孔子(こうし)の一行が、旅の途中で野原に閉じ込められたことがあります。陳(ちん)と蔡(さい)という二つの国のあいだで、孔子が大国の楚(そ)に招かれるのを恐れた人々が、兵を出して一行を囲んだのです。食糧は尽き、弟子たちは病んで起き上がれなくなりました。

そのとき孔子は、弟子を一人ずつ呼んで、同じことを尋ねました。「わたしの道は間違っているのか。なぜ、こんな目に遭っているのか」。

呼ばれたのは三人です。いちばん勇ましい子路(しろ)、いちばん弁が立つ子貢(しこう)、いちばん学を好んだ顔回(がんかい)。三人の答えは、きれいに三つに分かれました。そして、この三人がその後たどった人生も、答えと同じくらいはっきり分かれています。顔回は貧しいまま早く死にました。子路は内乱のなかで斬られました。子貢は外交と商売で成功し、師の墓のかたわらに六年とどまりました。

この記事では、孔子の弟子たちの生涯を、『史記(しき)』の仲尼弟子列伝(ちゅうじていしれつでん)・孔子世家(こうしせいか)と『論語』、それに『孔子家語(こうしけご)』などの原文でたどります。孔子の言葉そのものは論語の名言の記事にまとめてあるので、ここでは弟子の側から読みます。

孔子の弟子とは ― 七十七人と「孔門十哲」

孔子の弟子は三千人いたと言われます。『史記』孔子世家に「弟子蓋(けだ)し三千」とあるのが出どころです。ただし同じ箇所で、六つの教養(礼・楽・射・御・書・数)をすべて身につけた者は七十二人と書かれ、弟子の伝記を集めた仲尼弟子列伝のほうでは七十七人になっています。「仲尼(ちゅうじ)」は孔子の字(あざな)です。数からして、書によって少しずつ違います。

弟子の顔ぶれを整理するときに必ず引かれるのが、『論語』先進篇のこの一章です。

【書き下し】子曰く、我に陳蔡に従いし者は、皆門に及ばざるなり。徳行には顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓。言語には宰我・子貢。政事には冉有・季路。文学には子游・子夏。

出典:論語 先進篇

徳行(人格)、言語(弁舌・外交)、政事(行政の実務)、文学(古典の学問)。四つの分野に、あわせて十人の名前が挙がっています。後世、この十人を「孔門十哲(こうもんじってつ)」と呼ぶようになりました。一つの物差しで弟子を並べず、分野ごとに一番を認めているところが、この一覧の特徴です。

冒頭の一文にも目を留めておきます。「陳蔡でわたしに従った者は、みな門下にいなくなった」。十人の名前は、孔子がすでに失った弟子たちの名簿として読むこともできます。

『史記』の仲尼弟子列伝は、弟子の性格を短くこう書き添えています。

【書き下し】師や辟、参や魯、柴や愚、由や喭、回や屢々空し、賜は命を受けずして貨殖し、億すれば則ち屢々中る。

出典:史記 仲尼弟子列伝

子張(師)はかたより、曾参(参)はのろま、子羔(柴)は愚直、子路(由)は粗野。顔回(回)はしばしば米櫃が空で、子貢(賜)は天命を待たずに商売をして、相場を読めばよく当てた。欠点も含めて、一人ずつ輪郭がはっきりしています。

ただ、この伝を読むときには、司馬遷(しばせん)自身が最後に書いた断り書きを先に知っておいたほうがよいでしょう。

【書き下し】学者多く七十子の徒を称するも、誉むる者は或いは其の実に過ぎ、毀る者は或いは其の真を損ふ。……余、弟子の名姓文字を以て悉く論語の弟子の問ひを取り并せ次いで篇と為し、疑はしき者は闕けり

出典:史記 仲尼弟子列伝

弟子たちの評判は、褒める側は持ち上げすぎ、けなす側は貶めすぎる。だから『論語』の問答をもとに編み、疑わしいものは省いた、と司馬遷は書いています。それでも、あとで見るように、この伝にも別人の話がまぎれ込んでいると指摘されています。弟子たちの姿は、数百年後に書き継がれた記録を通してしか見えない。そのことを頭に置いて読み進めます。

