五月五日の端午の節句に、ちまきを食べる。中国では竜の頭をつけた細長い舟で競漕をする。その由来として、たいてい一人の名前が挙がります。屈原(くつげん)です。国を憂えて川に身を投げた詩人で、人々が遺体を魚に食べられないよう米を投げ入れたのがちまきの始まり、と説明されます。
ところが、屈原の伝記のいちばん古いまとまった記録である『史記』の「屈原賈生列伝(くつげんかせいれつでん)」には、端午もちまきも一言も出てきません。そこに書かれているのは、能力を認められて王に重用され、同僚の讒言(ざんげん)で遠ざけられ、国の行く末について正しい忠告をして二度とも聞き入れられず、最後は自分から水に入った一人の官僚の話です。
この記事では、『史記』の屈原伝を背骨に屈原の生涯をたどり、「漁父(ぎょほ)との問答」が本によって結末が違うこと、司馬遷(しばせん)が百年後の青年・賈誼(かぎ)を同じ伝に入れた理由、端午の伝承の出どころ、屈原の実在をめぐる議論までを順に見ていきます。
経営の本として読むなら、これは「正しいのに通らない人」の話です。ただし先に言っておくと、『史記』は屈原を手放しでは褒めていません。そこがこの伝のいちばん面白いところです。
引用は、師導が収録する『史記』ほかの底本から、読みの欄をそのまま切り出しています。
屈原とは ― 先に輪郭を押さえておく
屈原は、中国の戦国時代、南方の大国・楚(そ)の政治家であり詩人です。名は平(へい)、原は字(あざな)とされます。生没年ははっきりせず、紀元前三四三年ごろに生まれ、前二七八年ごろに亡くなったとする説がよく知られています。
楚の王家と同じ血筋の名門の出で、若くして懐王(かいおう)の側近である「左徒(さと)」に就きました。のちに「三閭大夫(さんりょたいふ)」とも呼ばれます。後漢の王逸(おういつ)の注では、王族の昭・屈・景の三つの家を司る役とされます。
作品は詩集『楚辞(そじ)』に収められ、代表作が長編詩「離騒(りそう)」です。師導は『楚辞』を収録していないため、楚辞の作品は要旨や短い引用にとどめ、リンクは張っていません。
当時の楚は、西の秦(しん)と東の斉(せい)という二つの強国のあいだで、どちらと組むかを迫られていました。この「秦か斉か」が、屈原の生涯を最後まで縛ります。
一、草案を渡さなかった ― 失脚のはじまり
『史記』は屈原を、まず有能な官僚として描きます。
【書き下し】屈原は、名は平、楚の同姓なり。楚の懐王の左徒と為る。博聞彊志、治乱に明らかに、辞令に嫺(なら)ふ。入りては則ち王と国事を図議し、以て号令を出だす。出でては則ち賓客を接遇し、諸侯に応対す。王甚だ之に任ず。
出典:史記 屈原賈生列伝
見聞が広く記憶力がよく、治乱の道理に明るく、外交の言葉に長けていた。宮中では王と国事を練って命令を出し、外では賓客をもてなし諸侯に応対した。内政と外交の両方を任された、王の右腕です。
つまずきは、同格の同僚から来ました。
【書き下し】懐王屈原をして憲令を造為せしむ。屈平草槁を属して未だ定まらず。上官大夫見て之を奪はんと欲す。屈平与へず。因りて之を讒して曰く、「王屈平をして令を為さしむ、衆知らざる莫し。一令出づる每に、平其の功を伐り、以て我に非ざれば能く為す莫しと為す」と。王怒りて屈平を疏んず。
出典:史記 屈原賈生列伝
王から法令の起草を任され、まだ草稿の段階のものを、同僚の上官大夫(じょうかんたいふ)が見せろ、渡せと言った。屈原は渡さなかった。すると上官大夫は王に告げます。「屈平は法令が一つ出るたびに、自分でなければ作れないと手柄を誇っております」。王は怒って屈原を遠ざけた。
ここで押さえておきたいのは、讒言の中身です。上官大夫は嘘を一から作ったのではなく、屈原が実際に持っていた長所(起草を任されるほどの力)を、短所(手柄の独り占め)に言い換えただけです。そして王は、本人に確かめませんでした。
