孟子(もうし)の名前は、たいてい二つの言葉と一緒に覚えられています。人の本性は善だとする「性善説」と、教育熱心な母が三度引っ越した「孟母三遷(もうぼさんせん)」です。

ところが本人の書『孟子』を開くと、印象が変わります。書かれているのは教えの一覧というより、王に会いに行き、説き、聞き入れられず、次の国へ移る話の繰り返しです。梁(りょう)の王にも斉(せい)の王にも用いられず、魯(ろ)の君には会うことさえできませんでした。しかも『孟子』はその失敗を隠さず、弟子に「先生、不機嫌な顔ですね」と言われた場面まで残しています。

この記事では、孟子の生涯を『孟子』と司馬遷(しばせん)の『史記』からたどります。孟母三遷の出どころや、性善説がどんな場面で語られたのかも原典で確かめます。まず、司馬遷がこの本をどう読んだかです。

【書き下し】余、孟子の書を読み、梁の恵王の『何を以て吾が国を利せん』と問ふに至り、未だ嘗て書を廃して嘆かずんばあらざるなり。曰く、嗟乎、利は誠に乱の始めなり。

出典:史記 孟子荀卿列伝

梁の恵王(けいおう)が孟子に会うなり「わが国に何の利益をもたらしてくれるのか」と尋ねるくだりに来ると、司馬遷はいつも本を置いてため息をついた、というのです。孟子の一生は、この問いに答え続けた一生でした。

孟子とは ― 先に輪郭を押さえておく

孟子は戦国時代の儒家の思想家で、名は軻(か)。「孟子」は「孟先生」という敬称です。生まれは鄒(すう)という小国で、孔子の故郷・魯のすぐ隣にあたります。生没年は前372年ごろから前289年ごろとする説が広く知られていますが、確かな記録はありません。孔子の死からおよそ百年後の人です。

【書き下し】孟軻は、騶の人なり。業を子思の門人に受く。

出典:史記 孟子荀卿列伝

子思(しし)は孔子の孫です。孟子は孔子に直接学べず、孔子の孫の門下の人から学びました。本人もそれを書いています。

【書き下し】予未だ孔子の徒為るを得ざるなり。予私かに諸を人に淑くするなり。

出典:孟子 離婁章句下

「私は孔子の弟子になれなかった。孔子の教えを伝える人たちから、ひそかに学んで自分を善くしたのだ」。直接教わっていない人を師と仰ぐことを「私淑(ししゅく)」と言いますが、その語源がこの一句です。孟子の一生は、会えなかった師への片思いから始まっています。

一、孟母三遷と断機 ― 本人の書には出てこない話

孟子の少年時代として有名なのが、二つの話です。

  • 孟母三遷:墓地の近くに住むと孟子は葬式の真似をして遊び、市場の近くに移ると商人の真似をした。学校の近くに移ると礼儀作法の真似をするようになり、母はそこに落ち着いた。
  • 孟母断機(だんき):学問を途中でやめて帰ってきた孟子の前で、母が織りかけの布を刀で断ち、「学問をやめるのは、この布を断つのと同じだ」と戒めた。

どちらも『孟子』には出てきません。出どころは、孟子の死から二百年以上あとの前漢の学者・劉向(りゅうきょう)が編んだ『列女伝(れつじょでん)』母儀伝の「鄒孟軻母(すうのもうかのはは)」です。断機の話は同じ前漢の『韓詩外伝(かんしがいでん)』巻九にも別の形で載り、こちらでは暗誦の途中で黙り込んだ孟子を母が咎めます。細部が本ごとに違うのは、語り継がれた伝承だからです。

孟母三遷は孟子の実像の記録というより、「あの孟子を育てた母ならこうだったはずだ」と後の人が語った話として読むのが適切でしょう。本人の書に母が出てくるのは一度だけ、母の葬式の場面です。これは後で取り上げます。

