甲陽軍鑑 / 品第六
三略にも義者不爲不仁者死智者不爲闇主謀云々、家康公も大方は此理にてもあらん、家康公十二歲の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ、心ざしの今に至るまで譽ありて、三河一國遠州半國の主と成り給ふ、又時のけんに屬したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊介殿能々被存知者也一毛利元就公おさなくおはせし時嚴島へ社參あり、
新字:三略にも義者不為不仁者死智者不為闇主謀云々、家康公も大方は此理にてもあらん、家康公十二歳の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ、心ざしの今に至るまで誉ありて、三河一国遠州半国の主と成り給ふ、又時のけんに属したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊介殿能々被存知者也一毛利元就公おさなくおはせし時厳島へ社参あり、
書き下し
三略にも義者不為不仁者死智者不為闇主謀云々、家康公も大方は此理にてもあらん、家康公十二歳の時菖蒲ぎりの勝負を見定め給ふ、心ざしの今に至るまで誉ありて、三河一国遠州半国の主と成り給ふ、又時のけんに属したる侍と譜代のわかちを長坂長閑老跡部大炊介殿能々被存知者也一毛利元就公おさなくおはせし時厳島へ社参あり、
現代語訳
三略にも、義者は不仁者のために死せず、智者は闇主のために謀らず、と言う。家康公も大方はこの理であろう。家康公は十二歳の時、菖蒲切りの勝負を見定められた。その志が今に至るまで誉れとなって、三河一国と遠州半国の主となられた。また、時の権に属した侍と譜代との分けを、長坂長閑老と跡部大炊介殿はよくよくご存じの者である。一、毛利元就公が幼くあられた時、厳島へ社参された。
解説
三略の一句で、家康の身の処し方を裏づけている。義も智も、仕える相手を選ぶという理屈である。そのうえで、十二歳の見立てが今の版図につながったと結び、宛先の長坂・跡部の二人に、譜代と外様の分けをよく心得よと念を押している。義も智も、仕える相手を選ぶという理屈である。宛先の二人に、譜代と外様の分けをよく心得よと念を押すところで結ばれている。

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三略義智主君選択譜代
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