未完成の法案に横から手を入れさせない。屈原からすれば当然の判断でしょう。ただ、渡さなかったことが相手に口実を与えた。正しい判断と、それが周りにどう見えるかは別物だ、という最初の場面です。
二、「信にして疑はれ、忠にして謗らる」 ― 「離騒」はなぜ書かれたか
遠ざけられた屈原は、長い詩を書きます。司馬遷はその理由を、こう説明します。
【書き下し】屈平王の聴くことの聡ならざるを疾み、讒諂の明を蔽ふを、邪曲の公を害するを、方正の容れられざるを疾み、故に憂愁幽思して離騒を作る。
【書き下し】信にして疑はれ、忠にして謗らる、能く怨み無からんや。
出典:史記 屈原賈生列伝
誠実なのに疑われ、忠実なのにそしられる。怨まずにいられようか。「離騒」は怨みから生まれた、と司馬遷ははっきり書きます。「離騒」の意味は「憂いに離(かか)る」、つまり憂いに取りつかれること、というのが司馬遷の説明です。
この段の結びは、最大級の賛辞です。
【書き下し】此の志を推せば、日月と光を争ふと雖も可なり。
出典:史記 屈原賈生列伝
この志の高さは、日月と光を争ってもよいほどだ。ただ、後漢の班固(はんこ)の作とされる「離騒序」によれば、この賛辞はもともと、前漢の淮南王(わいなんおう)劉安(りゅうあん)が「離騒」に付けた解説の言葉です。司馬遷はそれを自分の伝に取り込みました。そして班固自身は、この賛辞は言い過ぎだと退けています(第九節で扱います)。屈原の評価は、最初から割れていたのです。
司馬遷が屈原にこれほど肩入れした理由は、本人が書き残しています。司馬遷は、友人の武将・李陵(りりょう)を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑という屈辱的な刑を受けました。その後に書いた『史記』の自序で、昔の人々は苦境のなかで書を残したと並べ、そのなかに「屈原放逐せられて、離騒を著し」と数えています(史記 太史公自序)。不当に退けられて書いた人の列に、司馬遷は自分自身を並べていました。
三、六百里と六里、そして武関 ― 聞き入れられなかった二度の忠告
屈原が退けられているあいだに、楚は大きく傾きます。『史記』の屈原伝の中盤は、ほぼ外交の失敗の記録です。
一度目は、秦の張儀(ちょうぎ)の策略でした。前三一三年ごろ、秦は楚と斉の同盟を割くため、張儀を楚に送り込みます。斉と手を切れば、秦は楚に商・於(しょう・お)の地六百里を献上する。懐王はこれを信じて斉と断交し、受け取りの使者を送ると、張儀は「私が約束したのは六里だ」と言った。怒った楚は秦を攻めて大敗し、『史記』は首を斬られること八万と書きます。張儀の側から見たこの一件は、蘇秦と張儀の記事で詳しく扱いました(蘇秦と張儀の生涯 ― 合従連衡の二人は、本当に同門のライバルだったのか)。
のちに楚は張儀の身柄を求め、捕らえながら、買収された重臣と寵姫の取りなしで帰してしまいます。斉から戻った屈原は「なぜ張儀を殺さなかったのですか」と諫めましたが、追っ手は間に合いませんでした。
二度目は、秦からの会見の誘いです。前漢の劉向(りゅうきょう)が編んだ『新序(しんじょ)』は、この場面をこう書きます。
【書き下し】後に秦女を楚に嫁がしめ、懷王と歡を與にし、藍田の會を爲す。屈原以爲えらく秦は信ず可からず、願わくは會する勿かれ、と。羣臣皆な以爲えらく會す可し、と。懷王遂に會す。果たして囚拘せられ、秦に客死し、天下の笑いと爲る。懷王の子頃襄王も、亦た羣臣の諂いて懷王を誤らせしを知る。其の罪を察せず、反って羣讒の口を聽き、復た屈原を放つ。
出典:新序 節士第七
秦は信用できない、会見には行かないでください。屈原はそう言い、群臣はみな行くべきだと言った。『史記』では、懐王の末子の子蘭(しらん)が「秦との親しみを絶つおつもりですか」と勧めたとされ、屈原の言葉は「秦は虎狼の国、信ずべからず」と記されます。懐王は武関(ぶかん)で秦の伏兵に囚われ、土地を割けと迫られて拒み、逃げ出して趙に入ろうとしても受け入れられず、前二九六年、秦で死にました。