二、後車数十乗 ― 一門を率いて王を訪ねる

孟子の遊説は一人旅ではありませんでした。弟子の彭更(ほうこう)が、師に食ってかかっています。

【書き下し】彭更問いて曰く、「後車數十乘、從者數百人、以て諸侯に傳食す。以だ泰ならずや。」孟子曰く、「其の道に非ざれば、則ち一簞の食も人より受く可からず。如し其の道ならば、則ち舜、堯の天下を受くるも、以て泰なりと為さず,子は以て泰なりと為すか。」

出典:孟子 滕文公章句下

車を数十台連ね、従う者は数百人。その大所帯で諸侯のもとを渡り歩いて食事の世話を受けるのは、贅沢が過ぎませんか。孟子は、道にかなわなければ弁当一つも受け取らないが、道にかなえば舜が堯から天下を譲られても贅沢ではない、と答えました。孟子は仕官先を探す浪人ではなく、一門を率いた学者として、王の側が礼を尽くして迎えることを求めたのです。王に会う心構えも書いています。

【書き下し】大人に説くには、則ち之を藐ぜよ。其の巍巍然たるを視ること勿れ。……彼に在る者は、皆我が為さざる所なり。我に在る者は、皆古の制なり。吾何ぞ彼を畏れんや。

出典:孟子 盡心章句下

身分の高い人に説くときは、相手を軽く見てかかれ。高い御殿も豪華な食事も、私が志を得てもやらないことばかりだ。何を恐れることがあるか。この激しさが孟子の魅力であり、用いられなかった理由の一つでもありました。

三、梁の恵王 ― 「叟」と呼ばれた初対面

最も有名な場面は、梁(魏)の恵王との初対面です。恵王は孟子を「叟(そう)」、つまり「ご老人」と呼んで迎え、「わが国に利益をもたらしてくれるのか」と尋ねました。孟子は「王よ、どうして利益のことばかりおっしゃるのですか。仁義があるだけです」と答えます(梁惠王章句上)。

「ご老人」という呼びかけは見落とされがちですが、孟子が王たちの前に本格的に現れたのは、すでに年を重ねてからでした。梁を訪ねたのは前320年ごろ、恵王の晩年とされます。この初対面の続きと「五十歩百歩」の問答は、別の記事で読んでいます。

五十歩百歩の意味 ― 笑われたのは王だった。『孟子』の原文で読む

恵王は話を聞いても、実行はしませんでした。『孟子』の後半には、孟子の恵王評が遠慮なく書かれています。

【書き下し】不仁なるかな、梁の惠王や。……梁の惠王は土地の故を以て、其の民を糜爛して之を戰わしめ、大いに敗れたり。將に之を復せんとし、勝つこと能わざるを恐る。故に其の愛する所の子弟を驅りて、以て之に殉ぜしむ。

出典:孟子 盡心章句下

土地を欲しがって民を戦場で死なせ、大敗した。その仕返しのために、今度は自分の愛する子弟まで駆り出して死なせた。一方で同じ恵王は、別の学者を大歓迎していました。『史記』は孟子の伝のすぐ後に陰陽家の騶衍(すうえん)を置き、わざわざ比べています。

【書き下し】梁に適くや、恵王郊迎し、賓主の礼を執る。……豈に仲尼の陳蔡に菜色し、孟軻の斉梁に困しむと同じからんや。

出典:史記 孟子荀卿列伝

騶衍が来ると、恵王は都の郊外まで出迎えて対等の礼をとった。孔子が陳・蔡で飢え、孟子が斉・梁で困ったのとは大違いだ。壮大な宇宙論は歓迎され、「まず仁義を」は遠ざけられる。司馬遷はその落差を隠さず並べました。

四、斉の宣王 ― 卿になった孟子

梁を去った孟子は、東の大国・斉へ向かいます。宣王(せんおう)は学者を厚遇した王で、孟子はここで「卿(けい)」、つまり大臣級の地位を得ました。生涯で最も政治の中枢に近づいた時期です。ただ、その仕事ぶりは異色でした。

