「論語読みの論語知らず」という言葉があります。文句をそらんじていても、生き方が変わらなければ意味がない——そうした皮肉が生まれるほど、論語は繰り返し読まれ、暗誦されてきました。孔子とその弟子たちの言葉を記したこの古典は、東洋でもっとも長く読み継がれてきた一冊です。
なぜ二千五百年も残ったのか。答えは単純です。書かれているのが、学び方でも人付き合いでも、いつの時代の人間にも当てはまる「変わらないところ」だからです。技術は移り変わっても、人が学び、迷い、人と関わるという営みそのものは、少しも変わりません。
このページでは、論語のなかから特に有名な名言・格言を43句選び、原文(白文)・書き下し文・現代語訳とともに一覧にしました。あわせて、経営の現場から見た読みどころを、監修者・清水直樹が一句ずつ書いています。座右の銘を探している方も、まずは今日の自分にひびく一句を見つけるつもりで読んでみてください。気になった句は、リンク先で詳しい解説まで辿れます。
論語とは
論語(ろんご)は、孔子(Confucius:紀元前551年~)の言行録を集めた書物です。孔子の弟子たちとの対話や教訓が記されており、人間関係や道徳、政治などに関する知恵や教訓が含まれています。
経営者の中でも古典を学んでいる人は多いと思います。数ある古典の中でも、論語は古典を学ぶ経営者にとって必須と言える書物でしょう。渋沢栄一氏が「論語と算盤」と言ったように、人間学を学ぶ書物として知られていますが、正確には儒教思想の教典的な存在である四書五経の一つです。
また、論語=孔子が書いたもの、と思われている節もありますが、孔子が書いたものではありません。孔子の死後、何百年とかかって弟子たちが編纂した書物になります。
論語を読む前に知っておきたい君子と小人の違い
論語を読む前提知識として、君子と小人の違いがあります。君子はなんとなく偉い人、出来た人間というイメージがあると思います。いっぽうの小人はどうでしょう。文字からして大したことのない人物、と思うかも知れませんが、そうとも限りません。
人物を評価するにあたって、「徳」を持っているか、「才」を持っているかの二つの軸があります。君子は「徳」を持っている人物であり、小人は「才」を持っている人物とされています。論語的(儒教)には、才よりも徳のほうが重視されているため、君子のほうが人として上位に扱われています。
他にも聖人や愚人などのカテゴリーがあります。詳しくは以下の記事に載せております。
なお、論語の解釈は人それぞれです。本記事の解説も、解釈の一つだと思ってご覧ください。
学びの姿勢についての名言
孔子は、生涯にわたる学び手でした。晩年に至っても「自分はまだ学び足りない」と語り続けた人です。だからこそ「どう学ぶか」を説いた言葉には、綺麗事ではない実感がこもっています。
学びて時に之を習ふ ——『学而篇』
學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。
書き下し: 学びて時に之を習ふ、亦説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)有り遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。
学んだことを折にふれて復習し、少しずつ自分のものにしていく。その手ごたえほど、静かに嬉しいものはありません。志を同じくする友が遠くから訪ねてくる喜び。そして、人に認められなくても腐らない強さ。論語はこの三つの喜びから始まります。冒頭にこれを置いたところに、この書物の性格がよく表れています。学びとは、誰かに評価されるためではなく、それ自体が喜びなのだ、と。
学びて思わざれば則ち罔し ——『為政篇』
學而不思則罔、思而不學則殆。
書き下し: 学びて思はざれば則ち罔(くら)し、思ひて学ばざれば則ち殆(あや)ふし。
知識をいくら詰め込んでも、自分の頭で考え直さなければ、身につかないまま宙に浮きます。逆に、考えるばかりで学ばなければ、独りよがりの思い込みに陥って危うい。学ぶことと考えること。孔子はそのどちらかに偏ることを、はっきり戒めました。片方だけでは足りない——インプットとアウトプットという今風の言い方は、二千五百年前にすでに言い尽くされています。
之を知るを之を知ると為す ——『為政篇』
由、誨女知之乎。知之為知之、不知為不知、是知也。
書き下し: 由(いう)よ、女(なんぢ)に之を知るを誨(をし)へんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり。
知っていることを知っているとし、知らないことは知らないと正直に認める。それが本当の「知」だ——孔子は、血気盛んな弟子の子路に、そう語りかけます。知ったかぶりは、学びの入り口をふさぎます。知らないと認めた瞬間にだけ、次の一歩が始まる。単純ですが、大人になるほど言えなくなる一言です。
三人行けば、必ず我が師有り ——『述而篇』
三人行、必有我師焉。擇其善者而從之、其不善者而改之。
書き下し: 三人行けば、必ず我が師有り。其の善き者を択(えら)びて之に従ひ、其の善からざる者にして之を改む。
三人いれば、その中に必ず自分の師がいる。よい点は見習い、よくない点は「自分にも同じところはないか」と省みて正す。ここには、相手を選ばない学びの構えがあります。優れた人からだけ学ぶのではありません。欠点のある人すら、自分を映す鏡になる。そう思えたとき、世界のすべてが教材に変わります。
敏にして学を好み、下問を恥じず ——『公冶長篇』
敏而好學、不恥下問。
書き下し: 敏(びん)にして学を好み、下問(かもん)を恥ぢず。
頭がよく回るのに、なお学ぶことを好む。そして、目下の者にものを尋ねることを恥じない。この二つは、両立しそうで両立しない資質です。能力に自信のある人ほど、「知らない」と言えず、下の者に聞けなくなるからです。地位や年齢を脇に置いて素直に問える人だけが、伸び続ける。伸びる人の条件を、たった八文字が言い当てています。
