伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)は、三千年ほど前の中国にいたとされる兄弟です。一つの国の王子に生まれながら、位を譲り合って二人とも国を出て、最後は山にこもって餓死しました。
これだけなら、昔の変わった兄弟の話で終わります。ところがこの二人は、その後の二千年あまり、ほとんどすべての思想家に論じられてきました。孔子は褒め、孟子は褒めたうえで「度量が狭い」と注文をつけ、荘子は「泥棒と同じだ」と言い、韓非子は「使えない臣下」と切り捨てました。そして司馬遷(しばせん)は、歴史書『史記』に七十篇ある人物伝の、その一篇目にこの兄弟を置きました。
同じ二人の、同じ行いを見て、評価がここまで割れる人物はほかにいません。
この記事では、伯夷と叔斉の生涯を『史記』の伯夷列伝でたどり、そのうえで、後の思想家たちがこの二人をどう評価したのかを、原典を並べて見ていきます。評価が割れる理由を追っていくと、「筋を通す人を、組織はどう扱えばいいのか」という、いまの職場にもある問いに行き着きます。
引用は、師導が収録する各書の底本から、書き下し(原文を日本語の語順で読んだもの)の欄をそのまま切り出しています。
伯夷と叔斉とは ― 先に筋書きを押さえる
時代は、殷(いん)という王朝が倒れ、周(しゅう)という王朝が立った時期です。紀元前十一世紀ごろとされます。殷の最後の王・紂(ちゅう)は暴君として知られ、西方の周の武王(ぶおう)が兵を挙げてこれを滅ぼしました。中国で「易姓革命(えきせいかくめい)」、つまり徳を失った王朝が別の家に取って代わられる、という考え方の原型になった出来事です。
伯夷と叔斉は、殷に従う小国・孤竹(こちく)の君主の息子でした。孤竹国の場所ははっきりしませんが、いまの河北省の東北部、唐山市のあたりとする説があります。「伯」「叔」は兄弟の順を表す字で、伯夷が兄、叔斉が弟です。
二人が餓死した首陽山(しゅようざん)も、場所が一つに決まっていません。後漢の馬融は山西省の黄河の曲がり目、現在の永済のあたりとし、ほかにも洛陽の東北、隴西(いまの甘粛省)など、古くからいくつもの候補地が挙げられてきました。
筋書きを一行で言えば、こうなります。位を譲り合って国を捨て、武王の出兵を止めようとして止められず、新しい王朝の食べ物を拒んで餓死した。 以下、その一つずつを原文で見ていきます。
一、国を譲り合って、二人とも出ていった
『史記』伯夷列伝は、二人の生い立ちをこう書き出します。
【書き下し】伯夷・叔斉は孤竹の君の二子なり。父、叔斉を立てんと欲す。父卒するに及び、叔斉、伯夷に譲る。伯夷曰く、「父の命なり」と、遂に逃げ去る。叔斉も亦た立つを肯ぜずして之を逃る。国人、其の中子を立つ。
父の君主は、弟の叔斉を跡継ぎにしたいと考えていました。父が亡くなると、叔斉は兄に位を譲ろうとします。長男が継ぐのが筋だ、という考えです。ところが伯夷は「父の命なり」、父上が決めたことだ、と言って国を出てしまいます。すると叔斉も、兄をさしおいて位に就くことはできないと、後を追うように国を出ました。困った国の人々は、二人のあいだの「中子(ちゅうし)」、真ん中の息子を君主に立てました。
歴史書に出てくる跡継ぎの話は、たいてい奪い合いです。兄弟が殺し合い、親子が争う。その反対に、二人とも「自分ではない」と言って出ていったのがこの兄弟でした。
ここで押さえておきたいのは、二人の理屈が違うことです。伯夷は「父の決定」を守り、叔斉は「長幼の順序」を守った。どちらも筋は通っています。そして二つの筋を両方とも守った結果、二人とも国を失いました。筋を通すことと、何かを得ることが、最初から両立していない。この兄弟の生涯は、この一場面にすでに形が出ています。
二、武王の馬を押さえる ― 「臣を以て君を弑するは、仁と謂う可きか」