【書き下し】孟子、齊に卿為り。出でて滕に弔す。……曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言わんや。」

出典:孟子 公孫丑章句下

王の使者として隣国の滕へ弔問に行ったとき、副使につけられた王の寵臣・王驩(おうかん)とは、往復のあいだ一度も仕事の話をしなかった。理由を問われて「あの男がもう全部取り仕切っている。私が何を言うことがあるか」。王のお気に入りの実務家と、王が招いた大学者が、同じ車で口をきかない。孟子が組織のなかで働く人ではなかったことがよく分かります。

宣王との問答は多く、王が顔色を変えた場面まで記録されています。

【書き下し】曰く、「君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聽かざれば、則ち位を易う。」王勃然として色を變ず。曰く、「王異むこと勿れ。王、臣に問う、臣敢て正を以て對えずんばあらず。」

出典:孟子 萬章章句下

王族の大臣は、君主に大きな過ちがあれば諫め、何度諫めても聞かなければ君主を替える。宣王はさっと顔色を変えましたが、孟子は「お尋ねになったので、正直にお答えしたまでです」と引きません。王の前で「王を替える」と言える学者を、王が喜んで重用するはずもありませんでした。

孟子自身も、言葉が届かない理由を分かっていました。

【書き下し】天下生じ易きの物有りと雖も、一日之を暴(あたためる)め、十日之を寒(ひやす)さば、未だ能く生ずる者有らざるなり。吾が見ゆるも亦た罕なり。吾退きて之を寒す者至る。吾萌すこと有るを如何せんや。

出典:孟子 告子章句上

どんなに育ちやすい植物でも、一日温めて十日冷やせば芽は出ない。私が王に会えるのはまれで、退出すると王の心を冷やす者たちがやって来る。「一暴十寒(いちばくじっかん)」の出どころですが、ここにあるのは、会議で一度説得しても翌日には別の人に覆されるという、組織で働く人なら誰でも知っている悔しさです。

五、燕を攻めるか ― 助言を切り取られる

前314年、斉の北隣の燕(えん)で内乱が起き、斉は攻め込んでわずか五十日で都を落としました。燕を自分のものにしてよいか、と宣王は孟子に尋ねます。

【書き下し】之を取りて燕の民悅ばば、則ち之を取れ。古の人、之を行う者有り、武王是れなり。之を取りて燕の民悅ばずんば、則ち取ること勿かれ。

出典:孟子 梁惠王章句下

燕の民が喜ぶなら取れ、喜ばないなら取るな。基準は奪われる側の民にある。孟子はさらに、連れ去った老人や子どもと宝物を返し、燕の人々と相談して君主を立ててから兵を引けと進言しました(梁惠王章句下)。宣王は従わず、略奪にあった燕の人々は背きます。すると世間に「孟子が燕を攻めさせた」という噂が立ちました。

【書き下し】齊人、燕を伐つ。或ひと問いて曰く、「齊に勸めて燕を伐たしむと、諸れ有りや。」曰く、「未だし。……今、燕を以て燕を伐つ。何為れぞ之を勸めんや。」

出典:孟子 公孫丑章句下

斉の大臣に「燕は討ってよいか」と聞かれたので「よい」と答えた。だが「誰なら討ってよいか」と聞かれていれば、「天の命を受けた者なら」と答えただろう。燕と変わらない政治をしている斉が燕を討つことを、私が勧めるものか。助言の一部を切り取られて戦争の責任を着せられかけたのです。

燕が背いたとき、宣王は「孟子に合わせる顔がない」と言いました。すると臣下の陳賈(ちんか)が「聖人の周公でさえ過ちはあった」と王を慰め、孟子のもとへ言い訳に来ます。

【書き下し】燕人畔く。王曰く、「吾甚だ孟子に慚づ。」……古の君子は、過てば則ち之を改む。今の君子は、過てば則ち之に順う。……今の君子は、豈に徒に之に順うのみならんや。又從って之が辭を為す。」