陳蔡の厄 ― 同じ質問に、三人はどう答えたか

冒頭の場面に戻ります。『史記』孔子世家は、野原での包囲をこう書いています。

【書き下し】孔子陳蔡の間に在り、乃ち相与に徒役を発して孔子を野に囲む。行くを得ず、糧を絶つ。従者病み、能く興つもの莫し。孔子講誦弦歌して衰へず。子路慍りて見えて曰く、「君子も亦た窮すること有るか」と。孔子曰く、「君子固より窮す、小人窮すれば斯に濫る」と。

出典:史記 孔子世家

最初に詰め寄ったのは子路でした。「君子でも行き詰まることがあるのですか」。正しいことをしてきたのに、なぜこんな目に遭うのか、という怒りです。孔子の答えは「君子もむろん行き詰まる。つまらない人間は、行き詰まると乱れる」でした。

それでも弟子たちの不満が収まらないのを見て、孔子は一人ずつ呼び入れます。まず子路です。

【書き下し】孔子子路に問ひて曰く、「詩に云ふ、『兕に匪ず虎に匪ず、彼の曠野に率ふ』と。吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする」と。子路曰く、「意ふに吾未だ仁ならざるか、人の我を信ぜざるや。意ふに吾未だ知ならざるか、人の我を行はざるや」と。孔子曰く、「是れ有らんや。由、譬へば仁者にして必ず信ぜられなば、安くんぞ伯夷・叔齊有らん。知者にして必ず行はれなば、安くんぞ王子比干有らん」と。

出典:史記 孔子世家

子路の答えは「自分たちの仁や知がまだ足りないから、人が信じてくれないのではないか」でした。原因を自分たちの側に探しています。孔子はそれを退け、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)と王子比干(ひかん)の名を挙げます。仁者が必ず信じられるなら、伯夷・叔斉が山で餓死することはなかった。知者の言葉が必ず用いられるなら、比干が殺されることはなかった。報われないことは、至らないことの証拠にはならない、というのです。伯夷と叔斉がどんな人だったかは、別の記事でたどりました。

次に子貢が呼ばれます。

【書き下し】子貢入りて見ゆ。孔子曰く、「賜、吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする」と。子貢曰く、「夫子の道至って大なり、故に天下能く夫子を容るる莫し。夫子蓋ぞ少しく貶せざる」と。孔子曰く、「賜、良農能く稼ゑて能く穡を為さず、良工能く巧みにして能く順を為さず。君子能く其の道を脩め、綱して之を紀し、統して之を理むるも、能く容を為さず。今爾爾の道を脩めずして容を為すを求む。賜、爾の志遠からず」と。

出典:史記 孔子世家

子貢の答えは現実的でした。先生の道は大きすぎて、天下が受け入れられない。少し基準を下げてはどうか。孔子はこれを、農夫と職人のたとえで退けます。よい農夫はよく種をまけるが、収穫までは約束できない。よい職人は巧みに作れるが、客に気に入られるかどうかは約束できない。道を修めることはできても、受け入れられることまではできない。それなのにお前は、道を修めずに受け入れられることを求めている、と。

最後が顔回です。

【書き下し】顔回入りて見ゆ。孔子曰く、「回、吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする」と。顔回曰く、「夫子の道至って大なり、故に天下能く容るる莫し。然りと雖も、夫子推して之を行ふ、容れられざるも何ぞ病まん、容れられずして然る後に君子を見る。夫れ道の脩まらざるは、是れ吾が醜なり。夫れ道既に已に大いに脩まりて用ゐられざるは、是れ国を有つ者の醜なり。容れられずして然る後に君子を見る」と。孔子欣然として笑ふ。

出典:史記 孔子世家

顔回も、先生の道は大きすぎて天下が受け入れない、と認めるところまでは子貢と同じです。違うのはその先でした。受け入れられないことの何が悪いのか。受け入れられないところで、はじめて君子が見える。道が修まっていないのならわれわれの恥だが、修まっているのに用いないのなら、国を治める側の恥だ。