国を出た二人が向かったのは、西方の周でした。周の君主・西伯昌(せいはくしょう)、のちの文王が、年寄りを大切にすると聞いたからです。『史記』の周本紀にも、文王のもとに集まった人々のなかに二人の名が挙がっています。
ところが、二人が着いたときには文王はもう亡くなっていました。跡を継いだ武王は、父の位牌を車に載せて、殷の紂王を討つために東へ兵を進めようとしていました。二人はその前に立ちはだかります。
【書き下し】是に於いて伯夷・叔斉、西伯昌の善く老を養ふを聞き、盍ぞ往きて帰せざらん、と。至るに及び、西伯卒す。武王、木主を載せ、号して文王と為し、東して紂を伐つ。伯夷・叔斉、馬を叩へて諫めて曰く、「父死して葬らず、爰に干戈に及ぶは、孝と謂ふ可きか。臣を以て君を弑するは、仁と謂ふ可きか」と。左右、之を兵せんと欲す。太公曰く、「此れ義人なり」と、扶けて之を去らしむ。
「叩馬(こうば)」、馬の手綱を押さえて諫めたのです。言い分は二つでした。父の葬儀も済まないうちに戦を始めるのは、孝(親への務め)と言えるのか。臣下の身で主君を討つのは、仁(人の道)と言えるのか。
武王の側近たちは二人を斬ろうとしました。止めたのは、軍師の太公望(たいこうぼう)です。「此れ義人なり」、これは義の人だ、と言って、二人を抱きかかえるようにして脇へ退かせました。
この場面の重さは、二人が止めようとしたのが、のちに「正義の革命」として語られる戦だったことにあります。紂王が暴君だったことは二人も分かっていたはずです。それでも「暴君を討つためなら、臣下が主君を殺してもよいのか」と問うた。目的の正しさで手段を正当化しない、という立場です。
三、首陽山と采薇の歌 ― 「暴を以て暴に易う」
武王は殷を滅ぼし、天下は周に従いました。二人の取った道は、これです。
【書き下し】武王、已に殷の乱を平らげ、天下、周を宗とす。而るに伯夷・叔斉は之を恥ぢ、義として周の粟を食らはず、首陽山に隠れ、薇を采りて之を食らふ。餓ゑて且に死せんとするに及び、歌を作る。其の辞に曰く、「彼の西山に登り、其の薇を采る。暴を以て暴に易へ、其の非を知らず。神農・虞・夏、忽焉として没わる。我、安にか適きて帰せん。于嗟、徂かん、命は之れ衰へたり」と。遂に首陽山に餓死す。
「義として周の粟を食らはず」。粟(ぞく)は穀物、つまり周の治める土地でとれた食べ物です。それを口にすることは周の支配を認めることになる、として拒み、首陽山にこもって薇(ぜんまい、またはわらびの類)を採って食べました。
そして死の間際に作ったとされるのが「采薇(さいび)の歌」です。
「彼の西山に登り、其の薇を采る」。あの西の山に登って、薇を採る。「暴を以て暴に易へ、其の非を知らず」。暴力で暴力を取り替えて、それが間違いだと気づいてもいない。神農や舜・禹の時代はたちまち過ぎ去った、私はどこに身を寄せればいいのか。ああ、もう行こう、命は尽きた。
殷の暴政を周の武力で置き換えただけで、世の中の仕組みは何も変わっていない。二人が餓死してまで言いたかったのは、そのことでした。
この歌は『詩経』には入っておらず、『史記』が「軼詩(いっし)」、世に埋もれた詩として伝えたものです。この点は、あとで司馬遷の評価を読むときに効いてきます。
四、もう一つの伝え方 ― 盟約を見て、笑って去る
ここまでが『史記』の筋書きです。ところが、同じ二人の話は、ほかの書では違う形で伝わっています。
『荘子(そうじ)』の譲王篇と『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』の誠廉篇は、ほぼ同じ話を載せています。そこには、武王の馬を止める場面がありません。二人は周の様子を見に行き、武王の弟・周公旦(しゅうこうたん)が殷の家臣と盟約を結ぶのを目にします。「味方すれば富を増やし、官位を与えよう」と約束し、生け贄の血を塗った誓約書を埋める。それを聞いた二人の反応はこうでした。