出典:孟子 公孫丑章句下

昔の君子は過ちを改めた。今の君子は過ちを押し通し、そのうえ言い訳まで作る。孟子が見ていたのは過ちそのものより、過ちのあとに言い訳を用意する側近でした。

六、母の死と、会えなかった魯の君

斉にいるあいだに、孟子は母を亡くしました。

【書き下し】孟子、齊自り魯に葬むる。齊に反り、嬴に止まる。充虞、請いて曰く、「前日は虞の不肖なるを知らず、虞をして匠を敦(おさめる)めしむ。事は嚴なり。虞、敢て請わず。今願わくは竊かに請うこと有らん。木以(はなはだ)だ美なるが若く然り。」……吾之を聞く、『君子は天下を以て其の親に儉せず。』」

出典:孟子 公孫丑章句下

母を魯に葬って斉へ戻る途中、棺づくりを任された弟子の充虞(じゅうぐ)が尋ねます。先生、棺の木が少し立派すぎたのでは。孟子は、君子は天下のためだからといって親の葬儀を倹約しない、と答えました。孟母三遷の母がどんな人だったにせよ、孟子がこの母を手厚く弔ったことは、本人の書で確かめられます。

ところが、この葬儀がのちに孟子の足を引っ張ります。魯の平公(へいこう)が孟子に会いに出かけようとしたとき、寵臣の臧倉(ぞうそう)が止めたのです。

【書き下し】而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」……曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」

出典:孟子 梁惠王章句下

孟子は母の葬儀を、先に亡くなった父の葬儀より立派にした。礼をわきまえない者に会いに行くことはありません。平公はこの一言で出かけるのをやめました。弟子の楽正子(がくせいし)が「貧富の違いにすぎない」と弁じても覆りません。報告を受けた孟子は、「私が魯の君に会えなかったのは天命だ。臧倉ごときに私を会わせないことなどできるものか」と言います。人を恨む代わりに「天」という大きな言葉で自分を納得させる。孟子はこの型を、この後もう一度使います。

七、斉を去る ― 三晩泊まった理由

燕の一件のあと、孟子は卿を辞して斉を去ります。宣王は訪ねてきて引き止め、都に屋敷と弟子を養う俸禄を与えると申し出ましたが、孟子は受けませんでした(公孫丑章句下)。ところが、いざ出るとなると足取りは重く、国境近くの昼(ちゅう)という町に三晩も泊まります。斉の尹士(いんし)という人物がこれを皮肉りました。

【書き下し】千里にして王に見え、遇わざるが故に去る。三宿にして而る後に晝を出づ。是れ何ぞ濡滯なるや。……予、三宿して晝を出づるも、予が心に於いては猶ほ以て速かなりと為す。……予然る後浩然として歸志有り。

出典:孟子 公孫丑章句下

千里を来て王に会い、合わずに去る。そのくせ三晩も泊まって何をぐずぐずしているのか。孟子の答えは率直です。三晩でも早すぎたくらいだ。王が考えを改めれば、きっと呼び戻すと思っていた。追っ手が来なかったので、ようやく帰る気持ちが定まったのだ。用いられなかった王にまだ期待している。その未練を、『孟子』はそのまま残しました。

帰り道、弟子の充虞がまた尋ねます。

【書き下し】夫子、不豫の色有るが若く然り。前日、虞、諸を夫子に聞けり。曰く、『君子は天を怨まず、人を尤めず。』」曰く、「彼も一時なり。此も一時なり。五百年にして必ず王者の興る有り。其の間、必ず世に名ある者有り。周由り而來(このかた)、七百有餘歲なり。其の數を以てすれば、則ち過ぎたり。其の時を以て之を考うれば、則ち可なり。夫れ天、未だ天下を平治するを欲せざるなり。如し天下を平治せんと欲せば、今の世に當りて、我を舍きて其れ誰ぞや。吾何為れぞ不豫ならん。」