孔子はうれしそうに笑いました。『史記』の本文では、このあと孔子が「顔家の息子はたいしたものだ。お前が金持ちになったら、わたしが執事になってやろう」と冗談まで言っています。三度の問答で、孔子が笑ったのはこの一度だけです。

三つの答えを並べ直すと、こうなります。子路は、原因を自分たちの力不足に探しました。子貢は、相手に合わせて基準を下げる道を探しました。顔回は、自分たちがやるべきことと、相手が判断することを切り分けました。この三人の答えは、そのまま三人の生き方の型になっていきます。

なお、一行は子貢が楚へ使いに行き、楚の昭王(しょうおう)が兵を出して迎えたことで囲みを抜けた、と孔子世家は続けています。窮地から一行を出したのは、「基準を下げては」と言った子貢の足でした。

顔回 ― いちばん学を好んだ弟子は、いちばん貧しかった

顔回は魯(ろ)の人で、字は子淵(しえん)、孔子より三十歳若い弟子です。『論語』では顔淵(がんえん)とも呼ばれます。仲尼弟子列伝は、孔子が顔回を褒めた言葉をいくつも並べています。

【書き下し】賢なるかな回や、一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り、人は其の憂ひに堪へず、回や其の楽しみを改めず。……回、年二十九、髪尽く白くして蚤く死す。

出典:史記 仲尼弟子列伝

竹の器一杯の飯と、ひょうたん一杯の飲み物で、狭い路地に住む。ほかの人なら耐えられない暮らしを、顔回は楽しんでいた。そして二十九歳で髪が真っ白になり、早く死んだ。

顔回が何歳で死んだかは、実ははっきりしません。『史記』は「二十九で髪が白くなり、早く死んだ」と書くだけで、没年齢を明示していません。『孔子家語』は「三十一で早死にした」とします。一方、『論語』では顔回の葬儀の話に、孔子の息子・鯉(り)がすでに死んでいたことが出てきます(論語 先進篇)。『史記』は鯉が五十歳で孔子より先に死んだと書いているので、「孔子より三十歳若い」という記述と組み合わせると、顔回はもっと年をとっていた計算になります。数字が噛み合いません。確かなのは、孔子より先に、しかも孔子に後を託されると見られていたさなかに死んだ、ということです。

顔回には、有名な逸話がもう一つあります。陳蔡の包囲のさなか、ようやく手に入れた米を炊いていた顔回が、釜の中の飯をつまんで食べるところを見られてしまった、という話です。

この話は書によって、疑った人が違います。『孔子家語』では、見て疑ったのは子貢で、孔子は「わたしは回を信じてきた」と取り合わず、本人に確かめます。煤(すす)が飯に落ちたので、捨てるのも惜しく、自分で食べたのでした。ところが『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』では、見て疑ったのは孔子自身です。

【書き下し】孔子歎じて曰く、「信ずる所の者は目なり、而れども目猶ほ信ず可からず。恃む所の者は心なり、而れども心猶ほ恃むに足らず。弟子、之を記せよ。人を知るは固より易からず。」

出典:呂氏春秋 任数篇(『孔子家語』の話はこちら

目で見たものも信じきれない。心で思ったことも頼りきれない。人を知るのは本当に難しい。いちばん信頼していた弟子でさえ一度は疑った、という孔子の告白として伝わっています。

顔回の死を知ったとき、孔子はこう言いました。

【書き下し】顔淵死す。子曰く、「噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり。」

出典:論語 先進篇

弟子が死んだのに、「天がわたしを滅ぼした」と言っています。自分の仕事を継ぐはずの人を失った、という叫びです。礼を説いた人が、このときは人目もはばからず泣きました。

【書き下し】顔淵死す。子之を哭して慟す。従者曰く、「子慟せり。」曰く、「慟すること有るか。夫の人の為に慟するに非ずして誰が為にせん。」

出典:論語 先進篇

「先生、取り乱しておられます」と言われて、孔子は「この人のために取り乱さないで、誰のために取り乱すのか」と返しました。顔回は生きているあいだ、何の地位にも就かず、何の財産も残していません。この弟子が報われたとすれば、それは師のこの嘆きと、後世の評価のなかでです。

