「性悪説(せいあくせつ)」という言葉は、たいてい「人間は生まれつき悪い」という意味で使われます。部下を信用しない上司を「性悪説の人」と呼んだりもします。

その言葉を残したのが、中国の戦国時代の儒者・荀子(じゅんし)です。ところが、荀子の本を開くと、話はだいぶ違います。荀子は「人は放っておけば欲に流れる」と書きましたが、同じ篇のなかで「道を行く誰でも、聖人の禹(う)になれる」とも書いているのです。人を見限る思想ではありません。

荀子の生涯には、もう一つ目を引くところがあります。孔子の教えを受け継ぐ儒者でありながら、弟子から韓非(かんぴ)李斯(りし)が出ました。韓非は法家の理論を大成し、李斯は秦の丞相として始皇帝の天下統一を支えた人です。儒者の教室から、秦を形づくる二人が出たことになります。

この記事では、荀子の生涯を『史記』の伝記と『荀子』の本文からたどり、性悪説の本当の意味、秦を見て何を言ったのか、孟子をなぜ名指しで批判したのかまで見ていきます。

引用は、師導が収録する『荀子』『史記』ほかの底本から、読みの欄をそのまま切り出しています。

荀子とは ― 先に輪郭を押さえておく

荀子は、戦国時代の末期、紀元前三世紀に活躍した儒家の思想家です。名は況(きょう)。尊んで「荀卿(じゅんけい)」と呼ばれ、漢代の本では「孫卿(そんけい)」とも書かれます。「孫」と書く理由については、前漢の宣帝の名(詢)と同じ音を避けたとする説がよく知られています。

生まれは趙(ちょう)の国。生没年ははっきりしません。紀元前三一〇年前後に生まれ、前二三八年より後に亡くなったとする見方が多く、正確な年は分かっていません。

いま読める『荀子』は、前漢の劉向(りゅうきょう)が、宮中に集まっていた三百二十二篇の写本から重複を除き、三十二篇に定めたものが元になっています。唐の楊倞(ようりょう)が元和十三年(八一八)に注釈をつけて篇の順を整え、書名を『孫卿新書』から『荀子』に改めました。荀子本人の筆でない篇も含まれると考えられていて、この記事の後半で触れる最終篇の結びは、はっきり弟子の側の文章です。

荀子が活躍したころ、西の秦はすでに抜きんでた強国でした。荀子は秦・斉・趙・楚の四つの国をすべて歩いています。

一、五十歳か、十五歳か ― 斉の稷下で、三度の祭酒

『史記』は、荀子の伝記を孟子と同じ「孟子荀卿列伝」に収めています。荀子の部分は短い一段だけです。

【書き下し】荀卿は、趙人なり。年五十にして始めて来たりて斉に游学す。田駢の属皆已に斉の襄王の時に死し、而して荀卿最も老師為り。斉尚ほ列大夫の欠を修め、而して荀卿三たび祭酒と為る。

出典:史記 孟子荀卿列伝

斉の都・臨淄(りんし)の稷門(しょくもん)のあたりには、諸国から学者が集められ、「稷下(しょっか)の学士」と呼ばれていました。国が学者に屋敷と俸禄を与え、議論させた、いまで言えば国立の研究所のような場所です。荀子が来たころには古参の学者たちはすでに亡く、荀子がいちばんの長老になっていた。その学者たちの長である「祭酒(さいしゅ)」を、荀子は三度務めました。

ここで一つ、はっきりしない点があります。『史記』は「年五十」、つまり五十歳で初めて斉に来たと書きます。ところが後漢の応劭(おうしょう)の『風俗通義(ふうぞくつうぎ)』は、同じ場面を「年十五にして始めて来たりて遊学す」と書いています。「五十」と「十五」は字の並びが入れ替わっただけなので、どちらかが写し間違えたのだろうと考えられていますが、どちらが正しいのかは決まっていません。

六世紀の顔之推(がんしすい)は、『史記』の五十歳を採って、遅咲きの手本に数えました。

【書き下し】曾子は七十にして乃ち学び、名は天下に聞こゆ。荀卿は五十にして、始めて来たりて游学し、猶お碩儒と為る。

出典:顔氏家訓 勉学

どちらにしても確かなのは、斉の学問の中心で三度も長を任されるほどの学者だった、ということです。

斉を去った事情についても、記録は二つあります。『史記』は「斉人或いは荀卿を讒し」、つまり告げ口をする者がいて楚へ移ったと書きます。前漢の『塩鉄論(えんてつろん)』には、斉の湣王(びんおう)が戦勝に驕って学者たちの諫めを聞かず、学者たちが散っていった場面が出てきます。