出典:孟子 公孫丑章句下

先生、不機嫌なお顔ですね。君子は天を怨まず人を咎めない、とおっしゃっていたのに。孟子は答えます。五百年ごとに王者が興るはずが、周が興って七百年余り。天はまだ天下を治める気がないのだ。その気になれば、今の世で私をおいて誰がいるか。魯の君のときと同じ型です。自信過剰とも、自分を支える言葉とも読めます。いずれにせよ、不機嫌を見とがめられた場面まで弟子が書き残しているのが、この本の正直さです。

孟子の話を最も真剣に聞いたのは、大国の王ではなく小国・滕(とう)の文公でした。太子のころから孟子に学び、即位後は土地の制度の細部まで臣下に聞きに来させています。その文公の問いは切実でした。

【書き下し】滕は、小國なり。力を竭くして以て大國に事うるも、則ち免るるを得ず。之を如何せば則ち可ならん。」

出典:孟子 梁惠王章句下

小国の君は本気で聞いても、できることが限られる。大国の王は力を持ちながら本気で聞かない。孟子の遊説は、この二つのあいだで行き場を失っていきました。

八、性善説は、論争のなかで生まれた

孟子の名を不朽にした「性善説」は、書斎で組み立てられた理論ではありません。『孟子』告子(こくし)篇は、論敵との激しい応酬です。

【書き下し】告子曰く、「性は猶ほ湍水のごときなり。諸を東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。人性の善不善を分かつこと無きは、猶ほ水の東西を分かつこと無きがごときなり。」孟子曰く、「水は信に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。人性の善なるや、猶ほ水の下に就くがごときなり。……是れ豈に水の性ならんや。其の勢い則ち然るなり。

出典:孟子 告子章句上

告子は言います。人の本性は渦巻く水のようなもので、東に切り開けば東に、西に切り開けば西に流れる。善も不善もない。孟子は切り返します。水に東西の区別はなくても、上下の区別はある。人の本性が善なのは、水が低いほうへ流れるのと同じだ。水を打てば額より高く跳ねるが、それは水の本性ではなく勢いのせいだ。

孟子はほかにも、井戸に落ちかけた幼児を見れば誰でもはっとする、禿げ山になった牛山(ぎゅうざん)ももとは木が茂っていた、という例で、人の心には善の「芽」があると説きました。大事なのは、芽は育てなければ枯れると言っていることです。性善説は「放っておけばよい」という楽観ではなく、芽を伸ばす努力を求める説でした。芽を急いで引っ張って枯らす「助長」の話も、同じ考えから出ています。

部下が育たないと感じたら ― 原因を七つに切り分ける、東洋古典の処方箋

論争相手は告子だけではありませんでした。

【書き下し】予豈に辯を好まんや。予已むを得ざればなり。……楊氏は我が為にす。是れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す。是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獸なり。

出典:孟子 滕文公章句下

議論好きだと言われて「やむを得ないのだ」と答え、自分のことだけを大事にせよと説く楊朱(ようしゅ)を「君を無視する」、すべての人を分け隔てなく愛せと説く墨子(ぼくし)を「父を無視する」と断じ、禽獣と同じだとまで言う。言葉の激しさは、孟子が感じていた孤立の深さでもあります。のちに同じ儒家の荀子(じゅんし)が、この性善説を名指しで批判します。その話は荀子の記事で扱います。

九、王道と、民を貴しとする政治

孟子が王たちに説き続けたのは「王道(おうどう)」の政治です。

【書き下し】力を以て仁を假る者は霸たり。霸は必ず大國を有つ。德を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず。

出典:孟子 公孫丑章句上

力で支配しながら仁のふりをする者は覇者で、覇者には大国が要る。徳で仁を行う者は王者で、国の大きさを問わない。これを、大国の力を頼む王たちに向かって言ったのです。そして最も大胆なのが、次の一句でした。