子路 ― 孔子に乱暴を働いた男が、冠の紐を結び直して死ぬまで

子路は卞(べん)の人で、名は仲由(ちゅうゆう)、孔子より九歳若い弟子です。弟子のなかでは年長で、入門のいきさつがいちばん荒っぽい人でした。

【書き下し】子路の性は鄙しく、勇力を好み、志は伉直なり。雄鶏を冠し、豭豚を佩び、孔子を陵暴す。孔子、礼を設けて稍く子路を誘ふ。子路後に儒服して質を委し、門人に因りて弟子為るを請ふ。

出典:史記 仲尼弟子列伝

雄鶏の羽の冠をかぶり、豚の皮の飾りを腰に下げて、孔子に乱暴を働いた。孔子が礼をもって少しずつ導くと、儒者の服に着替えて弟子入りを願い出た。はじめは孔子に突っかかってきた若者でした。

子路は、聞いたことをまだ実行できないうちは、次の教えを聞くのを恐れたと言われるほど、一途な実行者でした。孔子の言うことにも遠慮なく反対し、孔子がよからぬ評判のある女性に会ったときには露骨に不機嫌になっています。孔子はそういう子路を、面白がりながら案じていました。

【書き下し】閔子側に侍る、誾誾如たり。子路は行行如たり。冉有・子貢は侃侃如たり。子楽しむ。「由の若きは、其の死を得ざらん。」

出典:論語 先進篇

閔子騫(びんしけん)は慎み深く、子路はいかつく、冉有(ぜんゆう)と子貢はなごやか。孔子はそれを楽しんだ。そのうえで、「由のような者は、まともな死に方をしないだろう」と言っています。

その予言は当たりました。子路は晩年、衛(えい)の国の大夫・孔悝(こうかい)の領地を治めていました。そこへ、国外に逃れていた太子の蒯聵(かいかい)が戻り、孔悝を脅して、君主である自分の息子を追い出す内乱が起きます。子路は城の外にいて、知らせを聞いて駆けつけました。

【書き下し】子羔子路に謂ひて曰く、「出公去れり、門已に閉づ、子還る可し、空しく其の禍を受くる毋かれ」と。子路曰く、「其の食を食む者は其の難を避けず」と。……子路曰く、「君子は死すとも冠を免がず」と。遂に纓を結びて死す。……故に孔子曰く、「吾由を得て自り、悪言耳に聞こえず」と。

出典:史記 仲尼弟子列伝

同門の子羔(しこう。本名は高柴)が城門から出てきて、もう君主は逃げた、門は閉じた、むだに巻き込まれるな、と止めました。子路は「その禄を食む者は、その難を避けない」と答えて城に入ります。反乱の首謀者に迫り、斬りつけられて冠の紐を断たれると、「君子は死ぬときも冠を脱がない」と言って紐を結び直し、そのまま殺されました。

孔子はこのとき魯にいました。『孔子家語』は、知らせを受けたあとの孔子をこう書いています。

【書き下し】使者曰く、「之を醢にせり」と。遂に左右をして皆醢を覆さしめて曰く、「吾何ぞ忍びて此を食らわんや」と。

出典:孔子家語 曲礼子夏問

子路の遺体は「醢(ししびしお)」、つまり塩漬けの肉にされた、と使者は告げました。孔子は家にあった塩漬け肉をすべてひっくり返させ、「どうしてこれを食べられようか」と言いました。

子路の死は、陳蔡での答えと地続きに見えます。原因を自分の側に探し、足りなければ自分の体で埋める。禄を受けた以上は逃げない。後世の『塩鉄論(えんてつろん)』には、子路は「強梁(剛直すぎること)」のために死んだ、という辛い評価も出てきます(塩鉄論 訟賢篇)。孔子はかつて、「由を弟子にしてから、わたしの耳に悪口が入らなくなった」と言っていました。子路がそばにいるあいだ、師の悪口を言える者はいなかったのです。

子貢 ― いちばん稼いだ弟子が、師の墓を六年守った

子貢は衛の人で、名は端木賜(たんぼくし)、孔子より三十一歳若い弟子です。弁が立ちすぎて、孔子にしばしばたしなめられました。

【書き下し】対へて曰く、「賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知り、賜や一を聞きて以て二を知る」と。……子貢既に業を受け、問ひて曰く、「賜は何人ぞや」と。孔子曰く、「汝は器なり」と。曰く、「何の器ぞや」と。曰く、「瑚璉なり」と。

