甲陽軍鑑 / 品第六
就中こうの臺にて里見義弘子息義高北條氏康と合戰して、義高負け給ふ、此をくれ口の時、件の正木大膳よき侍を一所にて八人、又一所にて九人、又一所にて四人、日中に以上二十一人馬上にてきりおとしてのきたると也一武州岩つきの住人太田源五郞、
新字:就中こうの台にて里見義弘子息義高北条氏康と合戦して、義高負け給ふ、此をくれ口の時、件の正木大膳よき侍を一所にて八人、又一所にて九人、又一所にて四人、日中に以上二十一人馬上にてきりおとしてのきたると也一武州岩つきの住人太田源五郎、
書き下し
就中こうの台にて里見義弘子息義高北条氏康と合戦して、義高負け給ふ、此をくれ口の時、件の正木大膳よき侍を一所にて八人、又一所にて九人、又一所にて四人、日中に以上二十一人馬上にてきりおとしてのきたると也一武州岩つきの住人太田源五郎、
現代語訳
とりわけ国府台にて、里見義弘の子息義高が北条氏康と合戦して、義高は負けられた。この後れ口の時、あの正木大膳はよい侍を、一所にて八人、また一所にて九人、また一所にて四人、日中に以上二十一人、馬上にて斬り落として退いたという。一、武州岩付の住人、太田源五郎。
解説
少年の頃に決めた稽古が、負け戦の退き口で効いた。勝ち戦ではなく後れ口での働きを数えているところが武辺の見方で、しかも一所ではなく三度に分けて踏みとどまっている。馬上で下知しながら決するという当初の見立てのとおりになった。勝ち戦ではなく後れ口での働きを数えているところが、武辺の見方である。しかも一所ではなく、三度に分けて踏みとどまっている。
この章句が説くこと
国府台退き口武辺馬上正木負け戦
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