思い邪無し ——『為政篇』
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰思無邪。
書き下し: 子曰く、詩三百、一言以て之を蔽えば、曰く、思い邪(よこしま)無しと。
現代語訳: 詩経三百編の詩は種々様々であるが、もし一言で全部を蔽い尽くせというならば、思うところに邪念がないということに尽きる。
詩経とは、論語と同じく儒教の重要な書物「四書五経」のひとつ。儒教において詩は重要視されており、人々の感情や風情を理解するために学ぶべきものとされています。「思い邪なし」は稲盛和夫氏の伝記のタイトルにもなっている言葉です。
故きを温めて新しきを知る(温故知新) ——『為政篇』
子曰、温故而知新、可以為師矣。
書き下し: 子曰く、「故きを温めて新しきを知らば、以て師と為るべし。」
現代語訳: 昔のことをよく研究し、それを参考に今つき当たっている問題や新しいことがらについて考えることが大切である。
温故知新の語源となった章句です。歴史について習熟することが物を教える者の条件であると書かれています。私の師匠のマイケルE.ガーバー氏によれば、全ての会社は社員を生徒とした学校です。そして、校長が社長ということになります。したがって、社長は歴史を知らなければならない、となります。世界で最も長い歴史を持つ我が日本国の歴史はもちろん、業界の歴史や、後継社長であれば創業時からの自社の歴史について十分に理解していることは社員を率いるうえで欠かせないことです。
之を知る者は之を好む者に如かず ——『雍也篇』
子曰:知之者不如好之者,好之者不如樂之者。
書き下し: 子曰わく、之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
現代語訳: あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。
これも最も有名な章句の一つ。社長であれば、自分の仕事を知り、好きになっており、楽しんでいる状態であるという人は多いかも知れません。特に業績が好調な時には。では、社員が仕事を楽しむ、という状態になるにはどうすればいいでしょうか。
まず知ると言う段階から考えてみましょう。楽しんでもらう前に、仕事のことをよく知ってもらうことが大切です。たとえば、
- その仕事の意義や意味
- その仕事を上手くやるやり方
- 業界や他社についての知識
- 自社についての知識
こういった知識を徹底的に知らなければ、好きになりようもありません。
次に好きになると言う状態です。好きになるには、
- 仕事自体を好きになる
- 会社が好きになる
- 上司や同僚が好きになる
- 社長が好きになる
といったようないくつかのパターンがあります。仕事は好きだが、上司が嫌で離職するケースもありますからね。全方位的に好きという感情を持ってもらうことが大切になります。
最後に楽しむという状態。仕事を楽しめるようになるには、仕事で成果を出すことです。私の師匠のマイケルE.ガーバー氏は、人は成果を出すことによって動機づけされる、と言っています。そのために必要なのが、普通の人でも仕事で成果が出せるような仕組みを作ることなのです。その仕組みに沿って働くことで成果を出せば、次はもっと大きな成果を出したいと感じ、自然と動機づけされるようになります。これが楽しむという状態に近いでしょう。
道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に游ぶ ——『述而篇』
子曰:志於道,據於德,依於仁,游於藝。
書き下し: 子曰わく、志は道に於き、拠は徳に於き、依は仁に於き、遊は藝に於く。
現代語訳: 正しい道を志し、徳を守り、思いやりの心でよりそい、趣味や教養(芸)を楽しむ余裕がある。
道と徳については解説不要と思います。最後の芸に遊ぶというのは、今でいえば教養を身に付けよ、ということになるでしょうか。日本電産創業者の永守氏は、ユーモアを大事にし、それで商談が決まったこともあるとおっしゃっており、多くの日本の経営者には、そういったユーモアを生み出す教養がないともおっしゃっています。事業に真剣に取り組みつつも、幅広く学び、教養に親しむことで、他分野から思わぬひらめきがあったりするものです。
自分を修めることについての名言
論語の視線は、いつも外ではなく内に向きます。他人をどう変えるかではなく、自分をどう正すか。そこにこの書物の一貫した重心があります。経営者にとっては、いちばん逃げ場のない章句が並ぶところでもあります。
吾日に三たび吾が身を省みる ——『学而篇』
吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。
書き下し: 吾(われ)日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交はりて信ならざるか。習はざるを伝ふるか。
一日に何度も、わが身を省みる。人のために真心を尽くしたか。友に誠実であったか。よく身につけていないことを、わかった顔で人に伝えていないか。弟子の曾子の言葉です。注目すべきは、反省の矛先がすべて自分に向いていることです。誰かを責める点検ではなく、自分を鍛える点検。この向きの違いが、伸びる人とそうでない人を分けます。
過ちて改めざる、是れを過ちと謂う ——『衛霊公篇』
過而不改、是謂過矣。
書き下し: 過ちて改めざる、是れを過ちと謂ふ。
過ちを犯すこと自体は、過ちではない。それを改めないことこそが、本当の過ちだ。孔子は、失敗そのものを責めません。人は必ず間違えるからです。問われるのはその後——間違いを認め、正せるかどうか。同じ失敗を「仕方なかった」で終わらせた瞬間に、はじめてそれは取り返しのつかない過ちに変わります。