【書き下し】民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を輕しと為す。

出典:孟子 盡心章句下

最も貴いのは民、次が国家の祭祀、君主はいちばん軽い。孟子はさらに、仁義を損なった暴君はもう君主ではなく一人の男にすぎず、殷の紂王が討たれたのは君主殺しではない、とも論じました。天命は民の支持を通してあらわれ、民を失った君主からは去る。のちに「易姓革命(えきせいかくめい)」と呼ばれる考えです。

十、退いて七篇を著す

遊説を終えた孟子について、『史記』はこう書きます。

【書き下し】天下方に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。而して孟軻乃ち唐・虞・三代の徳を述ぶ、是を以て如く所の者合はず。退きて万章の徒と詩書を序し、仲尼の意を述べ、孟子七篇を作る。

出典:史記 孟子荀卿列伝

攻め伐つことが有能とされる時代に、いにしえの聖王の徳を説いたので、どこへ行っても合わなかった。そこで退き、弟子の万章(ばんしょう)らと『孟子』七篇を作った。用いられなかった政治家は、教える人になりました。孟子は人生の楽しみを三つ挙げています。

【書き下し】天下の英才を得て、之を教育するは、三の樂しみなり。君子に三樂有り。而して天下に王たるは、與り存せず。

出典:孟子 盡心章句上

父母がそろって健在で兄弟に事故がないこと、天にも人にも恥じないこと、天下の英才を教育すること。天下の王になることは入っていない。王に用いられなかった人がこう書いたと知って読むと、重さが違って見えます。弟子の受け入れ方も孟子らしいものでした。滕の宿で作りかけの草履がなくなり、従者が疑われたときの言葉です。

【書き下し】夫れ予の科を設くるや、往く者は追わず、來たる者は距まず。

出典:孟子 盡心章句下

「去る者は追わず、来る者は拒まず」の出どころは、この草履の一件でした。学ぼうという心で来たなら受け入れる、だから中には不心得者もいるだろう、というのです。

『孟子』七篇の最後の章は、孟子が自分の位置を確かめる言葉で終わります。

【書き下し】孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」

出典:孟子 盡心章句下

堯・舜から湯王まで五百年、湯王から文王まで五百年、文王から孔子まで五百年。孔子から今までは百年余りしかたっておらず、聖人の住んだ土地にもこれほど近い。それでも道を継ぐ者がいないなら、この先も永久にいないだろう。私淑から始まった一生は、この言葉で閉じられています。

十一、死後の浮き沈み ― 疑われ、格上げされ、削られた本

孟子の評価は、死後も大きく揺れました。前漢の御前会議の記録『塩鉄論(えんてつろん)』では、政府側の高官がこう切り捨てています。

【書き下し】孟軻は舊術を守り、世務を知らず、故に梁・宋に困しむ。

出典:塩鉄論 論儒篇

古い学術にしがみついて現実の政務を知らなかったから行き詰まったのだ、商鞅(しょうおう)は王道が通らないと見るや富国強兵に切り替えて成功したではないか、というのです。

流れが変わるのは宋の時代です。1084年に孟子は孔子廟で孔子とともに祀られるようになり、南宋の朱熹(しゅき)は『孟子』を『論語』『大学』『中庸』と並ぶ「四書」に据えました。元の1330年には「亜聖(あせい)」、孔子に次ぐ聖人の称号が贈られます。

ところが明を建てた洪武帝(朱元璋)は、1372年に孟子を孔子廟の祀りから外しました(翌年に戻しています)。1394年には学者の劉三吾(りゅうさんご)らに命じて八十五条を削った『孟子節文(もうしせつぶん)』を作らせ、削った部分を科挙に出さないと定めました。「君を軽しと為す」のような言葉は、皇帝には都合が悪かったのです。