【書き下し】湣王に及び、二世の余烈を奮い、南のかた楚・淮を舉げ、北のかた巨宋を幷せ、十二國を苞み、西のかた三晉を摧き、強秦を卻く、五國賓從し、鄒・魯の君、泗上の諸侯は皆入りて臣たり。功を矜りて休まず、百姓堪えず。諸儒諫むるも從わず、各々分散す、慎到・捷子は亡げ去り、田駢は薛に如き、而して孫卿は楚に適く。

出典:塩鉄論 論儒篇

湣王の時代と、『史記』のいう襄王(じょうおう)の時代は前後しています。荀子は斉に二度いたのかもしれませんし、記録のほうが混ざっているのかもしれません。いずれにしても、荀子の生涯は「用いられかけては去る」の繰り返しになります。

二、「青は藍より出でて」 ― 学ぶことを、最初の篇に置いた

『荀子』三十二篇の最初の篇は「勧学(かんがく)篇」、学問のすすめです。冒頭の一文が、日本語の「出藍の誉れ」のもとになりました。

【書き下し】君子曰く、学は以て已むべからず。青は之を藍より取りて、藍より青く、氷は水之を為して、水より寒し。

出典:荀子 勧学篇

青い染料は藍という草から採るのに、藍より青い。氷は水からできるのに、水より冷たい。弟子が師を超えるたとえとして知られていますが、原文のほうは師弟の話ではなく、学ぶことで、人は元の自分と違うものになれるという話です。

すぐ後にこう続きます。

【書き下し】木の直きこと縄に中るも、輮めて以て輪と為せば、其の曲なること規に中り、槁暴有りと雖も、復た挺びざるは、輮之をして然らしむるなり。

まっすぐな木でも、曲げて車輪にすれば、日に干して乾いてももう元には戻らない。曲げる力を加えたからだ、という一節です。人も同じで、外から形を与えれば、それがその人の形になる。この発想は、のちの性悪説とそのままつながっています。荀子の思想は、この最初の篇ですでに向きが決まっていました。

三、「秦に入りて何をか見たる」 ― 強国を見た儒者の報告

荀子は秦にも行っています。劉向が『荀子』の編集後記として書いた文章(書録)には、秦の昭王(しょうおう)に会ったが、王は戦を好み、荀子が古の聖王の道を説いても用いなかった、とあります。そのときのやりとりが『荀子』に残っています。昭王は、いきなりこう切り出しました。

【書き下し】秦の昭王、孫卿子に問いて曰く、儒は人の国に益無し、と。

出典:荀子 儒効篇

儒者など国の役に立たない。面と向かってそう言われた荀子は、儒者は用いられれば政治を良くし、用いられなくても民の暮らしを正す、と答え、上に立ったときの儒者についてこう言い切ります。

【書き下し】一の不義を行い、一の無罪を殺して、天下を得るも、為さざるなり。

出典:荀子 儒効篇

不義を一つ行い、罪のない者を一人殺せば天下が手に入るとしても、やらない。戦で国を広げてきた王の前で言う言葉としては、ずいぶん挑戦的です。昭王は「善し」とだけ答えました。そして、荀子を用いませんでした。

秦の宰相・応侯(おうこう)、つまり范雎(はんしょ)との問答も残っています。こちらは、秦を実際に歩いた感想を問われた場面です。

【書き下し】応侯、孫卿子に問いて曰く、秦に入りて何をか見たる、と。孫卿子曰く、其の固塞は険しく、形埶は便に、山林川谷は美しく、天材の利は多し。是れ形勝なり。境に入りて、其の風俗を観るに、其の百姓は樸に、其の声楽は流汙ならず、其の服は挑ならず、甚だ有司を畏れて順う。古の民なり。

出典:荀子 彊国篇

地形は守りやすく、資源は豊か。民は素朴で役人を恐れて従い、音楽も服装も派手でない。荀子はまず、秦をほめます。役人は実直で、士大夫は私用で動かず、派閥も作らない。朝廷は静かで、仕事が滞らない。

