甲陽軍鑑 / 品第四十
信玄公の弓矢は、むらかみ殿と取合にて武功の分別をさためらるゝ、村上殿信州のうち四郡、越後一郡ほど合五郡なれ共、廣き國なる故甲州一ケ國半程の位なり、其上强敵にて候、
新字:信玄公の弓矢は、むらかみ殿と取合にて武功の分別をさためらるゝ、村上殿信州のうち四郡、越後一郡ほど合五郡なれ共、広き国なる故甲州一ケ国半程の位なり、其上强敵にて候、
書き下し
信玄公の弓矢は、むらかみ殿と取合にて武功の分別をさためらるゝ、村上殿信州のうち四郡、越後一郡ほど合五郡なれ共、広き国なる故甲州一ケ国半程の位なり、其上强敵にて候、
現代語訳
信玄公の弓矢は、村上殿との取り合いによって武功の分別を定められる。村上殿は信州のうち四郡、越後一郡ほど、合わせて五郡であるけれども、広い国であるゆえに甲州一か国半ほどの位である。そのうえ強敵であった。
解説
信長が美濃と七年やって定まったのと同じことを、自分の側でも言う。信玄の武功は村上義清との長い争いで定まった、と。相手の規模を郡数で数え、甲斐一国半に相当すると具体に置き換えているところが、この書らしい測り方である。相手の規模を郡数で数え、甲斐一国半に相当すると具体に置き換えている。長く手強い相手と当たった年数が、そのまま武功の土台になっている。
この章句が説くこと
村上強敵武功信玄鍛取合
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十一曽根内匠がいはく、信玄公の御弓箭、信州村上殿五郡持ち給ひても、信濃国甲州より広ければ、武田勢より村上勢大陣なり、其上村上頼平公武勇のほまれ近国にならぶかたなし、殊に越後為景にかち、越後の内をもせめとる大将と信玄公十八歳より数度の合戦ある間に、同く信州大身衆諏訪殿·小笠原殿·木曽殿各同事にて信玄公と戦ひ、就中上杉衆是は猶以て大敵なり、小田原北条殿ひろき国を持ち給へば、是れ以て大敵なり、日本に弓箭の儀、若手の家康と信長申しあはせられ無事にいたし信玄公とあひたこかふ時は是又大敵なり、又輝虎は日本に当代の强将なれ共此大将衆にから給ふ、是によつて信玄公御武勇当代の無双也、
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『甲陽軍鑑』品第四十曽根内匠又問ふ、信玄公と元就と武勇いづれ多少ぞといへば、内藤修理答へていはく、元就公の武勇信玄公よりちとうへなり、子細はもとが甲州一国ほどももたぬ元就にて、其上国数多き敵の故如此、但し信玄公の御弓箭は軍法の儀古今まれなり、是を以てさたせば末代によき大将衆信玄公をほめ奉らんと内藤修理、曽根·真田·三枝三人の若者に申しをしゆるなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十就中よき武士他国より来る類親なき者、手がらの儀ひいき〳〵に申につき、信玄公度々御諚に、おのれがぬき出たる手がらをして、大略にいはるゝは、何程口惜からんと分別してみよ、そこの程をかんがうる者は、かならず中悪き人の事をも、ありように云ふを、其手抦をそしらぬ侍の我身にかけて大きなる武篇をいたす儀と、又よし贔負おほうして種々作ことをいひ、
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『甲陽軍鑑』品第三十九然ば信玄若き時より弓矢を取恐くは当時日本一番にすぐれ候子細は、国持衆弓矢の儀何れもほまれ有と雖ども、皆人は他家の大将をたがひに頼み、両旗·両大将をもつて利運に仕侍もあり、或は剛强を専にして、つよきはたらきを用ひて、ほまれ有侍ちあり、或は国を沢山に治め大身なるといへ共、よその手がらをきこては恐怖、末子を人質に出すべきと用意する侍もありときくなり、先北条氏康は太田三楽·上杉則政·輝虎各敵にしてかなはされば、それがし信玄を頼み松山陣其外一両度我馬を引出し申され候、今河義元も氏康と取合の時、某罷出、富士のしもがたにおいて北条家をしづめ、其後今川義元·北条氏康無事に成は悉皆信玄がすけたる故也、
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『甲陽軍鑑』品第四十美濃殿程公事の理篇·批判致す人なきとの儀は、信玄公御工夫あさからず候へばこそ如此、さる間何方へ御馬を向られ、然も敵国へふかく働き有時も諸々の武士大小共に侍衆の事は不及申候、誠に雑人迄定て是はかつ事にてこそ御座あらめと思ひ、少もまくべきと存ぜざるは信玄公の智略賢くまします故如此、
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『甲陽軍鑑』品第四十信長国へだち信玄輝虎と終に武篇の参会無之、就中唯今は信長の嫡子城之介殿信玄公御婿にとある縁辺なり、さるに付信長手だてなさるべき敵さのみなし、十二年以前今川義元公と合戦の刻、信長二十七歳にて無類の手抦是なり、其比信長少身にて若ければ、大敵には種々謀ごとありて信長勝利を得給ふなり、謀行の軍法なき弓矢は縦へば下手のあつまりてする能見物のごとし、仕そこなはんと思ひ、見ながらあぶなく候、信長の弓矢も美濃の国と七年の間取合て武功の分別定まるなり、