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史記 / 孔子世家

孔子子路に問ひて曰、詩に云ふ、兕に匪ず虎に匪ず、彼の曠野に率ふと。吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする。子路曰、意ふに吾未だ仁ならざるか、人の我を信ぜざるや。意ふに吾未だ知ならざるか、人の我を行はざるや。孔子曰、是れ有らんや。由、譬へば仁者にして必ず信ぜられなば、安くんぞ伯夷・叔齊有らん。知者にして必ず行はれなば、安くんぞ王子比干有らん。

新字:孔子子路に問ひて曰、詩に云ふ、兕に匪ず虎に匪ず、彼の曠野に率ふと。吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする。子路曰、意ふに吾未だ仁ならざるか、人の我を信ぜざるや。意ふに吾未だ知ならざるか、人の我を行はざるや。孔子曰、是れ有らんや。由、譬へば仁者にして必ず信ぜられなば、安くんぞ伯夷・叔斉有らん。知者にして必ず行はれなば、安くんぞ王子比干有らん。

書き下し

孔子子路に問ひて曰く、「詩に云ふ、『兕に匪ず虎に匪ず、彼の曠野に率ふ』と。吾が道非なるか、吾何為れぞ此に於てする」と。子路曰く、「意ふに吾未だ仁ならざるか、人の我を信ぜざるや。意ふに吾未だ知ならざるか、人の我を行はざるや」と。孔子曰く、「是れ有らんや。由、譬へば仁者にして必ず信ぜられなば、安くんぞ伯夷・叔齊有らん。知者にして必ず行はれなば、安くんぞ王子比干有らん」と。

現代語訳

「正しいことをし、優れていても、世に受け入れられ、報われるとは限らない」——窮地の中で、孔子が弟子と、道と現実について語り合った一段です。陳蔡の窮地の中、孔子は、弟子たちに、こう問いかけました。詩経の一節「(我々は、追われるべき)野牛でも虎でもないのに、この荒野を、さまよっている」を引いて、「私の(説いてきた)道が、間違っているのだろうか。(もし正しいなら、)なぜ、私は、こんな(ひどい)目に、遭っているのだろうか(吾道非邪、吾何為於此)」と。まず、剛直な弟子・子路が答えます。「思うに、我々が、まだ、仁(の徳)が足りないから、人々が、我々を信じてくれないのではないでしょうか。あるいは、まだ、知恵が足りないから、人々が、我々の道を、実行してくれないのではないでしょうか」と。(我々の側に、足りないところがあるから、受け入れられないのだ、という考えです。)これに対し、孔子は、こう諭しました。「そうだろうか。由(子路)よ。もし、仁徳のある者が、必ず、人々に信じられ、(報われる)のだとしたら、(仁徳がありながら、餓死した)あの伯夷・叔斉が、いたはずがないではないか。もし、知恵のある者が、必ず、その道を実行される(=世に用いられる)のだとしたら、(知恵がありながら、殺された)あの王子・比干が、いたはずがないではないか(安有伯夷叔齊、安有王子比干)」と。仁徳や知恵があっても、報われずに、不遇に終わった、立派な先人は、いくらでもいる。だから、「報われない=自分が至らない」とは、限らないのだ、というのです。ここに、正しさと報いについての教訓があります。第一に、正しいことをし、優れた徳や能力を持っていても、必ずしも、世に受け入れられ、報われるとは限らないということ。伯夷・叔斉も、比干も、立派でありながら、不遇に終わった。世の中は、正しい者、優れた者を、常に、正当に報いるようには、できていない。第二に、だからこそ、「報われない」「認められない」からといって、それを、ただちに「自分が至らないからだ」と、結論づけてはならないということ。不遇の原因は、自分の側だけでなく、それを受け入れない、世の側にもある。第三に、報いの有無によって、自らの道の正しさを、揺るがせないこと。組織や人生で、正しく優れていても報われるとは限らないと知ること、報われないことを直ちに自分の至らなさと結論づけないこと、そして報いの有無で自らの道の正しさを揺るがせないこと——孔子の伯夷・比干の例えは、正しさと現実の報いが必ずしも一致しないことを教えます。

解説

あなたは、正しいことをし、優れた徳や能力を持っていても、必ずしも世に受け入れられ、報われるとは限らないという、世の中の現実を、理解していますか?「報われない」「認められない」からといって、その原因を、ただちに「自分が至らないからだ」とだけ結論づけて、自分を責めすぎていないでしょうか?周囲の評価や報いの有無によって、自分の信じる道の正しさそのものを、安易に揺るがせていないでしょうか?

この一句を、あなたの毎日に。

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