【書き下し】其の朝廷を観るに、其の朝は閒かにして、百事を聴決して留めず、恬然として治むる者無きが如し。古の朝なり。故に四世勝つこと有るは、幸に非ざるなり、数なり。

秦が四代にわたって勝ち続けてきたのは、運ではなく必然だ、と荀子は認めています。儒者が敵国をこれほど具体的にほめた記録は、ほかにあまり見当たりません。そのうえで、最後にこう付け加えます。

【書き下し】然りと雖も、則ち其の諰有り。是の数具を兼ねて尽く之を有つ。然り而して之を縣くるに王者の功名を以てすれば、則ち倜倜然として其の及ばざること遠し。是れ何ぞや。則ち其れ殆ど儒無きか。故に曰く、粹にして王たり、駮にして霸たり、一も無ければ亡ぶ、と。此れ亦た秦の短とする所なり。

これだけ整っていても、秦にはどこか怯えがある。王者の功業と比べると、はるかに及ばない。なぜか。「其れ殆ど儒無きか」、儒者がいないからだろう、と。

ここで荀子の言う「儒」は、学者の人数のことではありません。力で従わせる仕組みしかなく、人が自分から従う理由を持っていない、ということです。仕組みは完璧に近いのに、その仕組みを支える納得がない。荀子が秦に見たのは、そういう組織でした。この見立ては、半世紀後の秦の滅び方を知っている私たちから見ると、ぞっとするほど当たっています。

四、趙の王の前で ― 兵法家と「兵」を論じる

生まれ故郷の趙でも、荀子は王の前に立っています。趙の孝成王(こうせいおう)の御前で、臨武君(りんぶくん)という将軍と兵法を論じた記録です。

【書き下し】臨武君、孫卿子と兵を趙の孝成王の前に議す。王曰く、請う、兵の要を問わん、と。臨武君対えて曰く、上は天の時を得、下は地の利を得、敵の変動を観て、之に後れて発し、之に先んじて至る、此れ用兵の要術なり、と。

出典:荀子 議兵篇

天の時と地の利を得て、敵の動きを見てから動き、敵より先に着く。臨武君の答えは、兵法書の教科書どおりです。荀子は「然らず」と退けます。

【書き下し】孫卿子曰く、然らず。臣の聞く所の古の道は、凡そ用兵攻戦の本は、民を壹にするに在り。弓矢調わざれば、則ち羿も以て微に中つること能わず。六馬和せざれば、則ち造父も以て遠きを致すこと能わず。士民親附せざれば、則ち湯武も以て必ず勝つこと能わざるなり。故に善く民を附くる者は、是れ乃ち善く兵を用うる者なり。故に兵の要は民を善く附くるに在るのみ。

出典:荀子 議兵篇

弓と矢が合っていなければ名射手の羿(げい)でも当てられず、六頭の馬の息が合わなければ名御者でも遠くへ行けない。兵も同じで、民がついてこなければ、聖王の湯王・武王でも勝てない。戦の要は、民を心から味方につけることに尽きる。臨武君が「孫子や呉子は詐術で無敵だった」と反論しても、荀子は譲りません。

この議論の場には弟子もいました。弟子の陳囂(ちんごう)は、師の説に素朴な疑問をぶつけています。

【書き下し】陳囂、孫卿子に問いて曰く、先生の兵を議するや、常に仁義を以て本と為す。仁者は人を愛し、義者は理に循う。然らば則ち又何を以て兵と為さんや。凡そ兵有るを為す所以は、争奪の為なり、と。

出典:荀子 議兵篇

先生は仁義を本にせよと言うが、仁者は人を愛するものだ。それならなぜ兵が要るのか。荀子の答えは「兵は暴を禁じ害を除くためのもので、奪い合いのためではない」というものでした。

同じ篇で、もう一人の弟子・李斯も質問しています。「秦は四代勝ち続けているが、仁義でやっているわけではない。都合よくやっているだけだ」。荀子はそれを「汝の知る所に非ざるなり」と退けました。このやりとりは、韓非の記事で引いた議兵篇の一段にあります。のちに秦の丞相になる弟子は、このときすでに秦の側から師に反論していたのです。

五、蘭陵の令 ― 疑われ、去り、呼び戻される

斉を去った荀子を迎えたのは、楚の宰相・春申君(しゅんしんくん)でした。戦国四君の一人に数えられる実力者です。春申君は荀子を、蘭陵(らんりょう、いまの山東省南部)の長官に任じます。