人の己を知らざるを患えず ——『学而篇』
不患人之不己知、患不知人也。
書き下し: 人の己を知らざるを患(うれ)へず、人を知らざるを患ふ。
他人が自分を認めてくれない。そのことに気を病む必要はない、と孔子は言います。気にかけるべきは逆で、自分が他人を正しく理解できているかどうかだ、と。評価されないと焦るとき、人の意識は「認めてほしい」で埋まります。その向きをくるりと反転させる一句です。認められたいと嘆く暇があれば、まず相手を知れ。
君子は諸を己に求む ——『衛霊公篇』
君子求諸己、小人求諸人。
書き下し: 君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。
立派な人は、問題の原因をまず自分のなかに探す。つまらない人は、まわりのせいにする。両者を分けるのは、能力ではありません。うまくいかないとき、矢印をどちらに向けるか——その一点です。他人と環境に原因を求めているかぎり、自分が変わる余地は生まれません。責任を自分に引き受けた人からだけ、成長が始まります。
古の学者は己の為にす ——『憲問篇』
古之學者為己、今之學者為人。
書き下し: 古(いにしへ)の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。
昔の学ぶ者は、自分自身を高めるために学んだ。今の学ぶ者は、人に見せるために学ぶ。孔子の時代にすでに、この嘆きがありました。学びが「他人からどう見えるか」に乗っ取られると、資格やスコアは集まっても、肝心の中身が育ちません。何のために学ぶのか。動機のこの一問が、同じ努力の値打ちを丸ごと変えてしまいます。
切するが如く磋するが如く ——『学而篇』
子貢曰、「貧而無諂、富而無驕、何如。」子曰、「可也。未若貧而樂、富而好禮者也。」子貢曰、「詩云、『如切如磋、如琢如磨。』其斯之謂與。」子曰、「賜也、始可與言詩已矣。告諸往而知來者。」
書き下し: 子貢曰く、「貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。」子曰く、「可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には若かざるなり。」子貢曰く、「詩に云う、『切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し』と。其れ斯を之謂うか。」子曰く、「賜や、始めて与に詩を言う可きのみ。諸に往を告げて来を知る者なり。」
現代語訳: 子貢は孔子に質問をしました。「貧しくてもへつらうことがなく、豊になってもおごることがないのはいかがでしょうか?」
『切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し』とは、学問や道徳の修得には、これでいいという限界がない、ということです。文字通り、切磋琢磨の語源となった言葉です。切磋琢磨は、学問・道徳に、励みに励むこと。また、仲間同士互いに励まし合って向上することを指します。
経営者として成功している場合でも、他者に対する尊重と謙遜を忘れず、自己満足に陥らないことが求められます。一方で、貧しさや富裕が人間の価値を決定するものではなく、学問や礼儀を大切にすることが真の価値を生み出すとされています。
また、詩経の一節についての議論は、学び続け、自身を向上させる姿勢を持つことの重要性を示しています。経営者としては、常に自己改善を促進し、他者と共有することで、組織全体の成長を促進することができます。この章句は、謙虚さ、学び続ける姿勢、他者との尊重を大切にすることが、リーダーシップと組織の成功に繋がることを教えています。
先ず其の言を行い、而る後に之に従う ——『為政篇』
子貢問君子。子曰、先行其言、而後従之。
書き下し: 子貢君子を問う。子曰く、先ず其の言を行い、而る後に之に従う。
現代語訳: 子貢が君子はどんな人かと問うた。それに対して孔子が答えた。あることについて、あれこれ言う前に先ず行うこと。行った後に、言うことがあれば言う。
君子たる者、不言実行を肝に銘じよ、ということになります。これが現代経営に有効かどうかは意見が分かれるところでしょう。ただ、自らやったことのないことについてアレコレしゃべるな、と解釈すれば良く理解できます。
富と貴きとは、是れ人の欲する所なり ——『里仁篇』
子曰、富與貴、是人之所欲也;不以其道得之、不處也。貧與賤、是人之所惡也;不以其道得之、不去也。君子去仁、惡乎成名?君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是。
書き下し: 子曰わく、富と貴は人の欲するところなり。その道によらずして得れば、居らず。貧と賤は人の悪むところなり。その道によらずして得れば、去らず。君子仁を去りていずくにか名を成さん。君子は食を終うる間も仁に違わず、あわただしくともこれにより、困窮してもこれにより。
現代語訳: 富と身分は人の欲しがるところだ。正道でなければそれを得たとしても長くは居られない。貧と賤は人の憎むところだ。正道でなければたとえそうなってもそこから去ることはない。君子が仁を忘れてどうして名を成すというのか。君子は食事の間も仁に違うことは無く、慌ただしい時でも、躓いて倒れそうな時でも、必ず仁において行動する。
富や身分の獲得は、正しい手段や方法で得られるべきだと示唆されています。不正や不当な手段で成功を収めた場合、その状態が継続することは難しいとされています。君子が終食の間も仁に違わず、慌ただしい状況でも必ず仁を守るとされています。経営者も一貫性を持って、企業の理念や価値観を実践し続けることが大切です。変化や困難があっても、信念を持ち続けることが組織の方向性を明確にし、従業員やステークホルダーに安心感を与えます。