『新序』の記述で重いのは、その後です。あとを継いだ頃襄王(けいじょうおう)は、父を誤らせたのが誰かを知っていた。それでも罪を問わず、讒言する者たちの口を聞いて、もう一度屈原を追放した。一度目の失敗は「知らなかった」で説明がつきます。二度目は、知っていて同じ側に付いたのです。
司馬遷はこの段で珍しく意見を書いています。忠臣を求めない君主はいない。それでも国が滅び続けるのは、忠臣だと思っている者が忠臣でないからだ。懐王は内では寵姫の鄭袖(ていしゅう)に惑わされ、外では張儀に欺かれた。「此れ人を知らざるの禍なり」、人を見る目がないことの災いである、と。
四、漁父との問答 ― 「衆人皆酔ひて我独り醒む」
江南に追われた屈原が、川のほとりで一人の漁師に出会う場面は、この伝でいちばん知られています。
【書き下し】屈原江浜に至り、髪を被り沢畔に行吟す。顔色憔悴し、形容枯槁す。漁父見て之に問ひて曰く、「子は三閭大夫に非ずや、何の故にして此に至るか」と。屈原曰く、「挙世混濁して我独り清く、衆人皆酔ひて我独り醒む、是を以て放たる」と。
出典:史記 屈原賈生列伝
やつれ果てた屈原に、漁師が「三閭大夫ではありませんか」と声をかける。屈原は答えます。世の中はみな濁っているのに、私ひとりが清い。人はみな酔っているのに、私ひとりが醒めている。だから追放されたのだ。
漁師の返事は、正反対の生き方の提案です。
【書き下し】漁父曰く、「夫れ聖人なる者は、物に凝滞せずして能く世と推移す。挙世混濁せば、何ぞ其の流に随ひて其の波を揚げざる。衆人皆酔はば、何ぞ其の糟を餔ひて其の醨を啜らざる。何の故に瑾を懐き瑜を握りて自ら放たれしむるを為すか」と。
出典:史記 屈原賈生列伝
聖人は世とともに移り変わっていける。世が濁っているなら流れに乗ればよい。みなが酔っているなら一緒に飲めばよい。どうして美しい玉を抱えたまま、わざわざ追われるのか。
屈原は答えます。
【書き下し】屈原曰く、「吾之を聞く、新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ、と。人又誰か能く身の察察たるを以て、物の汶汶たるを受くる者ならんや。寧ろ常流に赴きて江魚の腹中に葬らるるのみ、又安ぞ能く皓皓の白を以て世俗の温蠖を蒙らんや」と。
出典:史記 屈原賈生列伝
洗ったばかりの髪や体に、ちりを受けられようか。いっそ川に身を投げて魚の腹に葬られるほうがいい。
どちらが正しいか、この場面は答えを出しません。漁師の言うことは身を守る知恵ですし、屈原の言うことは筋が通っています。ただ一つ確かなのは、屈原は「酔っている人々」を説得する言葉を、もう持っていなかったということです。自分は醒めている、と言った時点で、周りとの話はそこで終わっています。
五、三つの漁父 ― 同じ場面が、本によって違う結末になる
この問答には、少なくとも三つの版があります。
一つ目は、いま読んだ『史記』です。漁師が問い、勧め、屈原が拒む。そこで場面は切れて、屈原は「懐沙(かいさ)の賦」を作って身を投げます。漁師がどう応じたかは書かれていません。
二つ目は『新序』です。こちらでは、漁師は生き方を説くのではなく、身を投げようとする屈原を止めに入ります。
【書き下し】將に自ら淵に投ぜんとす。漁父之を止む。屈原曰く、世皆な醉えり、我獨り醒む。世皆な濁れり、我獨り淸し。吾獨り之を聞く、新たに浴する者は必ず衣を振るい、新たに沐する者は必ず冠を彈く、と。又た惡くんぞ能く其の泠泠たるを以て世の嘿嘿たる者に更事せんや。吾寧ろ淵に投じて死せん、と。
出典:新序 節士第七
三つ目は『楚辞』の「漁父」です。問答の中身は『史記』とほぼ同じですが、最後に続きがあります。漁師はにっこり笑い、櫂を鳴らして去りながら歌う。「滄浪(そうろう)の水清まば、以て吾が纓(えい)を濯(あら)うべし。滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯うべし」。水が澄んでいれば冠のひもを洗い、濁っていれば足を洗えばいい。そう歌って、二度と口をきかなかった。