劉向の書録には、ここから先の経緯がやや詳しく書かれています。ある人が春申君にこう吹き込みました。「殷の湯王はわずか七十里、周の文王は百里の土地から天下を取った。荀子は賢者だ。その人に百里の地を与えれば、楚が危うくなる」。春申君は荀子を辞めさせ、荀子は趙へ去ります。

すると別の客が言いました。「伊尹(いいん)が夏を去って殷に入ると、殷は王となり夏は滅んだ。管仲が魯を去って斉に入ると、魯は弱り斉は強くなった。賢者の去った国は安泰ではいられない」。春申君は使者を送って荀子を招きます。荀子は楚の政治を批判する手紙と詩を返し、春申君はそれを悔やんで改めて丁重に招き、荀子は蘭陵の長官に戻りました。

有能すぎるから危ない、と遠ざけられ、いなくなると危ない、と呼び戻される。荀子の生涯は、この往復の連続です。

紀元前二三八年、春申君は楚の王位をめぐる陰謀で、李園(りえん)の刺客に殺されました。『史記』はその後の荀子をこう書きます。

【書き下し】斉人或いは荀卿を讒し、荀卿乃ち楚に適き、春申君以て蘭陵の令と為す。春申君死して荀卿廃せられ、因りて蘭陵に家す。

後ろ盾を失って職を解かれた荀子は、故郷の趙には帰らず、蘭陵にとどまりました。劉向は「蘭陵には学問をよくする者が多いが、それは荀子がいたからだろう」と書いています。

『荀子』の成相(せいしょう)篇は、民謡の節に乗せて政治を歌った篇です。賢者が退けられた例を並べる一節に、春申君の名が出てきます。

【書き下し】世の愚は、大儒を惡むにあり、逆斥(ぎゃくせき)せられ通ぜずして孔子は拘(とら)えらる。展禽(てんきん)は三たび絀(しりぞ)けられ、春申(しゅんしん)は道に綴(た)たれ、基は畢(ことごと)く輸(うしな)わる。

出典:荀子 成相篇

孔子は捕らえられ、柳下恵(展禽)は三度退けられ、春申君は道半ばで倒れ、築いたものはすべて失われた。この一句を春申君の死を歌ったものと読むなら、荀子は自分の後ろ盾の最期を、賢者が報われない例の一つとして歌ったことになります。

六、性悪篇 ― 名指しされた孟子

荀子の名を後世に残したのは、何といっても「性悪(せいあく)篇」です。冒頭はこう始まります。

【書き下し】人の性は悪にして、其の善なる者は偽(ぎ)なり。今(いま)人の性、生まれながらにして利を好むこと有り、是(これ)に順(したが)う、故に争奪生じて辞讓(じじょう)亡(ほろ)ぶ。

出典:荀子 性悪篇

人は生まれつき利益を好み、それに従えば奪い合いが起きて、譲り合いが消える。ここでいう「悪」は、生まれつきの罪のことではありません。欲に任せておくと、争いに行き着くという、放置した場合の結果の話です。

そして「其の善なる者は偽(ぎ)なり」と続きます。この「偽」は「いつわり」ではありません。唐の楊倞は「偽は為なり」、つまり人の為すこと、と注しました。人の善い振る舞いは、生まれつきではなく、学びと努力で作ったものだという意味です。

この篇で目を引くのは、荀子が論敵を名指ししていることです。

【書き下し】孟子曰く、「人の学ぶ者は、其の性善なればなり」と。曰く、是れ然らず。是れ人の性を知るに及ばずして、人の性偽(せいぎ)の分を察せざる者なり。凡そ性なる者は、天の就(な)せるなり。学ぶべからず、事とすべからず。礼義なる者は、聖人の生ずる所なり。人の学びて能くし、事として成す所の者なり。学ぶべからず、事とすべからずして人に在る者、之を性と謂う。学びて能くすべく、事として成すべくして人に在る者、之を偽と謂う。是れ性と偽との分なり。

出典:荀子 性悪篇

孟子は「人が学ぶのは、本性が善いからだ」と言った。荀子は、それは「性」と「偽」の区別がついていないのだ、と返します。目で見る力、耳で聞く力は学ばなくても備わっている。それが性。礼義は聖人が作ったもので、学んで初めて身につく。それが偽。学ばなければ身につかないものを、生まれつきと呼ぶのはおかしい、という理屈です。

