にて其人智恵つかん、扨こそ気遣は分別の花なり、此花に実なれば是分別共申さんと、内藤修理小山田弥三郎にをしゆるなり一信玄公宣ふ、
現代語訳
小山田弥三郎が内藤修理に問う。心の至らない若者に気遣いをせよと教えたならば、どこへも出ず、物も言わず、万事に気遣いをして、武士道も一遍弱くなるようなことはいかがであろうかと言えば、内藤修理が申す。侍がそのような様子でこそ、その人に知恵がつくのである。だからこそ気遣いは分別の花である。この花に実がなれば、これを分別とも申すべきであると、内藤修理が小山田弥三郎に教えるのである。
解説
気遣いを教えると若者が萎縮するのではないか、という当然の反問が出る。内藤の答えは、その萎縮した状態を通ってこそ知恵がつく、というもの。花と実のたとえで、萎縮は途中の姿であって終点ではないと示す。前段でがさつを臆病の花と呼んだのと対になっている。萎縮は途中の姿であって終点ではない、と花と実のたとえで示される。前段でがさつを臆病の花と呼んだのと、ちょうど対になっている。
この章句が説くこと
気遣い分別花実若武士道
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