この「滄浪の歌」には、さらに別の読み方があります。『孟子』離婁(りろう)上篇では、子どもがこの歌を歌うのを聞いた孔子が、弟子にこう言います。「清めば斯に纓を濯い、濁れば斯に足を濯う。自ら之を取るなり」。水は、澄んでいるから冠のひもを洗ってもらえ、濁っているから足を洗われる。扱われ方は、水が自分で招いている。孟子はそこから「夫れ人必ず自ら侮りて、然る後に人之を侮る」と続けます(この章は師導の章句には収めていないため、リンクは張っていません)。
同じ歌が、『楚辞』では「世に合わせればいい」という勧めになり、『孟子』では「どう扱われるかは自分次第だ」という戒めになっている。
「漁父」が本当に屈原本人の作かどうかも、昔から疑われてきました。屈原が三人称で描かれていることなどから、後の人が屈原を偲んで書いたとみる研究者は少なくありません。日本の江戸時代の僧・慈雲(じうん)も、講義のなかでこう言っています。
【原文】楚辭ノ漁父ノ辭ナドハ。假設ケタルニモアルヘキガ。滄浪ノ水清バノ歌ハ。道ヲ寓セシ言ト見ユルシヤ。
漁父の辞は、仮に設けた話かもしれない。けれど滄浪の歌は、道を託した言葉に見える。本当にあった会話かどうかより、何を託した言葉かを読む、という態度です。
日本の読者は、この問答を正反対の向きに使ってきました。道元(どうげん)は、僧も世俗に合わせるべきだという風潮に反対するとき、屈原を引きます。
【原文】近代の僧侶多く世俗に隨ふべしと云ふ、今思ふに然あらず、世間の賢すらなを民俗にしたがふことをけがれたることゝ云ひて、屈原の如きんば、世は擧て皆よへり、我は獨り醒たりとて、民俗に隨はずして、終に滄浪に沒す、
出典:正法眼蔵随聞記 巻二
岡倉天心(おかくら てんしん)は『茶の本』で、道教の相対主義を説くときに、漁師の側の言葉を引きます。
【原文】屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す。」
天心は「屈原いわく」と書いていますが、問答のなかでこれを言ったのは漁師です(「漁父」を屈原の作とみれば、屈原が書いた言葉ではあります)。道元は屈原の側を、天心は漁師の側を引いたことになります。
六、石を抱いて汨羅へ ― そして楚は滅んだ
【書き下し】乃ち懐沙の賦を作る。是に於いて石を懐きて遂に汨羅に自沈して以て死す。屈原既に死するの後、楚に宋玉・唐勒・景差の徒有り、皆辞を好みて賦を以て称せらる。然れども皆屈原の従容たる辞令を祖とするも、終に敢て直諫する莫し。其の後楚日に以て削られ、数十年竟に秦の滅ぼす所と為る。
出典:史記 屈原賈生列伝
屈原は「懐沙の賦」を作り、石を抱いて汨羅(べきら)の淵に身を投げました。汨羅江は、いまの湖南省を流れる川です。
司馬遷はその後を短く書きます。屈原の死後、楚には宋玉(そうぎょく)らの詩人が出て、みな屈原の文辞を手本にした。しかし誰も、王を正面から諫めようとはしなかった。楚は年ごとに領土を削られ、数十年で秦に滅ぼされた。
屈原の死は前二七八年ごろ、秦の将軍・白起(はくき)が楚の都・郢(えい)を落とした年とする説が有力です。楚の滅亡は前二二三年。
司馬遷がここで対比しているのは、才能と直言です。文章の才能は受け継がれた。王に耳の痛いことを言う役目は、受け継がれなかった。
七、同じ伝に入った賈誼 ― 百年後の、もう一人の屈原
『史記』のこの伝は「屈原賈生列伝」といい、屈原の後に、百年以上あとの漢の人・賈誼(かぎ)の伝記が続きます。司馬遷が二人を同じ伝に入れた理由は、読めばすぐ分かります。同じことが繰り返されたからです。
【書き下し】賈生名は誼、雒陽の人なり。年二十余、最も少と為す。詔令の議下る每に、諸老先生言ふ能はず、賈生尽く之が為に対へ、人人各々其の意の出でんと欲する所の如し。諸生是に於いて乃ち以て能く及ばずと為す。