荀子の批判のもう一つの軸は、「証拠がない」でした。

【書き下し】今孟子曰く、「人の性は善なり」と。辨合符験無く、坐して之を言い、起ちて設くべからず、張りて施行すべからず。豈(あ)に過つこと甚だしからずや。

出典:荀子 性悪篇

古を語るなら今に照らし、天を語るなら人に照らして確かめられなければならない。孟子の説は、座って言うことはできても、立って実行に移せない。言説は検証できて、制度として施行できなければならないという要求は、荀子の思想全体に通っています。

孟子への批判は性悪篇だけではありません。同時代の十二人の思想家を批判した「非十二子(ひじゅうにし)篇」でも、孔子の孫の子思(しし)と孟子を並べて責めています。

【書き下し】子思(しし)之を唱え、孟軻(もうか)之に和す。世俗の溝猶瞀儒(こうゆうぼうじゅ)、嚾嚾然(かんかんぜん)として其の非とする所を知らず、遂に受けて之を傳え、以為(おも)えらく仲尼(ちゅうじ)・子弓(しきゅう)茲(こ)れが為に後世に厚しと。是れ則ち子思・孟軻の罪なり。

出典:荀子 非十二子篇

同じ孔子の教えを継ぐ儒者どうしです。それでも、いや、だからこそ、荀子は孟子の路線を許せなかった。孟子の側から見た生涯は、別の記事でたどっています。

七、「塗の人も以て禹と為るべし」 ― 性悪説は、人を見限る説ではない

性悪説を「人は悪いから信用するな」と読むと、同じ篇の後半と合わなくなります。

【書き下し】「塗(みち)の人も以て禹(う)と為るべし」とは、曷(なに)の謂(い)いぞや。曰く、凡そ禹の禹たる所以(ゆえん)の者は、其の仁義法正(じんぎほうせい)を為すを以てなり。

出典:荀子 性悪篇

道を行く誰であっても、治水の聖王・禹になれる。禹が禹であるのは、仁義と法を実行したからで、それを知る素質と、行う力は、誰にでも備わっているからだ。荀子はさらにこう続けます。

【書き下し】今塗の人をして術に伏して学を為し、心を専らにし志を一にし、思索孰察(じゅくさつ)し、日を加え久しきを縣(か)け、善を積みて息(や)まざらしめば、則ち神明に通じ、天地に参(さん)ぜん。故に聖人なる者は、人の積みて致(いた)す所なり。

学に身を入れ、心を一つにし、日を重ねて善を積み続ければ、神明に通じ、天地に並ぶ。聖人とは、人が積み上げて到る場所だ。生まれつき善い人がいるのではなく、積んだ人がいるだけだ、という考え方です。

では、なぜ皆がそうならないのか。篇はこの問いを自分で立て、醒めた答えを返します。

【書き下し】故に小人は以て君子と為るべくして、君子と為るを肯(がえん)ぜず。君子は以て小人と為るべくして、小人と為るを肯ぜず。

出典:荀子 性悪篇

小人は君子になれるのに、なろうとしない。できることと、やることは別だ。足があれば天下のどこへでも歩いて行けるが、実際に天下を歩き尽くした人はいない。できるのにやらない人がいるからといって、できる可能性が否定されるわけではない。

経営の言葉に置き換えるなら、荀子は「人を信じるな」とは言っていません。「放っておいても育つとは思うな。育つ道筋と、続けさせる仕組みを外に作れ」と言っているのです。勧学篇の、木を曲げて車輪にする話と同じ発想です。

八、「天行に常有り」 ― 天は、堯のためにも桀のためにもない

荀子のもう一つの代表作が「天論(てんろん)篇」です。

【書き下し】天行に常有り、堯の為に存せず、桀の為に亡びず。之に應ずるに治を以てすれば則ち吉、之に應ずるに亂を以てすれば則ち凶なり。

出典:荀子 天論篇

天の運行には一定の法則があって、名君の堯(ぎょう)のために続くのでも、暴君の桀(けつ)のために途絶えるのでもない。それに治めて応じれば吉、乱れて応じれば凶。当時は日食や彗星を天の警告と考え、雨乞いで雨が降ると信じる人が多い時代でした。荀子はそれを、天の働きと人の働きを分けて考えよ、と退けます。