過ちを観て、斯に仁を知る ——『里仁篇』
子曰、人之過也、各於其黨。觀過、斯知仁矣。
書き下し: 子曰く、「人の過ちや、各々其の党に於てす。過ちを観て、斯(ここ)に仁を知る。」
現代語訳: ひとの過ち、過失は、それぞれその身近な人や仲間において起こるものだ。したがって、過失の内容を観察すると、その人の心のありよう、心根を知ることができる。
経営者であれば、失敗は付き物と言えるかもしれません。事業全体の失敗もあれば、人選の失敗、金銭面の失敗など様々なあります。この章句では、その人がどのような過ちを起こしたかを見れば人が分かるとあります。具体的にいえば、君子は人情が厚いために過ちを犯し、小人は人情の薄いために過ちを犯します。あなたが過去に犯した過ちはどちらが原因となっているのか、振り返ってみると良いでしょう。
位無きを患えず、立つ所以を患う ——『里仁篇』
子曰、不患無位、患所以立。不患莫己知、求為可知也。
書き下し: 子曰わく、位無きを患えず、立つ所以を患う。己を知る莫きを患えず、知らるべきを為すを求む。
現代語訳: 自分に地位が与えられないことを心配するより、自分に実力がないことを憂えよ。自分が周りから認められないことを心配するより、どうしたら認められるかを考えて努力することだ。
松下幸之助氏は、常に世間は正しいと思って行動することを心がけていたそうです。自社の商品が売れないのは単純に商品に魅力が無いからというわけです。また、社長の中には、社長という地位を認めたもらいたいという気持ちや、社員から認められたい、流石だと思われたい、という気持ちが強すぎる社長がいます。このような社長は過度な自尊心があり、それが時に過剰な業績志向や社員への圧力につながる可能性があります。
文質彬彬として、然る後に君子なり ——『雍也篇』
子曰:質勝文則野,文勝質則史。文質彬彬,然後君子。
書き下し: 子曰わく、質、文に勝てば則ち野、文、質に勝てば則ち史。文質彬彬として、然る後に君子。
現代語訳: 実質のほうが外面である文飾より勝ると品がなくなってしまう。文飾のほうが実質より勝ると、飾りが多くて実が少ない。実質と外面である文飾とがほどよく調和がとれて、はじめて君子と言える。
質とは自分の人徳や会社の実力と言えるでしょう。文とは自分の見た目や会社の見た目などのイメージ。実力があってもイメージが粗野であれば、その実力を発揮する場も見つけられません。逆にイメージ戦略だけが先行し、中身がなければ一時的には流行ってもお客様は離れていくでしょう。
仁と人格についての名言
仁とは、ひとことで言えば人を思う心です。論語はこれを定義するのではなく、さまざまな場面での「仁のふるまい」として繰り返し描きます。理念や社風という言葉に置き換えて読むと、腑に落ちる句が多いはずです。
儒教が徳の要とした「仁」は、のちに義・礼・智・信と並べて五常(仁義礼智信)として整理されました。
巧言令色、鮮なし仁 ——『学而篇』
巧言令色、鮮矣仁。
書き下し: 巧言令色、鮮(すく)なし仁。
言葉を飾り、表情をつくろって人に取り入る。そういう相手には、仁の心が乏しい。孔子は、愛想のよさそのものを疑えとは言いません。ただ、うわべの巧みさに人が引き寄せられやすいことを、よく知っていました。滑らかな言葉ほど、その裏を一度立ち止まって見る。人を見る目の、いちばん最初の関門です。
剛毅木訥、仁に近し ——『子路篇』
剛毅木訥、近仁。
書き下し: 剛毅木訥(ごうきぼくとつ)、仁に近し。
意志が強く、飾り気がなく、口数が少なく、実直である。そういう人は、仁の徳に近い。先の「巧言令色」のちょうど裏返しです。弁が立つことは、それ自体は徳ではありません。むしろ、言葉が少なく不器用なほうが、人柄の芯は伝わることがある。口のうまさで人を測る癖に、静かに釘を刺す一句です。
君子は器ならず ——『為政篇』
君子不器。
書き下し: 君子は器(うつわ)ならず。
君子は、一つの用途しかない器のようではない。器は、皿は皿、壺は壺と、決まった使い道しか持ちません。人がそうなってはいけない、と孔子は言います。一つの専門に閉じこもらず、広く見わたし、応用の利く見識と徳を備える。専門性が細分化した今こそ、この短い四文字は重く響きます。
君子は和して同ぜず ——『子路篇』
君子和而不同、小人同而不和。
書き下し: 君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
君子は、人と調和しながらも、無批判には同調しない。小人は、まわりに合わせるだけで、本当の調和には至らない。「和」と「同」は似て非なるものです。異なる意見を持ったまま協力できるのが和。反論を飲み込んで表面をそろえるのが同。会議が静かにまとまったとき、それが和なのか同なのか——問う価値のある違いです。
君子は人の美を成す ——『顔淵篇』
君子成人之美、不成人之惡。小人反是。
書き下し: 君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。
君子は、他人のよい点を伸ばし、実を結ぶよう助ける。悪いほうへは手を貸さない。小人は、その逆をする。人の成功を喜べるか、それとも足を引っ張りたくなるか。ここには、器の大きさがそのまま出ます。他人の長所に素直に目を向けられる人のまわりには、自然と人が育っていきます。
人にして不仁ならば、楽を如何せん ——『八佾篇』
子曰:人而不仁、如禮何;人而不仁、如樂何。
書き下し: 子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如(いかん)せん;人にして仁ならずんば、楽を如せん。
現代語訳: もし人において人を敬う心がなければ、いかに儀礼を形式的に行っても何になるのだろうか。もし人において人を敬う心がなければ、祭礼の歌舞を行っても何になるのだろうか。
