甲陽軍鑑 / 品第四十
家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の國おさむるとて十九歳より廿六歲迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本國にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の淺井備前守·四國の長宗家部·會津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合點つかまつるべきとのたまふなり、
新字:家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
書き下し
家康今年は定めて三十斗りにても有らん、四十に及び殊に大身の信長にいつ位もましの、しまり所ある分別あり、さすがに武士の心ばせなき者ならば、年こばいに相似あはぬとも申さんずるが、三河の国おさむるとて十九歳より廿六歳迄八年の間に粉骨をつくし、せんかうのほまれかたのごとくなれば、海道一番の武士と申しながら日本国にもあまり多くはあるまじ、丹波の赤井·江北の浅井備前守·四国の長宗家部·会津の盛氏若手には此家康ならん、扨時過ぎたる此桃をすてたる分別出世をかんがへて如此、其出世とは年明ば吉事也、此心は馬塲美濃·内藤修理·高坂は定めて合点つかまつるべきとのたまふなり、
現代語訳
家康は今年きっと三十ばかりでもあろう。四十に及び、ことに大身の信長にいくつも勝りの、締まり所のある分別がある。さすがに武士の心ばえのない者であるなら、年恰好に相似合わないとも申そうが、三河の国を治めるとて十九歳から二十六歳まで八年のあいだに粉骨を尽くし、先攻の誉れが形のとおりであるから、海道一番の武士と申しながら、日本国にもあまり多くはあるまい。丹波の赤井、江北の浅井備前守、四国の長宗我部、会津の盛氏、若手にはこの家康であろう。さて時が過ぎたこの桃を捨てた分別は、出世を考えてこのとおりである。その出世とは、年が明ければ吉事である。この心は馬場美濃・内藤修理・高坂はきっと合点つかまつるだろうと宣われるのである。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第四十稍や有て仰らるゝ、長坂長閑尋べき事あり、三河の国岡崎家康と云ふ若者は当年はいくつばかりの侍ときゝつると尋給ふ、長坂長閑申は、寅の歳にて当年二十五歳と承り及び候、信玄公仰らるゝ、義元討死の時節より当年まで七年なるが、件の家康十九歳より今までに三河国一国をおさめ候に付、しかも彼国日本六十余州にて人のかぞゆる侍の武篇持く国なれば、合戦の儀年に二度はあれ共一度なき事なし、旣に家康或時は浄土寺へ行き知識にあひ、念仏の十念と云ふ物をとり疑がひをきつて、敵三千ばかりを我人数二百の内外にて家康勝利を得たる共きゝつるぞ、
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『甲陽軍鑑』品第四十扨又一年我等共卅計りの時分信州更科の出家、公事に武藤殿·桜井殿若き時、今井殿計り宿老今福浄閑中老なるが、四人歳もかたぎも各別なるを、奉行に信玄公仰付けられたる様子に、此程の家康が少づゝ似たるは不思儀なりと山県三郎兵衛かたれば、馬塲美濃·内藤·高坂各申さるこは、何様家康たゞものにてはなしと各いはるこ、
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『甲陽軍鑑』品第四十是れは小身なる侍の事、大身の上には一のおほへ大合戦こぜりあひ、二のおぼへ城せめ、第一には人をよく見知、国の仕置見る事になさるゝ事、是は又国半国とも、もつ大将の御手抦是なり、然る間右の家康は十二年以前に十九歳にて尾州大高の覚へ、三河国一の宮の後詰、同かんだいじの合戦、吉良にての合戦、山中の平ぜめ信長すけ、江州あね川合戦偏へに家康武功故信長の勝利と云ふ、同若狭の国にて信長にすてられたる時の家康はたらき、遠州懸川にて今川氏真をせめて氏真に降参させ申事、其外三河国において七年に大方七度の合戦有りと聞く、
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『甲陽軍鑑』品第四十もろ〳〵のさかひめ、侍大将衆へ近国·他国の大将の行儀·作法·仕形·聞出し次第·善悪共に一ッ書にて言上いたせとあるに付、或年遠州いぬい天野宮内右衛門と申す侍大将の所より進上仕る書付に、美濃の岐阜織田信長へまはり一尺の桃三ツなりたるを枝折りに仕り、霜月中の十日にあげつれば、信長指し引きのさへたる名大将にて、うへはことをやぶりても、内心には時により一段ねれたる事の多き武士にてましませば、右の桃を大きに心いはひして、一ツは信長きこしめし、又一ツは嫡子城之助信忠へ参らせられ、三ツめをば遠州浜松徳川家康公へ送り給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康いま信長と二世迄の入魂につき両方加勢をすけあひ、それ故ふたりけんごなれ共、信長敵は上方十四ヶ国の間にて信長に国とられぬをもとにして、信長国へとりかけんと存ずる武士一人もなき故かくのごとく次第に大身なる、家康はいつまでも三河一国、遠州三ケ一ならば終には家康·信長被官のやうになりて後祝言は申しつ、信玄公の明日にも目をふさぎ給はゝ信長安堵して、今こそ嫡子の城介殿と同意に思ふとて、三ツの桃を一ツ送る共、强敵·大敵の六ケ敷信玄公御座なくば家康を信長ころし候はん、それに大事なくば家康果報の儀、少々のかんがへには成りかね申さんと高坂がいへば、馬塲美濃大誓文をたて我等もそれなりと云ふ、内藤修理も同誓文にて右の通りなり一或時小笠原慶安斎へ宿老衆振舞によりあふて、
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『甲陽軍鑑』品第四十家康よのつねならず恭なく返事を被成、其桃をかくして捨て家康食ひ給ふ事なし、此儀を天野宮内右衛門かき付てあぐる、一ツかき多き中に、是はさせる儀にてなきと存候てこそ、すゑにいかにもそさうに書きたるを信玄公御覧あり、其書付を御手へ取り給ひ、しばらく目をふさぎまし〳〵て後、御眼をひらき宣ふは、