甲陽軍鑑 / 品第四十
山縣阿部にとはるゝ、貴方功者故、四郞殿へかひぞへになされ、信州伊奈たかとふにゐらるこが、四郞勝賴の御作法は立入て見奉るに何樣に御座候ぞと山縣尋る、阿部則ち四郞殿武篇揚數を指折てかそふる、一去る永祿六年上州みのわ椿山にて四郞殿十八歲の時、初陣に長野が內にて覺へ有、藤井豐後物見に出て歸るを追懸、組討になさるゝ、其儀御屋形信玄公へ深く隱し申候、飯富兵部殿見給ひて我等に腹をきらせんと御呵り候事、
新字:山県阿部にとはるゝ、貴方功者故、四郎殿へかひぞへになされ、信州伊奈たかとふにゐらるこが、四郎勝頼の御作法は立入て見奉るに何様に御座候ぞと山県尋る、阿部則ち四郎殿武篇揚数を指折てかそふる、一去る永禄六年上州みのわ椿山にて四郎殿十八歳の時、初陣に長野が内にて覚へ有、藤井豊後物見に出て帰るを追懸、組討になさるゝ、其儀御屋形信玄公へ深く隠し申候、飯富兵部殿見給ひて我等に腹をきらせんと御呵り候事、
書き下し
山県阿部にとはるゝ、貴方功者故、四郎殿へかひぞへになされ、信州伊奈たかとふにゐらるこが、四郎勝頼の御作法は立入て見奉るに何様に御座候ぞと山県尋る、阿部則ち四郎殿武篇揚数を指折てかそふる、一去る永禄六年上州みのわ椿山にて四郎殿十八歳の時、初陣に長野が内にて覚へ有、藤井豊後物見に出て帰るを追懸、組討になさるゝ、其儀御屋形信玄公へ深く隠し申候、飯富兵部殿見給ひて我等に腹をきらせんと御呵り候事、
現代語訳
山県が阿部に問われる。貴方は功者ゆえに四郎殿へ介添えになされ、信州伊奈の高遠におられるが、四郎勝頼の御作法は、立ち入って見奉るにどのようでございますかと山県が尋ねる。阿部はすぐに四郎殿の武辺の場数を指折り数える。一、去る永禄六年、上州箕輪の椿山で四郎殿が十八歳の時、初陣に長野の内にて覚えがあり、藤井豊後が物見に出て帰るのを追いかけ、組討になされる。その儀を御屋形信玄公へ深く隠し申した。飯富兵部殿が見られて、我らに腹を切らせようとお叱りになった事。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第四十一上州むさしのさかい鬼のつらと云ふ所にて、敵馬上五騎のところへ四郎殿と秋山紀伊守と二騎の中に四郎殿はやくのりつけなされ、河中にて五騎のうち一騎きりおとし給ふ事、一去々年信玄公小田原御発向の時、武州滝山三のくるはをせめおとしなさるゝ刻、北条奥州家老諸岡山城と鑓をあはせらるゝ事、一小田原のき口の時しんがりをなさるゝ酒匂に、松田が家老酒井と云ふ侍と、たがひに馬上にて手と手をとりあふほどの事、小田原より佐川の間にて四度御座候事一右の翌日に、みまぜにて馬塲美濃殿小勢故、敵ともみあひ勝負つかざる所を、勝頼公自身鑓とつて、よこ鑓に入くづし給ふは信玄公御眼前にて候、
-
『甲陽軍鑑』品第四十四郎殿十八から当年廿六歳まで九年の間に大方、先つよきはたらき是程なされ候へども、たど强過て今明年の内にうち死なさるべきかと存る、此程御陣ぶれの上は、今から廿日の間に定めて参河·遠州へ御発向ならん、家康と御手ぎれなるにつき、如此陣の時は帰りてこそいきたると存ずれ武士は何もなれと四郎殿をば、入あふなく思ひ候と阿部加賀守語れば山県三郎兵衛聞て、扨は四郎殿にも强過たるが一ツの瑕にてまします、しかも是は大将の大き成瑕にて、よはきよりは結句おとりなりと山県三郎兵衛申されて座敷を立なり、
-
『甲陽軍鑑』品第四十四郎殿の御さた何共仰られず候一去年の正月駿州花沢にて門脇の左の方ひきみへ、五人つゝそれも四郎殿·名和無理介·長閑·諏訪越中·初鹿伝右衛門五人なり、我等は朝もこを少し鉄砲にさへられ其塲へ参らず候事、一去年四月廿八日に越後国の輝虎小田原北条殿に頼まれ、信州のくびきし長沼へほこさきを出す時、信玄公御馬出ざるさきに、伊奈より四郎殿夜がけになされ、謙信一万五千あまりの人数に、四郎殿八百の備にて合戦をかけらるゝ所に、謙信四郎殿と聞、ほめてなみだをながし、無類の若者かなとて、けんをまはし引とらるゝ、
-
『甲陽軍鑑』品第四十一山県いはるゝ、右衛門尉は知り給はん、助六郎殿·惣蔵殿此阿部加賀守は若き時、五郎左衛門と申て覚の人なり、子細はせりあひ·合戦·城攻の時、先手へ旗本より一二人こされ敵·味方の様子見きるに、加藤駿河守は老功にて働の謙退を定むる其仁に指そへ、御使には阿部五郎左衛門を大略信玄公つかはされ候、今はや弓矢の功者、
-
『甲陽軍鑑』品第四十土屋右衛門尉がいはすると馬塲殿·山県殿はじめおほしめさんと存知、今ならではいはぬと有て、弟の助六·惣蔵口をもかためられけるなり、一阿部加賀守山県三郎兵衛相伴に土屋右衛門尉所へよばれ、山県よろづ武道せんさく仕らるゝ挨拶のあとをとり後阿部申は、右衛門尉殿の御事はかたのごとく若き功者にてまします、舎弟助六郎殿·惣蔵殿聞せられよ、惣別若き衆は何事もなされざる間が奥深き物にて候、
-
『甲陽軍鑑』品第四十旣に貴殿は当屋形信玄公に七歳さきの人にて候へば、信虎公の御代にも其方十七歳より陣をなされ、八年の功瑳の上、信玄公の御代にも七八年は小身にて、しかも時により先衆の中へもまじり給ひ、右二代の間に廿一度武篇·塲数の御證文の中に諸手にすぐれたるとある儀九ツ御座候、御感状を信虎公·信玄公御父子より馬塲美濃殿に被下たりと云ふ儀承り及びたるが、たゞ事ならぬ冥加の人にて、ことに手疵を一ケ所もおひ給はず候、貴殿にくらべて申には努々なし、喩にて申、今井九兵衛は、せりあひ·合戦の初まると即時手を負ふて、此時代の衆の中にて覚になる誉れ一度もなし、是も形のごとくの人なれど、