出典:史記 屈原賈生列伝
二十歳を少し過ぎて、朝廷の最年少。詔について議論が下されるたび、老練な学者たちが答えられないことに全部答え、しかもその答えは、居合わせた誰もが言いたかったことを言い当てていた。文帝は喜んで、一年のうちに太中大夫にまで引き上げます。
【書き下し】絳・灌・東陽侯・馮敬の属尽く之を害み、乃ち賈生を短じて曰く、「雒陽の人、年少初学、専ら権を擅にせんと欲し、諸事を紛乱す」と。是に於いて天子後亦た之を疏んじ、其の議を用ゐず、乃ち賈生を以て長沙王の太傅と為す。
出典:史記 屈原賈生列伝
建国の功臣たちがこぞって妬み、「洛陽の若造が権力を独り占めしようとして、何もかもかき回している」と言った。文帝も賈誼を遠ざけ、南方の長沙(ちょうさ)王の教育係に出した。屈原が上官大夫に「手柄を誇っている」と言われたのと、構造がまったく同じです。能力と熱意が、「権力を握ろうとしている」に言い換えられています。
長沙へ向かう途中、湘水(しょうすい)を渡った賈誼は、屈原を弔う文を書いて川に投じました(「弔屈原賦」)。『史記』に収められたその文は、屈原に同情しながら、最後にこう問いかけます。九州(天下)を見渡して仕える君主を選べばよかったのに、どうしてこの都ひとつにこだわったのか。
文帝は一年余りのちに賈誼を呼び戻し、深夜まで話を聞きます。
【書き下し】夜半に至り、文帝席を前む。既に罷めて曰く、「吾久しく賈生を見ず、自ら以て之に過ぐと為すも、今及ばず」と。
出典:史記 屈原賈生列伝
文帝は思わず座席を前へにじり寄せ、「自分のほうが上だと思っていたが、及ばない」と言った。ただ、このとき文帝が尋ねたのは国の政策ではなく、鬼神(霊魂)の本質についてでした。才能は認めた。けれど、使いどころは与えなかった。
賈誼はその後、文帝の末子・梁(りょう)の懐王の教育係になります。その懐王が落馬して亡くなると、賈誼は「傅(ふ)として役目を果たせなかった」と自分を責めて一年余り泣き続け、三十三歳で亡くなりました。屈原が仕えたのは楚の懐王、賈誼が最後に仕えたのは梁の懐王。偶然ですが、二人とも、仕えた「懐王」を失ったあとで死んでいます。
八、司馬遷は泣き、そして「爽然自失」した
伝の最後に、司馬遷は自分の揺れをそのまま書いています。
【書き下し】太史公曰く、「余、離騒・天問・招魂・哀郢を読み、其の志を悲しむ。長沙に適き、屈原の自沈する所の淵を観て、未だ嘗て涕を垂れずんばあらず、其の為人を想見す。賈生の之を弔ふを見るに及びて、又屈原の彼の其の材を以て、諸侯に游ばば、何の国か容れざらん、而も自ら是くの若くならしむるを怪しむ。服烏の賦を読み、死生を同じくし去就を軽んずるに、又爽然として自失す」と。
出典:史記 屈原賈生列伝
「離騒」などを読んで、その志を悲しんだ。長沙へ行って屈原が身を投げた淵を見たときは、涙を流さずにいられなかった。けれど賈誼の弔いの文を読むと、屈原ほどの才があれば、どの国へ行っても受け入れられたろうに、なぜ自分からこんな最期にしたのかと、不思議に思った。さらに賈誼の「服鳥の賦(ふくちょうのふ)」を読むと、生と死を同じものと見なし、進むも退くも軽く扱うその境地に触れて、呆然として自分が分からなくなった。
「服鳥の賦」は、長沙で三年目、部屋にふくろうが飛び込んできたときの作品で、禍と福は縄をより合わせたように入れ替わる、と自分を慰めるものです。
司馬遷の感想は三段で動いています。屈原に泣く。屈原に疑問を持つ。そして疑問を持った自分も分からなくなる。結論は出していません。『史記』の自序によれば、司馬遷は二十歳のころ南方を旅し、沅水(げんすい)・湘水に舟を浮かべています。淵を見て泣いたというのは、そのときの経験でしょう。さらに伝の末尾には、賈誼の孫の賈嘉(かか)が学問を好み、「余と書を通ず」、司馬遷と手紙をやりとりしていた、とあります。司馬遷にとってこの伝は、遠い昔話ではありませんでした。