日本にも奇妙な話が伝わっています。明の謝肇淛(しゃちょうせい)の随筆『五雑組(ござっそ)』巻四には、倭人は中国の経書を高値で買い求めるが『孟子』だけはない、この書を積んだ船はたちまち転覆するという、とあります。上田秋成は『雨月物語』の「白峯(しらみね)」で、西行の口を借りて同じことを語らせ、王位を奪うことを認める教えを日本の神々が嫌うからだと説明しました。実際には『孟子』は古くから日本に伝わり、江戸の武士にも広く読まれています。易姓革命がどう受け止められたかを示す俗説であって、事実ではありません。

明治になると、新渡戸稲造は『武士道』で孟子の「惻隠の心」を引き、こう書きました。

【原文】孟子は、彼のアダミスに先んじて、夙に倫理哲學の基礎を同情に置くの說を唱破したるものに非らずや。

出典:武士道 第五章

孟子はアダム・スミスより先に、倫理の基礎を人への同情に置いていたのではないか、と。孟子の評価は、読む人の時代が変わるたびに書き換えられてきました。

結び ― 用いられなかった人の本が、いちばん長く読まれた

並べ直すと、こうなります。孔子に会えず、孔子の孫の門人に学ぶ。年を重ねてから一門を率いて王たちを訪ね、「利」を問われて「仁義」と答える。斉で卿になるが、王の寵臣とは口をきかず、王の前で「王を替える」と言い、燕の一件では助言を切り取られる。母を手厚く葬り、それを理由に魯の君に会えなくなる。斉を去るときは三晩ためらい、弟子に不機嫌を見とがめられる。最後は弟子と七篇を書き、「私が継がなければ誰も継がない」と記す。

司馬遷は、孟子の困窮を「四角いほぞを丸い穴に入れようとするようなもの」と評しました。時代の形と孟子の形が合わなかった。けれども、合わせなかったからこそ残ったとも言えます。王に合わせて説を曲げていたら、『孟子』は当時の政策文書の一つとして消えていたかもしれません。

正しいと思うことを言い続けて評価されない人は、どの組織にもいます。孟子の生涯が示すのは、その人が最後に向かえる場所の一つです。用いられなかった言葉を、次の世代に渡せる形にして残すこと

『孟子』の章句は、師導に原文・書き下し・現代語訳と解説つきで収めています。

孟子の章句一覧
史記の章句一覧

孟子の少しあとに生まれ、性善説を名指しで批判した儒家の生涯もたどっています。

荀子の生涯 ― 性悪説の本当の意味と、秦を作った弟子・韓非と李斯

孟子が私淑した孔子の弟子たちと、孟子が「聖の清なる者」と呼んだ兄弟の記事もあります。

孔子の弟子たち ― 顔回・子路・子貢の生涯と孔門十哲。同じ問いに三つの答え
伯夷と叔斉 ― 首陽山で餓死した兄弟を、孔子は褒め、韓非子は「無益」と呼んだ

この記事の出典について

『孟子』『史記』『塩鉄論』の引用は師導が収録する章句の書き下しの欄から、『武士道』の引用は原文の欄から、文字を改めずに切り出しています。ルビの表記も底本のままです。途中を略した箇所は「……」で示しました。

孟母三遷・孟母断機は劉向『列女伝』母儀伝「鄒孟軻母」、断機の別伝は『韓詩外伝』巻九に拠ります。いずれも孟子の死後に成立した書です。『孟子』の日本伝来をめぐる話は謝肇淛『五雑組』巻四と上田秋成『雨月物語』「白峯」に拠りました。孔子廟への配祀(1084年)、「亜聖」の称号(1330年)、洪武帝による配祀の停止(1372年)と『孟子節文』(1394年)の年は、通行の研究に拠っています。孟子の生没年、梁を訪ねた年には諸説があり、本文では「ごろ」「とされます」と記しました。なお『史記』の伝は孟子が斉の次に梁へ行ったと書きますが、『孟子』の記述の順は梁が先で、本文は『孟子』の順に従いました。