【書き下し】二人相視て笑いて曰く、「嘻(ああ)、異なるかな。此れ吾が所謂道に非ざるなり。……今、周は殷の乱るるを見て遽(にわ)かに政を為す。上は謀り下は貨を行う。兵を阻(たの)みて威を保ち、牲を割きて盟いて以て信と為し、行を揚げて以て衆を説(よろこ)ばせ、殺伐して以て利を要(もと)む。是れ乱を推して以て暴に易(か)うるなり。吾聞く、古の士は治世に遭えば其の任を避けず、乱世に遇えば苟(いやしく)も存するを為さずと。今、天下は闇く、周の徳は衰えたり。其の周に並びて以て吾が身を塗(けが)さんよりは、之を避けて以て吾が行を絜(きよ)くするに如かず」と。
顔を見合わせて笑った、というのです。「ああ、おかしなことだ。これは我々の言う道ではない」。周は殷が乱れたのを見て、にわかに政権を取ろうとしている。上は策をめぐらし、下は賄賂を使い、武力を頼んで威を保ち、盟約をもって信義とし、殺し合いで利益を求める。「乱を推して以て暴に易うる」、乱れを推し進めて暴虐と取り替えているだけだ。周に加わって身を汚すより、避けて行いを清く保つほうがいい。
【書き下し】二子北のかた首陽の山に至り、遂に餓えて焉(そこ)に死せり。
→ 荘子 譲王篇(周の盟約を見て去る)
→ 荘子 譲王篇(首陽山で餓死する)
→ 呂氏春秋 誠廉篇(同じ話の別の伝え)
『史記』の二人は、戦争の是非を問いました。こちらの二人が拒んだのは、利益で人を釣る統治のやり方です。さらに『韓非子』の姦劫弒臣篇は、「武王が天下を譲ろうとしたのに受けなかった」と、また別の筋書きを書いています(第十節で読みます)。
どれが本当の出来事なのかは、もう確かめようがありません。ただ、どの伝えでも差し出されたものを受け取らず、首陽山で餓死したという骨格だけは動きません。この兄弟は、史実の人物である以上に、「拒む」という態度そのものの名前になっていった、と見ることもできます。
五、孔子 ― 「仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん」
二人をはっきり高く評価したのは孔子です。『論語』に、伯夷・叔斉の名は四回出てきます。
いちばん有名なのは述而篇の一章です。ここは、背景を知らないと意味が取れません。
【書き下し】冉有曰く、「夫子は衛君を為けんか。」子貢曰く、「諾、吾将に之を問わんとす。」入りて曰く、「伯夷・叔斉は何人ぞや。」曰く、「古の賢人なり。」曰く、「怨みたるか。」曰く、「仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん。」出でて曰く、「夫子は為けざるなり。」
当時、孔子は衛(えい)の国に滞在していました。その衛では、君主の座をめぐって親子が争っていました。国外に追われていた父・蒯聵(かいがい)が戻ろうとし、すでに君主になっていた息子の輒(ちょう)がそれを拒んでいたのです。朱熹の注をはじめ、この章はその事情を踏まえて読まれてきました。
弟子の冉有(ぜんゆう)は「先生は衛の君主の味方をなさるだろうか」と気にかけます。そこで子貢(しこう)が聞きに行く。ただし衛の君主のことは聞かず、「伯夷・叔斉はどんな人ですか」「二人は怨んだでしょうか」と聞いた。孔子の答えが「仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん」、人の道を求めて、それを得たのだ、何を怨むことがあろう。
子貢は部屋を出て「先生は衛君の味方をなさらない」と言いました。位を譲り合って国を捨てた兄弟を褒める人が、父と位を争う君主を助けるはずがない、というわけです。
孔子は、ほかの章でも二人を取り上げています。公冶長篇では「旧悪を念わず」、人の過去の悪事を根に持たなかった人として。そして季氏篇では、こうです。
【書き下し】斉の景公、馬千駟有り。死するの日、民徳として称する無し。伯夷・叔斉、首陽の下に餓う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之謂うか。
→ 論語 季氏篇