いくら礼儀正しくても、心に仁(愛)がなければ、何も意味がない、ということです。会社においては、経営理念がこのようになっていないか要注意です。理念が必要だからと、美辞麗句を並びたてた理念を作っても、それが経営者の本心や原体験から来ていなければ何の意味もない理念になります。
君子は徳を懐い、小人は土を懐う ——『里仁篇』
子曰、君子懷德、小人懷土。君子懷刑、小人懷惠。
書き下し: 子曰わく、君子は徳を懐き、小人は土地を懐く。君子は刑(規範)を懐き、小人は恩恵を懐く。
現代語訳: 上に立つ者がつねに徳に心がけると、人民は安んじて土に親しみ、耕作にいそしむ。上に立つ者がつねに刑罰を思うと、人民はただ上からの恩恵だけに焦慮する。
上に立つ者、すなわち経営者やリーダーが徳に心がけることが強調されています。徳は、高潔さや倫理的な行動、誠実さなどを指します。経営者が徳を重んじることで、人民は信頼し、尊敬する対象となります。 一方で、経営者が刑罰や厳しい統制に焦点を当てると、人民は単なる規律や懲罰に恐れを感じ、創造的な発想や協力心が奪われる可能性があります。上からの圧力や厳しい処罰が支配的な場合、組織内の雰囲気は緊張感に満ち、従業員はただ恩恵を受けることに焦慮し、自発的に積極的な行動を起こしにくくなります。
義を見て為さざるは、勇無きなり ——『為政篇』
子曰:「非其鬼而祭之,諂也。見義不爲,無勇也。」
書き下し: 子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは、諂いなり。義を見て為さざるは、勇無きなり。
現代語訳: 祭る理由のない神々を祭るのは、へつらいである。勇気を持って人として行うべきことを行うべきだ。
2文から成り立っていますが、意味はつながっていません。伊藤仁斎によれば、この二つの事柄は心の弱い人間が犯しがちなことだから一緒になっているとのことです。祀る必要のない神々というのは自分の先祖の神々のことです。儒教では五常五倫という概念があり、五倫は父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友を大事にせよということです。そのため、自分の先祖を大切にする考えが儒教にはあります。そのため、先祖とは関係のない神を祭る必要はない、ということなのでしょう。ちなみに日本人も儒教の影響を受けてはいますが、八百万の神と言われるように、身近な神だけではなく、全てを平等に神々として祀るという特徴があります。
君子の道四有り ——『公冶長篇』
子謂子產:「有君子之道四焉:其行己也恭,其事上也敬,其養民也惠,其使民也義。」
書き下し: 子、子産を謂う、「君子の道四つ有り。其の己を行うや恭、其の上に事うるや敬、其の民を養うや恵、其の民を使うや義。」
現代語訳: 子産は、為政家の守るべき四つの道をよく守っている人だ。彼はまず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である。
経営者として成功するためには、四つの原則を守ることが不可欠であるとされています。
- 身を持すること恭謙である: 経営者は謙虚であることが求められています。自己誇示や高慢な態度ではなく、謙虚な態度を持つことで、信頼を築き、周囲との協力関係を強化できます。
- 上に仕えて敬慎である: 経営者は、自らがリーダーであると同時に、他の指導者や上司に対しても尊重と敬意を持つべきです。敬慎の態度が協力関係を深め、組織全体の調和を促進します。
- 人民に対して慈恵を旨としている: 経営者は、従業員や社会全体に対して慈愛の心を持ち、人々の幸福や繁栄に寄与することが求められます。人々への理解と思いやりが、組織の社会的責任を果たす一環となります。
- 人民の使役の仕方が公正である: 公正であることが経営者にとって不可欠です。従業員や関係者に対して公平かつ正義の原則に基づいた取り組みが、組織内の信頼を構築し、持続可能な成功に繋がります。
志と生き方についての名言
何を志し、どう年を重ねるか。孔子自身の来歴を語った句も含めて、生き方の芯にふれる言葉を集めました。座右の銘に選ばれることが多いのも、この一群です。
得るを見ては義を思う ——『子張篇』
子張曰:「士見危致命,見得思義,祭思敬,喪思哀,其可已矣。」
書き下し: 子張曰く、士は危うきを見ては命を致し、得るを見ては義を思い、祭には敬を思い、喪には哀を思う。其れ可なるのみ。
目の前に利益があらわれたとき、それが道義にかなうかを、まず考える。利は、人の判断を一瞬で曇らせます。だからこそ、飛びつく前のその一呼吸が効いてきます。得か損かではなく、正しいかどうか。順番を間違えないだけで、後で悔いる選択はずいぶん減ります。子張はこれを、危機に臨む覚悟や、祭りと喪に向かう心構えと並べました。士のふるまいは、平時も有事も一続きだということです。
賢を見ては斉しからんことを思う ——『里仁篇』
見賢思齊焉、見不賢而內自省也。
書き下し: 賢を見ては斉(ひと)しからんことを思ひ、不賢を見ては内に自ら省みる。
優れた人を見たら、あの人に近づこうと努める。劣った人を見たら、自分にも同じ欠点がないかと省みる。人を見て羨むのでも、見下すのでもありません。どちらの相手も、自分を磨く材料に変えてしまう。出会う人すべてが鏡になるという点で、先の「三人行けば必ず我が師有り」と一本の線でつながっています。
朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり ——『里仁篇』
朝聞道、夕死可矣。
書き下し: 朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆふべ)に死すとも可なり。