【書き下し】時を受くること治世と同じくして、殃禍(おうか)の治世と異なるは、以て天を怨むべからず、其の道然らしむるなり。

同じ天候のもとで、ある国は治まり、ある国は災いにあう。それを天のせいにしてはいけない。やり方がそうさせたのだ。結果を天候や運のせいにせず、自分の側の打ち手を問えという話で、ここにも「人が作るもの」への信頼が通っています。

『史記』の伝記も、荀子が晩年に何を憎んだかをこう書いています。

【書き下し】荀卿濁世の政を嫉み、亡国乱君相ひ属き、大道を遂げずして巫祝に営み、禨祥を信じ、鄙儒小拘なるを、是に於いて儒墨道徳の行事の興壊を推し、序列して数万言を著して卒し、因りて蘭陵に葬らる。

滅びる国と乱れる君主が続き、大道を行わずに巫女や祈祷に頼り、吉凶の兆しを信じ、つまらない儒者は細かいことにこだわる。それを憎んで、儒家・墨家・道家の行いと興亡を論じ、数万言を書いて亡くなり、蘭陵に葬られた。『荀子』という本は、この晩年の蘭陵で形になったものと考えられています。

九、弟子が作った秦 ― 韓非と李斯

荀子の生涯を語るうえで避けられないのが、二人の弟子です。『史記』は、韓非と李斯がともに荀子に学んだと書いています(老子韓非列伝)。李斯は、便所の鼠と穀物倉の鼠を見比べて「人の賢さは、身を置く場所次第だ」と悟り、荀子のもとで「帝王の術」を学んだ、と伝えられます(李斯列伝)。

秦に入った李斯は出世を重ね、天下統一ののち丞相になりました。韓非は秦に使者として来て、李斯らの讒言で獄死します。その経緯は韓非の記事でたどりました。

前漢の『塩鉄論』では、朝廷の役人と民間の学者が、この師弟について言い争っています。役人の側は、同じ荀子の門下でも、出世した李斯と貧しいまま死んだ弟子を比べて、学者を笑います。

【書き下し】昔李斯と包丘子と俱に荀卿に事う、既にして李斯は秦に入り、遂に三公を取り、萬乘の權に據りて以て海內を制す、切に伊・望に侔しく、名は泰山より巨なり、而して包丘子は甕牖蒿廬を免れず、潦歲の蛙の如し、口は眾からざるに非ざるなり、卒に溝壑に死するのみ。

出典:塩鉄論 毀学篇

包丘子(ほうきゅうし)は、漢初に『詩経』を伝えた浮丘伯(ふきゅうはく)と同じ人物とみる説があります。これに対して学者の側は、荀子本人の反応を持ち出します。

【書き下し】李斯の秦に相たるに方たり、始皇之に任じ、人臣に貳無し、然り而して荀卿は之が為に食らわずと謂う、其の不測の禍に罹るを睹ればなり。

出典:塩鉄論 毀学篇

李斯が秦の宰相になったとき、荀子は食事がのどを通らなかった。弟子がいずれ思いもよらない禍にあうのが見えていたからだ、と。李斯は始皇帝の死後、趙高との権力争いに敗れて処刑されます。

ただし、この話には注意が要ります。李斯が丞相になったのは天下統一より後とされ、そのとき荀子が生きていたかどうかは確かめられません。『塩鉄論』は論争の書で、学者の側が自分たちの主張のために持ち出した逸話です。事実として受け取るより、漢の人々が「荀子は李斯を喜ばなかったはずだ」と考えていたことの記録として読むのが安全です。

後世には、逆に荀子を責める声も出ました。北宋の蘇軾(そしょく)は「荀卿論」で、李斯が天下を乱したのは師の学問のせいだとし、「其の父人を殺して仇を報ずれば、其の子必ず且に劫を行わんとす」と書いています。師の過激な言説が弟子の過激な行動を生んだ、という見方です。

十、弟子が書いた弁明 ― 「孫卿は孔子に及ばず」に答える

『荀子』の最後の篇「堯問(ぎょうもん)篇」は、荀子本人ではなく、弟子の側の文章で終わっています。世間の評価に反論する形です。

【書き下し】説を為す者曰く、孫卿は孔子に及ばず、と。是れ然らず。孫卿は乱世に迫られ、厳刑に遒(せま)られ、上に賢主無く、下に暴秦に遇う。礼義行われず、教化成らず、仁者は絀約(ちゅつやく)せられ、天下は冥冥たり。