斉の景公は四千頭の馬を持っていたが、死んだ日に民は誰も褒めなかった。伯夷・叔斉は首陽山のふもとで飢えたが、民は今に至るまで二人を称えている。財産は死ねば終わるが、評判は残る。孔子は二人を、名が残った人の代表として挙げています。
そして微子篇では、世を逃れた七人の「逸民(いつみん)」を並べ、二人をこう評しました。
【書き下し】子曰く、「其の志を降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か。」
→ 論語 微子篇
志を下げず、身を辱めなかったのは伯夷・叔斉だろう。ただし、この章の最後で孔子は「我は則ち是に異なり。可も無く不可も無し」、自分は彼らとは違う、こうでなければならないということがない、と付け加えています。褒めてはいるが、自分はそうは生きない。 この距離の取り方は、あとで孟子がはっきり言葉にします。
六、司馬遷 ― 「怨みたるか、非ざるか」
孔子は「二人は怨まなかった」と言いました。これに正面から異を唱えたのが、司馬遷です。伯夷列伝は、孔子の言葉を引いた直後にこう続けます。
【書き下し】余、伯夷の意を悲しむ。軼詩を睹るに異なれりとす可し。
私は伯夷の心を思うと悲しくなる。世に埋もれた詩を見ると、孔子の言うのとは違うように思える。そう書いて、先ほどの采薇の歌を全文引きます。「私はどこに身を寄せればいいのか」「命は尽きた」と嘆く歌です。そして、こう問います。
【書き下し】此れに由って之を観れば、怨みたるか、非ざるか。
これを見れば、二人は怨んでいたのか、いなかったのか。孔子という最大の権威の評価を、本人が遺した歌と突き合わせて疑っているのです。
司馬遷の問いは、そこで止まりません。善人が報われないのはなぜか、という問いに広がっていきます。二人ほど仁を積み行いを清くした者が餓死し、孔子がいちばん学問好きと認めた弟子の顔回(がんかい)は貧しいまま若死にし、人を殺して回った大盗賊の盗跖(とうせき)は天寿を全うした。
【書き下し】余、甚だ惑ふ。儻くは所謂天道は、是か非か。
私は深く戸惑う。いわゆる天道、天の道理というものは、正しいのか、間違っているのか。この「天道是か非か」の一節は、史記の名言の記事で詳しく読みました。顔回がどんな人で、孔子がその死をどう嘆いたかは、孔子の弟子たちの記事でたどっています。
実は、「善人が必ず報われるなら伯夷はいない」と最初に言ったのは、孔子自身でした。『史記』孔子世家によれば、陳と蔡のあいだで食糧が尽き、弟子たちが不満を募らせたとき、孔子は子路にこう言っています。
【書き下し】由、譬へば仁者にして必ず信ぜられなば、安くんぞ伯夷・叔齊有らん。知者にして必ず行はれなば、安くんぞ王子比干有らん」と。
→ 史記 孔子世家
仁者なら必ず信じてもらえるというなら、伯夷・叔斉のような人がいるはずがない。知者なら必ず用いられるというなら、王子比干(ひかん)のような人がいるはずがない。比干は、紂王を諫めて殺された殷の王族です。孔子も、正しい人が報われないことは知っていた。 そのうえで「怨まなかった」と言った。司馬遷は同じ事実から、「本当に怨まなかったのか」と問い返した。二人の違いは事実の認識ではなく、そこから何を読み取るかにあります。
七、なぜ列伝の最初に置いたのか
『史記』の列伝は七十篇あります。孫子、韓非、蘇秦、商鞅と、国を動かした人々の伝がずらりと並ぶなかで、一篇目が伯夷列伝です。しかもこの篇は、伝記としては異様な作りをしています。二人の事績を書いた部分は、全体のほんの一部しかない。 大半は、司馬遷自身の自問です。
篇の書き出しからして、伯夷の話ではありません。堯(ぎょう)が譲ろうとした天下を受けずに逃げた許由(きょゆう)の話から始まり、司馬遷は問います。孔子は伯夷のことは詳しく書き残したのに、同じように義の高かった許由や務光(むこう)の記録は、なぜほとんど見当たらないのか(→ 史記 伯夷列伝(書き出し))。