出典:史記 仲尼弟子列伝

「お前と顔回とどちらが上か」と聞かれて、子貢は「回は一を聞いて十を知り、わたしは一を聞いて二を知るだけです」と答えました。「わたしはどういう人間ですか」と聞くと、孔子は「器だ」と言い、「どんな器ですか」と重ねると「瑚璉(これん)だ」と答えます。宗廟の祭りに使う、貴い器のことです。褒め言葉ですが、「君子は器ならず」という孔子の別の言葉を知っている読者には、一つの用途に収まる人だ、という含みも聞こえます。

子貢のいちばんの特徴は、商売の才覚でした。

【書き下し】子曰く、回や其れ庶からんか、屢々空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば則ち屢々中たる。

出典:論語 先進篇

顔回は道に近かったが、いつも米櫃が空だった。子貢は天命を待たずに商売をし、相場を読めばよく当てた。孔子は同じ一章のなかに、いちばん貧しい弟子といちばん富んだ弟子を並べています。どちらを褒め、どちらを叱るとも書いていません。

子貢は外交でも名を残しました。仲尼弟子列伝には、斉(せい)が魯を攻めようとしたとき、子貢が斉・呉・越・晋を渡り歩いて説き、各国を互いにぶつけて魯を守った、という長い話が載っています。

【書き下し】故に子貢一たび出でて、魯を存し、斉を乱し、呉を破り、晋を彊くして越を霸たらしむ。子貢一たび使ひして、勢ひをして相ひ破らしめ、十年の中、五国各々変有り。……子貢は廃挙を好み、時と与に貨貲を転ず。人の美を揚ぐるを喜び、人の過ちを匿す能はず。常に魯・衛に相たり、家千金を累ね、卒に斉に終はる。

出典:史記 仲尼弟子列伝

一度出かけただけで、魯を守り、斉を乱し、呉を破り、晋を強くし、越を覇者にした。ただ、この話は出来すぎていて、『春秋左氏伝』などの記録とは合わないところが多く、後世の脚色だとする見方が昔からあります。同じ斉による魯攻めについて、『韓非子』五蠹篇はまったく逆の結末を書いています。子貢が説きに行くと、斉の人は「あなたの言葉が弁が立たないわけではない。だが、わたしたちが欲しいのは土地で、言葉ではない」と言って兵を進めた。だから「子貢は弁智なれども魯は削られた」と。弁舌の達人という同じ人物像が、書き手によって、五国を動かした話にも、言葉の無力を示す例にもなっています。

商売で富み、魯や衛で宰相を務めた子貢にも、一度だけ恥じ入った場面があります。孔子の死後、貧しいまま草深い沢に隠れ住んでいた同門の原憲(げんけん)を訪ねたときのことです。

【書き下し】子貢、衛に相たり、駟を結び騎を連ね、藜藿を排して窮閻に入り、過ぎりて原憲を謝す。憲、敝れたる衣冠を摂へて子貢に見ゆ。子貢之を恥ぢて曰く、「夫子豈に病めるか」と。原憲曰く、「吾之を聞く、財無き者は之を貧と謂ひ、道を学びて行ふ能はざる者は之を病と謂ふ、と。憲の若きは、貧なり、病に非ざるなり」と。子貢慚ぢ、懌ばずして去り、身を終ふるまで其の言の過ぎたるを恥づ。

出典:史記 仲尼弟子列伝

四頭立ての車を連ねてやって来た子貢は、ぼろを着た原憲に「先生、お体でも悪いのですか」と言ってしまいます。原憲は、財が無いのは貧、道を学んで行えないのが病、わたしは貧であって病ではない、と答えました。子貢は生涯、この言葉を恥じたといいます。

世間には、子貢のほうが孔子より優れている、と言う人たちもいました。子貢はそのたびに師を弁護しています。

【書き下し】子貢曰く、「諸を宮牆に譬うれば、賜の牆や肩に及び、室家の好きを闚い見る。夫子の牆は数仞、其の門を得て入らざれば、宗廟の美・百官の富を見ず。其の門を得る者或いは寡なし。