出典:荀子 堯問篇

荀子は孔子に及ばない、と言う者がいる。そうではない。荀子は乱世に追い詰められ、上には賢い君主がなく、下には暴虐な秦があった。礼義は行われず、仁者は押し込められ、天下は真っ暗だった。弟子は続けます。

【書き下し】然れば則ち孫卿は将聖の心を懐きて、佯狂(ようきょう)の色を蒙(こうむ)り、天下に視(しめ)すに愚を以てす。

聖人になりうる心を抱きながら、狂ったふりをして、世には愚か者のように見せていた。だから名声が広まらず、弟子も多くなかった。そして、こう結びます。

【書き下し】天下治まらざるは、孫卿の時に遇わざればなり。

天下が治まらなかったのは、荀子が時に恵まれなかったからだ。劉向もまた書録で、荀子の説く王道は実に行いやすいのに、世はついに用いることができなかった、と嘆いています。本人の側から見れば、荀子の生涯は「用いられなかった人」の生涯でした。皮肉なのは、用いられた弟子の李斯のほうが、師の嫌った道で天下を取ったことです。

十一、評価の浮沈 ― 「大醇にして小疵」

荀子ほど、後世の評価が上下した儒者はいません。

唐の韓愈(かんゆ)は「読荀」という文章で、孟子を「醇乎として醇なる者」、つまり混じりけのない純粋な儒者とし、荀子を「大醇にして小疵(しょうし)」、おおむね純粋だが小さな傷がある、と評しました。

宋代に朱子学が成立すると、孟子の性善説が正統とされ、荀子は性悪説ゆえに退けられていきます。先の蘇軾のように、李斯の責任まで負わされることにもなりました。清代になると、考証学の学者たちが荀子を読み直し、汪中(おうちゅう)や王先謙(おうせんけん)が再評価を進めます。

日本では、江戸時代の荻生徂徠(おぎゅう そらい)が『読荀子』を著し、荀子を子思・孟子の誤りを正した「忠臣」とみなしました。徂徠が重んじたのは、内面の修養よりも、礼楽や制度によって国を治める「先王の道」でした。荀子の思想は、制度を重んじる読み手に繰り返し見いだされてきたのです。

結び ― 人は放っておけば、育たない

斉では讒言で去り、秦では仕組みをほめたうえで欠けたものを指摘して用いられず、楚では疑われては呼び戻された。後ろ盾を失ってからは蘭陵で弟子を育て、本を書いた。そして弟子のうち二人が、師の望まなかった形の国を作った。

荀子の言葉で言えば、人の善さは「偽」、つまり人が為したものです。放っておいても育つものではない。けれども、学びを積めば、道を行く誰でも禹になれる。荀子は人を見限っていたのではなく、人が育つには、外から支える形が要ると考えていました。

秦に「儒が無い」と言ったのも、同じ考えからです。形だけ整っていて、人が自分から従う理由がない組織は、強くても怯えている。仕組みを作る人ほど、荀子のこの一言は耳が痛いはずです。

関連する章句と記事

この記事で引いた『荀子』『史記』などの句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。

荀子の章句一覧
史記の章句一覧
塩鉄論の章句一覧

『史記』が同じ伝に収めた、孟子の生涯です。

孟子の生涯 ― 王に会い続け、一度も用いられなかった人。孟母三遷の出どころと性善説

荀子の弟子の記事です。

韓非の生涯 ― 『説難』を書いた男は、なぜ説得に失敗して死んだのか

この記事の出典について

荀子の経歴は、『史記』孟子荀卿列伝と、劉向が『荀子』に付した書録を主な典拠としました。劉向の書録は師導に章句として収めていないため、要旨を記しています。斉に来た年齢は『史記』が五十歳、『風俗通義』窮通篇が十五歳とし、定まっていません。生没年は研究上の推定です。

楊倞の注、韓愈「読荀」、蘇軾「荀卿論」は原文を確かめたうえで要旨や短い引用で示しました。成相篇の一句を春申君の死と結びつける読みは、解釈の一つです。『塩鉄論』の「荀卿之が為に食らわず」は論争の中で語られた逸話で、年代の点で疑問が残ることを本文に記しました。