そして篇の結びで、その答えらしきものを書きます。
【書き下し】伯夷・叔斉は賢なりと雖も、夫子を得て名益々彰はる。顔淵は篤学なりと雖も、驥尾に附して行ひ益々顕はる。……閭巷の人、行ひを砥ぎ名を立てんと欲する者は、青雲の士に附くに非ずんば、悪んぞ能く後世に施かんや。
伯夷・叔斉は賢人だったが、孔子に評されて名がいっそう輝いた。顔回は学問に篤かったが、孔子という駿馬の尾につかまって、その行いがいっそう知られるようになった。町の片隅の人が行いを磨いて名を立てようとしても、それを書き残す力のある人に出会わなければ、どうして後の世に伝わるだろうか。
つまり司馬遷は、こう言っているのです。善人が報われるかどうかを天は保証しない。だが、書き残す者がいれば、名は残る。 伯夷が報われたとすれば、それは孔子が書いたからだ。
ここに、司馬遷自身の事情を重ねる読み方があります。司馬遷は紀元前九九年、匈奴に降伏した将軍・李陵(りりょう)を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑(去勢の刑)に処されました。『史記』の最終篇・太史公自序には、その経緯がこう書かれています。
【書き下し】太史公李陵の禍に遭ひ、縲紲に幽せらる。
→ 史記 太史公自序
正しいと思うことを言って、罰を受けた。報われなかった人間が、報われなかった人々を書き残す仕事を続けた。伯夷列伝を列伝の最初に置いたのは、「この本はそういう人々のために書く」という宣言だった、とする読み方です。これは研究者のあいだでも広く行われている解釈ですが、司馬遷本人がそう書いているわけではない点は断っておきます。
篇の中ほどで司馬遷は、孔子の「歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るるを知る」を引き、「世を挙げて混濁して、清士乃ち見はる」と続けています(→ 史記 伯夷列伝)。世の中全体が濁ってはじめて、清い人が目に見える。危機の時になって、何を拒むかで人の芯が分かる。
八、孟子 ― 「聖の清なる者」、そして「隘」
孔子の評価を受け継ぎつつ、そこに注文をつけたのが孟子です。孟子は伯夷を、孔子と並ぶ「聖人」の一人に数えました。
【書き下し】孟子曰く、「伯夷は、聖の清なる者なり。伊尹は、聖の任なる者なり。柳下惠は、聖の和なる者なり。孔子は、聖の時なる者なり。
→ 孟子 萬章章句下
伯夷は聖人のなかの「清」、つまり汚れを拒むことに徹した人。伊尹(いいん)は「任」、天下を背負って働くことに徹した人。柳下恵(りゅうかけい)は「和」、誰とでも折り合える人。そして孔子は「時」、時に応じて去就を決められる人だ、と。同じ篇で、孟子は伯夷をこう描いています。仕えるにふさわしい君でなければ仕えず、乱れた世なら退く。紂王の時代には北の海辺に住んで、天下が清らかになるのを待っていた。
さらに孟子は、伯夷を「百世の師」とまで呼びました。
【書き下し】故に伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つる有り。
→ 孟子 盡心章句下
伯夷の生き方を伝え聞いた者は、欲深い者でも清廉になり、意気地のない者でも志を立てる。百世の後まで人を奮い立たせる、と。
ところが、別の章ではこう言うのです。
【書き下し】孟子曰く、「伯夷は隘なり。柳下惠は不恭なり。隘と不恭とは、君子由らざるなり。」
「伯夷は隘(あい)なり」。隘は、狭いこと。伯夷は度量が狭く、柳下恵は慎みがない。どちらも君子の取る道ではない。同じ章によれば、伯夷は悪人とは口もきかず、村の誰かの冠が曲がっていただけで、自分まで汚されるかのようにその場を去った人でした。
聖人と呼びながら、見習うなと言う。矛盾に見えますが、筋は通っています。伯夷の「清」は、人を奮い立たせる基準としては最高だが、そのまま真似れば、誰とも働けなくなる。 手本にはするが、生き方の型にはしない。孔子が「我は則ち是に異なり」と距離を取ったのと、同じ線の引き方です。