朝に真理を悟ることができたなら、その日の夕方に死んでも悔いはない。論語のなかでも、とりわけ張りつめた一句です。孔子にとって「道」を知ることは、命の長さと引き換えにできるほどの価値でした。長く生きることより、深く分かること。その優先順位の付け方に、この人の生き方の全部が凝縮されています。
吾十有五にして学に志す ——『為政篇』
吾十有五而志於学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲不踰矩。
書き下し: 吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)ふ。七十にして心の欲する所に従ひて、矩(のり)を踰(こ)えず。
十五で学に志し、三十で自立し、四十で迷わなくなり、五十で天命を知り、六十で人の言葉を素直に聞け、七十で思うままに振る舞っても道を外さなくなった。孔子が自らの生涯を振り返った言葉です。「而立(三十)」「不惑(四十)」「知命(五十)」——年齢を表すお馴染みの言葉の多くは、ここに由来します。完成された聖人ではなく、七十年かけて少しずつ仕上がっていった一人の人間の記録として読むと、この一句は急に身近になります。
徳は孤ならず、必ず隣有り ——『里仁篇』
德不孤、必有隣。
書き下し: 徳は孤ならず、必ず隣有り。
徳のある人は、決して孤立しない。必ず、それに共鳴して寄り添う人が現れる。正しくあろうとする毎日は、しばしば孤独で、報われないように感じられます。この一句は、そこに静かに手を添えます。すぐに理解されなくても、まっとうな在り方は、時間をかけて必ず人を引き寄せる。焦らず続けよ、という励ましです。
人、遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り ——『衛霊公篇』
子曰:「人無遠慮,必有近憂。」
書き下し: 子曰く、人遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り。
現代語訳: 遠い将来のことまで考えずに目先のことばかり考えていると、近いうちに必ず困ったことが起こる。
経営においてまさに当てはまる言葉。遠い将来のことを考える、すなわち会社のビジョンを考えるということです。ビジョンがなければ目の前のことで問題が起こります。「小計が大計を駆逐する」という私が考えた言葉があります。「小さな計画が、描くべき大きな計画を駆逐する」という意味です。たとえば、日々の仕事の中で、5年後を考えて事業の計画(大計)に取り組まないといけないのに、目の前の顧客のためのプロジェクト(小計)に終われていて、大計が出来ない、ということです。ビジョンの大切さはほとんどのリーダーが認識しているものの、忙しくてビジョンを考える時間がない、と言い訳します。しかし、本当は「忙しいからビジョンが描けないのではなく、ビジョンが描けないから忙しい」ということなのです。
”忙しくて小計しか出来ない人”は、目指すべき方向が決まっていないので、忙しいだけで、1年後も同じ地点にとどまっています。これは私たちの経験から言っても、すごくよくわかります。仕組み化に取り組もうと思っても、具体的なビジョンが決まっていないと、日々の仕事に追われて何も進まない人が多いのです。一方のビジョンが明確な人は、日々忙しいながらも、仕組み化を意識して着実に前に進んでいくことが出来ます。
人を用い、組織を治めることについての名言
論語の半分近くは、政治の書です。国を治める話は、そのまま会社を治める話として読めます。人をどう選び、どう任せ、何によって信を得るか——二千五百年前の答えは、驚くほど具体的です。
千乗の国を道むるに、事を敬して信 ——『学而篇』
子曰、「道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。」
書き下し: 子曰く、「千乗の国を道びくには、事を敬んで信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。」
現代語訳: 千乗の兵車を出しうる国を治めるには、政事(まつりごと)を慎んで行うと国民から信頼を得ることができる。国費を節約して、広く国民を愛し、民を国の為(国役)に従事させるときは、農閑期を利用するように心がける。
この章句からは、政治に携わる者は、人民を理解しなければならぬ、ということがわかります。人民が農業で忙しいときには国の労働に駆り出させるな、ということです。経営者の場合、人民は社員ということになるでしょう。社員の心情や生活、仕事ぶりをよく理解し、適切な指示や仕事を与えることが大切です。
衆星の之に共かうが如し ——『為政篇』
子曰、為政以徳、譬如北辰居其所而衆星共之。
書き下し: 子曰く、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰其の所に居て衆星之に共(むか)うが如し。
現代語訳: 徳を用いて政治を行うとする。それは、北極星を中心としてその周りを星がめぐるようなものである。
政治を北極星による比喩で表現した文。政治のリーダーは徳を中心とした統治を行うことで、あたかも北極星の周りの星が秩序だって回るように天下も円満に治まる、ということです。この比喩をそのまま取るならば、経営のリーダーはあちこちと飛び回るのではなく、自らの人徳を高めることによって、無為の統治、指導者が無欲、無私、無私利私欲であるべきだという考え方になります。具体的には、指導者が過度な干渉をせず、自然の流れに任せ、人々が自発的に善行を行うことを促進するを実現することが理想ということになります。実際、そのスタイルが有効かどうかは状況によるでしょう。
之を道びくに徳を以てす ——『為政篇』
子曰、道之以政、斉之以刑、民免而無恥。道之以徳、斉之以礼、有恥且格。