出典:論語 子張篇

わたしの塀は肩の高さしかないので、中の家の良さがのぞける。先生の塀は数丈もあるので、門を見つけて入らなければ、宗廟の美しさは見えない。見えやすいものが優れているとは限らない、と子貢は言っています。別の章では、ほかの賢者は丘だから越えられるが、先生は日月だから越えられない、とまで言いました(論語 子張篇)。

孔子の最期の場面にも、子貢がいます。孔子世家によれば、病んだ孔子は杖をついて門のあたりを歩いていて、見舞いに来た子貢に「賜よ、なぜこんなに遅かったのか」と言い、泰山(たいざん)が崩れる、梁(はり)が折れる、という歌を口ずさんで涙を流しました。七日後に孔子は亡くなります。顔回を失い、子路を失ったあと、最後にそばに呼ばれたのが子貢でした。

孔子の死後、弟子たちは喪の服し方に迷いました。師は親族ではないので、決まった喪服がありません。

【書き下し】子貢曰く、「昔、夫子の顏回を喪するや、其の子を喪うが若くして服無し。子路を喪するも亦然り。今請う、夫子を喪すること父を喪うが如くして、服無からんことを。」

出典:孔子家語 終記解

先生は顔回が死んだときも子路が死んだときも、わが子を失ったように嘆いたが、喪服は着なかった。だから先生の喪には父を失ったように服し、ただ喪服は着ないことにしよう。提案したのは子貢でした。『史記』孔子世家によれば、弟子たちは三年の喪を終えて去っていきましたが、子貢だけは墓のそばに小屋を建てて、あわせて六年とどまりました。

陳蔡で「基準を下げては」と言い、孔子に「志が遠くない」と叱られた弟子です。その弟子が、いちばん長く師の墓を離れなかった。子貢の生涯は、成功と、師への執着の両方でできています。

ほかの弟子たち ― 昼寝をした宰予、のろまの曾参、泣いて失明した子夏

十哲に名が挙がった弟子のなかには、孔子を失望させた人もいます。弁の立つ宰予(さいよ)です。

【書き下し】宰予昼寝ぬ。子曰く、「朽木は雕る可からず、糞土の墻は圬る可からず」と。……宰我、臨菑の大夫と為り、田常と乱を作し、以て其の族を夷げらる。孔子之を恥づ。

出典:史記 仲尼弟子列伝

昼寝をしていて、「腐った木には彫刻できない、ぼろ土の塀は上塗りできない」と言われたのが宰予です。『論語』では孔子が続けて、以前は言葉を聞けば行いを信じたが、宰予のことがあってから、言葉を聞いたうえで行いを見るようにした、と言っています。この章は人を見る目の記事で詳しく読みました。

『史記』は宰予の最期を、斉の臨菑で田常(でんじょう)の反乱に加わり、一族皆殺しになった、と書いています。ところが唐代の注釈『史記索隠(さくいん)』は、『春秋左氏伝』ではこの乱に加わったのは闞止(かんし)という別人で、その字が宰予と同じ「子我(しが)」だったために取り違えたのだ、と指摘しています。司馬遷が「疑わしいものは省いた」と書いた伝にも、同じ字の別人の話が入り込んでいた可能性があるわけです。

のろまと評された曾参(そうしん)は、孝の道に通じていると認められて教えを受け、後世、孔子の学問を伝えた中心人物の一人とされました。

【書き下し】孔子以て能く孝道に通ずと為し、故に之に業を授く。孝経を作る。魯に死す。

出典:史記 仲尼弟子列伝

「魯」は、ここでは「のろま」の意味で使われた字です。才気の目立たない弟子が、いちばん長く教えを伝える役を担いました。

文学の子夏(しか)は、孔子の死後に西河で教え、魏(ぎ)の文侯(ぶんこう)の師になりました。

【書き下し】孔子既に没し、子夏西河に居りて教授し、魏の文侯の師と為る。其の子死し、之を哭して明を失ふ。

出典:史記 仲尼弟子列伝

君主の師にまでなった人が、わが子を亡くして泣きすぎ、目が見えなくなった。司馬遷はこの一文で子夏の伝を終えています。

報われ方は、三人とも違った

陳蔡の問答をもう一度思い出してください。子路は原因を自分たちに探し、子貢は基準を下げる道を探し、顔回は、やるべきことはやった、用いないのは相手の問題だと切り分けました。