九、荘子と列子 ― 名に殉じた点で、盗跖と同じ
儒家が「どこまで褒めるか」を論じたのに対し、道家は褒めること自体を疑いました。
『荘子』駢拇(べんぼ)篇は、伯夷を大盗賊の盗跖と並べます。
【書き下し】伯夷は名に首陽の下に死し、盗跖(とうせき)は利に東陵の上に死す。二人なる者は、死する所同じからざるも、其の生を残(そこな)い性を傷るに於けるは均し。奚ぞ必ずしも伯夷を是として盗跖を非とせんや。
→ 荘子 駢拇篇
伯夷は名誉のために首陽山のふもとで死に、盗跖は利益のために東陵の丘で死んだ。死んだ理由は違っても、自分の命を損ない、本性を傷つけた点は同じだ。どうして伯夷を正しいとし、盗跖を間違いとする必要があるのか。
荘子の言い分はこうです。人はみな何かに「殉じて」いる。殉じる相手が仁義なら世間は君子と呼び、財産なら小人と呼ぶ。だが、外にある何かのために自分を差し出している点では変わらない。盗跖篇では、世間が賢人と呼ぶ伯夷・叔斉を「骨肉葬られず」、遺体すら葬られなかった者として、ほかの「名のために死んだ人々」と一緒に並べています(→ 荘子 盗跖篇)。
『列子』の楊朱(ようしゅ)篇は、もっと辛辣です。
【書き下し】楊朱曰く、伯夷は欲亡きに非ず。清を矜るの郵、以て餓死に放る。
伯夷に欲がなかったのではない。清らかさを誇ることが行き過ぎて、餓死に至ったのだ。同じ篇では、堯や舜は譲るふりをして天下を失わず、伯夷・叔斉は本当に譲って国を失った、本気で譲った者が損をする、とまで皮肉っています(→ 列子 楊朱篇)。
道家の批判は、伯夷が間違っていたと言っているのではありません。「清い」という評価そのものが、人を死に追いやる物差しになっていないか、と問うているのです。
十、韓非子 ― 賞でも罰でも動かせない「無益の臣」
最も冷たい評価を下したのは、法家の韓非子です。
【原文】古有伯夷、叔齊者,武王讓以天下而弗受,二人餓死首陽之陵。若此臣,不畏重誅,不利重賞,不可以罰禁也,不可以賞使也,此之謂無益之臣也。
昔、伯夷・叔斉という者がいた。武王が天下を譲ろうとしたが受けず、二人は首陽の丘で餓死した。このような臣下は、重い刑罰を恐れず、重い褒賞も欲しがらない。罰で止めることもできず、賞で使うこともできない。これを「無益の臣」という。
韓非子の統治論は、賞と罰という「二つの柄(え)」で人を動かすことを土台にしています。その仕組みから見れば、賞にも罰にも反応しない人間は、どれほど清くても使い道がない。むしろ、ほかの臣下が真似をすれば、仕組みそのものが回らなくなる。
ただし、韓非子は伯夷を全否定しているわけでもありません。守道篇には、こんな一節があります。
【原文】度量信,則伯夷不失是,而盜跖不得非。
→ 韓非子 守道篇
度量、つまり物差しとしての法が信頼できれば、伯夷は正しさを失わず、盗跖は悪事を通せない。ルールがしっかりしていれば、伯夷のような人は守られる。 韓非子が嫌ったのは伯夷の清さではなく、清い人の清さに頼って国を治めることだった、と読むこともできます。
その韓非自身も、仕組みの外で報われずに死んだ一人でした(→ 韓非の生涯)。
十一、日本の伯夷叔斉 ― 徳川光圀と西郷隆盛
この兄弟の話は、日本でも読まれ、人の生き方を実際に変えました。
一人は、水戸藩の二代藩主・徳川光圀(みつくに)です。光圀は三男でしたが、七歳上の兄・頼重(よりしげ)をさしおいて跡継ぎに選ばれていました。正保二年(一六四五)、十八歳のとき、光圀は『史記』の伯夷伝を読んで強く心を動かされたと伝えられます。国を譲り合った兄弟の話です。兄を越えて家を継いだ自分の立場と重なったのでしょう。
光圀はのちに兄の子・綱条(つなえだ)を養子に迎えて水戸家を継がせ、自分の子は兄の家(高松藩)の養子に出しました。伯夷伝は学問に打ち込むきっかけにもなり、明暦三年(一六五七)、光圀は歴史書『大日本史』の編纂を始めます。司馬遷が「書き残す者がいれば名は残る」と書いた篇を読んだ若者が、歴史書を編むことに生涯をかけたわけです。