九、屈原は、どう評価されてきたか
屈原の評価は、司馬遷のあとも割れ続けます。
厳しいほうの代表は、先ほどの班固の「離騒序」です。屈原は「才を露わし己を揚げ」、危うい国の小人たちと張り合って讒言に遭った、と批判しました。この言い方は、六世紀の顔之推(がんしすい)の『顔氏家訓』にも受け継がれます。文人の失敗を三十人以上並べた一段の、筆頭が屈原です。
【書き下し】屈原は才を露わし己を揚げ、君の過ちを顕暴す。
出典:顔氏家訓 文章
才能をひけらかし、主君の過ちを暴き立てた。つまり、正しいことを言ったかどうかではなく、言い方と振る舞いを問うています。
屈原を擁護する側は、責任を聴く側に置きます。前漢の塩と鉄の専売をめぐる御前会議の記録『塩鉄論(えんてつろん)』で、民間の学者たち(文学)はこう言いました。
【書き下し】是を以て孔子は東西遇う所無く、屈原は楚國に放逐せらるるなり。
出典:塩鉄論 相刺篇
【書き下し】屈原は澤畔に行吟して曰く、『安んぞ臯陶を得て之を察せん』と。
出典:塩鉄論 相刺篇
名医でも薬を飲まない病人は治せない。説く者が悪いのではなく、聴く者の過ちである。屈原は、見分けてくれる公正な裁き手がいないことを嘆いたのだ、と。
同じ『塩鉄論』には、管仲と屈原を並べた一節もあります。
【書き下し】夫れ屈原の淵に沈むは、子椒の譖に遭えばなり、管子の其の道を行うを得たるは、鮑叔の力なり。今鮑叔の力を睹ずして、汨羅の禍を見る、壽を以て終わらんと欲すと雖も、其れ能く得んや。
出典:塩鉄論 訟賢篇
屈原が淵に沈んだのは讒言に遭ったからで、管仲が思うように政治をできたのは、鮑叔(ほうしゅく)が支えたからだ。正しいことを言う人が生き延びられるかどうかは、その人の後ろに誰がいるかで決まる、という見方です。管仲と鮑叔の話は、管仲の記事でたどりました(管仲の生涯 ― 主君を射た男が宰相になり、親友を後継に推さなかった理由)。
評価はこうして割れます。屈原の振る舞いに問題があった(班固・顔之推)。聴く側に問題があった(塩鉄論の文学)。支える人がいなかった(同じく訟賢篇)。どれか一つが正しいというより、全部が同時に起きていたと読むのが、『史記』の書き方にいちばん近いと思います。
十、端午の節句と屈原 ― 伝承はどこから来たか
では、端午の節句と屈原はどこで結びついたのか。現存する文献で確かめられるのは、六世紀、南朝の梁(りょう)の時代の二冊です。
呉均(ごきん)の『続斉諧記(ぞくせいかいき)』には、屈原が五月五日に汨羅に身を投げ、楚の人々がその日になると竹筒に米を詰めて水に投じて祭った、という話が載っています。さらに、後漢の建武年間に長沙の区曲という人の前に「三閭大夫」を名のる人物が現れ、供えてもらう米がいつも蛟竜(こうりょう)に盗まれるので、楝(おうち)の葉でふさぎ、色糸で縛ってほしい、それは蛟竜が嫌うものだから、と頼んだという。これが、葉で包んで糸で縛るちまきの由来として語られてきました。
宗懍(そうりん)の『荊楚歳時記(けいそさいじき)』は、五月五日の舟の競漕について、世間では屈原が汨羅に身を投げた日とされ、その死を悼んで舟を出して救おうとしたのが始まりだ、と記します。ところが同じ本の注には、別の起源説が並んでいます。呉の地方では伍子胥(ごししょ)を迎える行事だとされ、屈原とは関係がない。越の地方の伝えでは越王勾践(こうせん)に始まる、と。しかもこの本では、ちまきを食べる習俗は五月五日ではなく、夏至の項に書かれています。
屈原の死から、これらの本までは八百年ほどあります。研究者のあいだでは、端午の習俗そのものは屈原より古く、屈原との結びつきは後から付いた伝承だとみるのが一般的です。ただ、後付けだから価値がないとは言えません。毎年同じ日に同じ人を思い出す仕組みを、人々は八百年かけて作り上げました。二〇〇九年、中国の端午節はユネスコの無形文化遺産に登録されています。
十一、屈原は実在したか