書き下し: 子曰く、之を道びくに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有り且つ格(いた)る。
現代語訳: 法律制度だけで民を導き、刑罰だけで秩序を維持しようとすると、民はただそれらの法網をくぐることだけに心を用い、幸にして免れさえすれば、それで少しも恥じるところがない。これに反して、徳をもって民を導き、礼によって秩序を保つようにすれば、民は恥を知り、みずから進んで善を行なうようになるものである。
儒教的な統治方法を端的にまとめた章句です。儒教では統治者の徳を重視するため、会社を上手く経営するには何よりも経営者の徳が大切であると説きます。一方、韓非子に代表される法家の思想では、法による統治をすることによって、属人的なリーダーシープに依存しないことを説いています。
会社経営においては、両者を活用することになります。リーダーが徳を積むことも重要ですが、社内の法を定めることも欠かせません。社員がそれを守ることによって、成果を出すことができ、自己成長につながるようにするような法を創ることが大切です。
関連する記事として以下を挙げておきます。
直きを挙げて枉れるに錯けば、則ち民服す ——『為政篇』
哀公問曰、何為則民服。孔子対曰、挙直錯諸枉、則民服。挙枉錯諸直、則民不服。
書き下し: 哀公問いて曰く、「何を為さば則ち民服せん。」孔子対えて曰く、「直きを挙げて諸(これ)を枉れるに錯(お)かば、則ち民服せん。枉れるを挙げて諸を直きに錯かば、則ち民服せず。」
現代語訳: 魯の君主、哀公が尋ねた。どうすれば人民が従ってくれるのだろう。孔先生がこれに応えておっしゃった、正しい人を登用して、不正を行う人の上に配置すれば、人民は従うだろう。不正を行う人を登用して、正しい人の上に配置すれば、人民は従いません。
人材配置、登用についての章句。解説の必要はないと思われます。
人材登用については以下もご参考に。
民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず ——『泰伯篇』
子曰:民可使由之,不可使知之。
書き下し: 子曰わく、民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず。
現代語訳: 人民大衆というものは、政策に従わせておけばよいので、彼らには何も知らせてはならない。(異論有)
解釈が分かれる章句の代表格です。人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい、だから、彼らに情報を知らせる必要はない、というのが一般的解釈です。孔子や論語は社会の階層構造を重視しているということこともあり、この解釈にも一理あります。
一方、「知らしむべからず」は「知らしてはならぬ」という禁止的な意味ではなく、「事理を説明して聞かせるのは難しいから、むしろ頼らしむる(信頼する)べきだ」という趣旨であるという主張もあります。
ただし、私たちは学者ではないので、解釈の正誤を議論する必要はありません。この章句から自分が受けた気づきを経営に活かせばよいのです。
ちなみに福沢諭吉は、「学問のすゝめ」の中で、この章句を引用し、以下のように語っています。私もこの意見に賛成です。
- 国の人々は主人と客分に分かれ、主人は智者で国を支配し、客分は何も知らない小民である。この状態では国が不安定である。
- 国の安全は、全ての人が自国を愛し、独立の気風を持ち、国を守ることに貢献することによって達成される。報国の大義は、財産や生命を失っても国のために尽くすことである。
- 政府は国を統治し、人民はその支配を受けるが、重要な決定においては政府だけでなく人民も参加すべきである。国を支えるのは政府だけでなく、国の人々全体の責任でもある。
或る人いわく、「民はこれによらしむべしこれを知らしむべからず、世の中は目くら千人目あき千人なれば、智者上にありて諸民を支配し上の意に従わしめて可なり」と。この議論は孔子様の流儀なれども、その実は大いに非なり。一国中に人を支配するほどの才徳を備うる者は千人のうち一人に過ぎず。 仮りにここに人口百万人の国あらん。このうち千人は智者にして九十九万余の者は無智の小民ならん。智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子のごとくして愛し、あるいは羊のごとくして養い、あるいは威しあるいは撫し、恩威ともに行なわれてその向かうところを示すことあらば、小民も識らず知らずして上の命に従い、盗賊、人殺しの沙汰もなく、国内安穏に治まることあるべけれども、もとこの国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は千人の智者にて、よきように国を支配し、その余の者は悉皆何も知らざる客分なり。すでに客分とあればもとより心配も少なく、ただ主人にのみよりすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を患うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。無智無力の小民ら、戈を倒さかしまにすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。さすればこの国の人口、名は百万人なれども、国を守るの一段に至りてはその人数はなはだ少なく、とても一国の独立は叶かない難きなり。