もう一人は、西郷隆盛です。『南洲翁遺訓』にこうあります。
【原文】道を行ふ者は、天下挙て毀るも足らざるとせず、天下挙て誉るも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。其の工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。
道を行う者は、世の中がこぞって非難しても気にせず、こぞって褒めても満足しない。それは自分を信じる心が厚いからだ。その工夫は、韓文公(唐の文人・韓愈)の「伯夷頌(はくいしょう)」を熟読して身につけよ。
韓愈の「伯夷頌」の要旨はこうです。一家に非難されても道を貫く者は少なく、世の中すべてに非難されても貫く者は千年に一人だ。殷が滅びるとき、聖人とされる武王や周公が攻めるのを非とした者は誰もいなかった。伯夷と叔斉だけが「いけない」と言った。 この二人がいなければ、主君を殺す臣下が後の世に続々と現れていただろう、と。遺訓がどういう経緯で残ったのかは、西郷隆盛の愛読書の記事に書きました。
結び ― 報われたかどうかは、誰が書き残したかで決まった
伯夷と叔斉の評価が割れるのは、二人の行いが、評価する側の物差しをそのまま映すからです。
仁を物差しにする孔子には「仁を求めて仁を得た」人に見え、報いを物差しにする司馬遷には「天に見放された」人に見えた。徳の高さを測る孟子には「最高の清さ、ただし狭い」と見え、生命を測る荘子には「名のために命を捨てた人」に見え、仕組みを測る韓非子には「賞罰の効かない使えない臣」に見えた。どの評価も、二人の同じ一面を見ています。差し出されたものを受け取らず、拒むべきだと思ったものを最後まで拒んだ、という一面です。
これは、組織の中にいる「筋を通す人」の評価と同じ構造をしています。報酬でも処分でも動かない。上が決めたことでも、おかしいと思えば「おかしい」と言う。こういう人は、仕組みで人を動かしたい側からは扱いにくく、韓非子の言う「無益の臣」に見えます。けれども、孟子が「百世の師」と呼んだように、組織の基準を最後に守っているのは、たいていこういう人です。そして孟子が「隘なり」と言ったように、その人のやり方をそのまま全員の型にすれば、誰とも働けない組織になります。
手本にはするが、型にはしない。孔子と孟子が伯夷に取った距離は、今もそのまま使えます。
そして最後に、司馬遷の答えが残ります。天は善人に報いるとは限らない。けれども、書き残す人がいれば、名は残る。伯夷と叔斉が三千年後の私たちに届いているのは、孔子が語り、司馬遷がそれを列伝の一篇目に置いたからです。報われなかった人を、報われた側に移したのは、天ではなく、書き残した人でした。
この記事の出典について
引用は、師導が収録する各書の底本から、書き下し(和文の書は原文、『韓非子』の二句は原文)の欄をそのまま切り出しました。旧字・新字の混在も底本のままです。各引用の直後のリンクから、その段の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。
孤竹国と首陽山の所在には諸説があります。『論語』述而篇の「衛君」を出公輒と父・蒯聵の争いと結びつける読みは、朱熹の注に代表される通説です。伯夷列伝に李陵の禍を重ねる読みは広く行われている解釈で、司馬遷本人の言明ではありません。徳川光圀が伯夷伝に感銘を受けたことは伝記類の伝えるところで、それが家督の扱いの直接の理由だったかどうかは確定できません。韓愈「伯夷頌」は師導に収録がないため、要旨の紹介にとどめました。
関連する章句と記事
伯夷と叔斉を書いた『史記』そのものの名言は、こちらで読めます。
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