三人の生涯は、その答えのとおりに進んだように見えます。子路は、禄を受けた以上は逃げないと言って、自分の体で責任を埋めました。子貢は、世の中に受け入れられる形で力を振るい、富も地位も得ました。顔回は、世の中に何も求めず、何も得ないまま死にました。

司馬遷はのちに、伯夷列伝のなかで、この顔回の早死にを取り上げています。七十人の弟子のなかで孔子がただ一人「学を好む」と推したのは顔回だったのに、その顔回は糟糠(そうこう)さえ満足に食べられずに若死にした。天は善人に報いるというが、これはどういうことなのか、と。司馬遷がこの問いを立てた伯夷列伝は、伯夷と叔斉の記事で読みました。

組織に置き換えれば、実行する人、交渉する人、原理を守る人、という三つの型になるでしょう。どの型が正しいかを、孔子は決めていません。子路の危うさを案じ、子貢の弁をたしなめ、顔回にだけ笑いましたが、囲みを破って一行を救ったのは子貢の足で、師の悪口を封じていたのは子路でした。

結び ― 師より先に死んだ弟子、師より長く墓にいた弟子

孔子の晩年は、弟子を失い続けた数年でした。息子の鯉が死に、顔回が死に、やがて子路も死にました。孔子世家は、顔回の死に孔子が「天、予を喪ぼせり」と言ったこと、麒麟が捕らえられた年の嘆き、その翌年に子路が衛で死んだこと、さらにその翌年に孔子自身が七十三歳で亡くなったことを、続けて書いています。

いちばん学を好んだ弟子は、何も残さずに死に、いちばん勇ましい弟子は、最後まで冠を正して死にました。いちばん世の中とうまく折り合った弟子は、最後に何も生まない場所、師の墓のそばに六年とどまりました。三人がそれぞれのやり方で師に報いたのだとすれば、報われなかったのは弟子たちのほうではなく、弟子を次々に見送った孔子のほうだったのかもしれません。

弟子たちの言葉は、いまも『論語』のあちこちに残っています。師の言葉として読んできた一章を、弟子の側から読み直すと、別の人間の声が聞こえてきます。


『史記』が伝を書いた、報われなかった人たちの記事です。

伯夷と叔斉 ― 首陽山で餓死した兄弟を、孔子は褒め、韓非子は「無益」と呼んだ
屈原の生涯 ― 正しいのに通らなかった人。漁父の問答、汨羅、端午の節句の由来まで

孔子自身の言葉と生涯は、こちらの記事で読めます。

論語の名言一覧 43選 — 経営者が座右の銘にしたい言葉と現代語訳
吾十有五にして学に志す — 孔子の人生六段階と、経営者の歩み方

この記事で引いた句は、いずれも原文・現代語訳・解説つきで収録しています。

論語の章句一覧
史記の章句一覧
孔子家語の章句一覧

この記事の出典について

弟子たちの伝記は、主に『史記』仲尼弟子列伝と孔子世家に拠りました。引用は、師導が収録する底本の書き下し(読み下し)の欄から、そのまま切り出しています。底本の書き下しが原文の一部を省いている箇所は、省いたまま引きました。

原文を引かずに地の文で触れたものの出どころは次のとおりです。弟子三千人と七十二人、陳蔡の問答の続きの孔子の冗談、子貢の楚への使い、孔子の最期と子貢の六年の喪、鯉の死は、いずれも『史記』孔子世家です。子貢の遊説の結末が逆になっている話は『韓非子』五蠹篇、宰予と闞止の取り違えの指摘は『史記索隠』です。

顔回の没年齢、子貢の遊説の史実性、宰予の最期は、いずれも書によって記述が合わないか、後世に疑問が出されているものです。本文ではどれか一つに決めず、食い違いのまま示しました。子路・顔回・子貢を三つの型として読むのは、この記事の見方です。