右の次第につき、外国に対してわが国を守らんには自由独立の気風を全国に充満せしめ、国中の人々、貴賤上下の別なく、その国を自分の身の上に引き受け、智者も愚者も目くらも目あきも、おのおのその国人たるの分を尽くさざるべからず。英人は英国をもってわが本国と思い、日本人は日本国をもってわが本国と思い、その本国の土地は他人の土地にあらず、わが国人の土地なれば、本国のためを思うことわが家を思うがごとし。国のためには財を失うのみならず、一命をも抛なげうちて惜しむに足らず。これすなわち報国の大義なり。 もとより国の政をなす者は政府にて、その支配を受くる者は人民なれども、こはただ便利のために双方の持ち場を分かちたるのみ。一国全体の面目にかかわることに至りては、人民の職分として政府のみに国を預け置き、傍よりこれを見物するの理あらんや。すでに日本国の誰、英国の誰と、その姓名の肩書に国の名あればその国に住居し、起居眠食、自由自在なるの権義あり。すでにその権義あればまたしたがってその職分なかるべからず。
民、信無くんば立たず ——『顔淵篇』
子貢問「政」。子曰:「足食,足兵,民信之矣。」子貢曰:「必不得已而去,於斯三者何先?」曰:「去兵。」子貢曰:「必不得已而去,於斯二者何先?」曰:「去食。自古皆有死,民無信不立。」
書き下し: 子貢、政を問う。子曰く、「食を足し、兵を足し、民之を信ず。」子貢曰く、「必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何をか先にせん。」曰く、「兵を去らん。」子貢曰く、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何をか先にせん。」曰く、「食を去らん。古より皆死有り、民信無くんば立たず。」
現代語訳: 子貢が政治の要諦を尋ねた。孔子「食糧を豊かにし、軍備を強化し、人民に信頼されることだ」。子貢「どれか一つを捨てなければならないとき、どれを捨てますか?」孔子「軍備を捨てる」子貢「残りの二つ、つまり食糧と信頼のどちらかを捨てなければならない場合、どちらを捨てますか?」孔子「もちろん食糧を捨てる。食糧がなければ人は死ぬが、信頼がなければ国家の基盤が立たない。
これも有名な章句です。孔子と子貢の対話を現代の経営に置き換えると、以下のような意味が込められるでしょう。
- 食糧を豊かにし: 企業や組織においては、社員や関係者に対して必要なリソースや環境を提供し、基本的な経済的な安定を確保することが必要です。これは給与や福利厚生、組織の財務的な安定などを指すかもしれません。マズローの欲求段階説でいうところの、一番下の欲求を満たすということです。
- 軍備を強化し: 競合他社との差別化や市場での強みを築くことが必要です。これは技術革新、パートナーシップ、優れた商品やサービスの提供などを指すかもしれません。
- 人民に信頼されること: 従業員、顧客、株主など関係者からの信頼を得ることです。透明性、倫理的な経営、社会的責任などがこれに該当します。
このうえで、大切な順をいえば、①人民からの信頼、②食糧、③軍備ということになります。
君君たり、臣臣たり ——『顔淵篇』
齊景公問「政」於孔子。孔子對曰:「君君,臣臣,父父,子子。」公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾得而食諸?」
書き下し: 斉の景公、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、「君君たり、臣臣たり、父父たり、子子たり。」公曰く、「善いかな。信に如し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟有りと雖も、吾得て諸を食らわんや。」
現代語訳: 斉の景公が先師に政治について問われた。孔子「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます。」景公「善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことは出来ないだろう。
各人が自らの立場を踏まえ、役割をきっちりととこなすことが国を治めるうえで大事であるという話です。松下幸之助氏は、人それぞれが天分を活かすことこそが、すべての人が幸福に生きることにつながると言っています。これはこの章句をさらに拡大させた人生や経営の要諦と言えるでしょう。
現代ビジネスでこの章句を活かすには、会社組織図の各役職の責任と役割を明確にすることが必要でしょう。。最も大事なのは、社長が社長の仕事を理解し、それをこなすということです。多くの中小企業では、社長が社長の仕事ではなく、一担当者として働いているだけのケースが多いです。しかしそれでは、会社の未来を形作ることが出来ません。
組織図の書き方については、以下の記事で解説しています。
近き者説び、遠き者来る ——『子路篇』
葉公問政。子曰:「近者說,遠者來。」
書き下し: 葉公、政を問う。子曰く、「近き者説び、遠き者来る。」
現代語訳: 葉公が政治を問うた。孔子「近い者を喜ばせ、遠い者を招き寄せる。
これは現代ビジネスにとっても非常に大切な章句と言えます。ここでいう近いものとは、今いる社員や今付き合っていただいている顧客のことです。彼らを満足させることによって、入社希望者が寄ってくるし、紹介されて購入する人も増えるということです。だいたい、うまく行っていない会社、利益が上がらない会社は、新しいことに目が行きがちです。組織内の環境を整えることなく新入社員を採用し、離職者を増やします。これは非常に利益を圧迫する方法です。また、新規顧客の獲得ばかりに目がいき、既存顧客からの利益を見逃すと広告費が嵩むばかりです。(参考:顧客生涯価値)
おわりに
論語の名言は、暗記するためではなく、使うためにあります。四十三句を読み通しても、生き方が一つも変わらなければ、それこそ「論語読みの論語知らず」です。
だから、全部を覚えようとしなくてかまいません。今日いちばん心に残った一句を、明日の選択にひとつだけ当てはめてみる。それを続けたとき、二千五百年前の言葉が、はじめて自分のものになります。