近代に入ると、屈原そのものを疑う議論が現れます。
清末の学者・廖平(りょうへい)は、『楚辞』は屈原一人の作ではないと論じました(のちに「屈原の実在を否定した最初の人」と言われるようになりますが、本人が疑ったのは作者のほうだった、という指摘もあります)。一九二二年には、胡適(こてき)が「読楚辞」という文章で、『史記』の屈原賈生列伝はとくに信用できないとし、屈原は「箭垛(せんだ)式の人物」だと述べました。箭垛とは矢を受ける的のこと。いろいろな話が、有名な一人の名のもとに矢のように集まって刺さった、という意味です。
これには反論が相次ぎ、一九八〇年代には日本の研究者の否定的な見方をめぐって日中で論争にもなりました。現在は、屈原が実在した楚の貴族であることは認めつつ、『楚辞』のどの作品が本人の作かは議論が続いている、というところでしょう。
実は司馬遷自身も、屈原の人となりを、詩を読んで「想見」した、思い描いたと書いています。私たちの知る屈原は、最初から詩と伝承と、それを読んだ人の涙が重なってできた人物です。
結び ― 正しいのに、通らなかった人
屈原の生涯を、組織の言葉に置き換えてみます。
能力を認められて要職に就いた。同僚に草案を渡さなかったことを口実に、「手柄を誇っている」と言われて外された。その後、会社の命運に関わる判断で二度、正しい忠告をした。二度とも通らず、会社は大きな損害を出した。そして次の経営者は、誰が判断を誤らせたかを知りながら、忠告した側をもう一度外した。
判断の中身は、すべて正しかったと言っていいでしょう。それでも班固は振る舞いを責め、賈誼は「なぜこの都ひとつにこだわったのか」と問い、司馬遷は泣いたあとで分からなくなった。
この伝が示しているのは結論ではなく、「正しいこと」と「通ること」のあいだの距離です。屈原は自分の清さで埋めようとし、漁師は世に合わせよと言い、塩鉄論の学者は聴く側の耳の問題だと言った。距離そのものは、二千年たっても消えていません。
組織の上に立つ人が読むなら、屈原の側ではなく、懐王と頃襄王の側に立って読むのが役に立ちます。耳の痛いことを言う人を、言い方を理由に外していないか。一度誤ったあとで、同じ人たちの声をまた聞いていないか。司馬遷の言葉で言えば、「人を知らざるの禍」です。
関連する章句と記事
この記事で引いた『史記』『新序』『塩鉄論』などの句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。
→ 史記の章句一覧
→ 新序の章句一覧
→ 塩鉄論の章句一覧
『史記』が伝を書いた、報われなかった人たちの記事です。
→ 孔子の弟子たち ― 顔回・子路・子貢の生涯と孔門十哲。同じ問いに三つの答え
→ 伯夷と叔斉 ― 首陽山で餓死した兄弟を、孔子は褒め、韓非子は「無益」と呼んだ
関連する記事です。
→ 蘇秦と張儀の生涯 ― 合従連衡の二人は、本当に同門のライバルだったのか
→ 管仲の生涯 ― 主君を射た男が宰相になり、親友を後継に推さなかった理由
→ イエスマンばかりになる理由 ― 本音が上がってこない七つの原因と、東洋古典の処方箋
→ 史記の名言12選 — 原文・現代語訳と、人を活かした者と活かせなかった者の記録
この記事の出典について
屈原の生涯は主に『史記』屈原賈生列伝に拠りました。師導が章句として収めていない伝の中盤(張儀の策略、武関での拘束など)は、師導が保存する『史記』の全文から要旨を記しています。「ごろ」と付けた年代は確定していません。
『楚辞』は師導に収録がないため、「漁父」の結末は要旨と短い引用にとどめました。『孟子』離婁上篇の滄浪の章も、全文から短く引いています。
「離騒序」は班固の作として伝わる文章に拠りましたが、作者には異説もあります。端午の伝承は『続斉諧記』『荊楚歳時記』に拠り、成立時期は研究上の見方を紹介するにとどめました。実在をめぐる議論は大筋のみを示し、個々の説の当否には立ち入っていません。