「部下が育たない」。
管理職の口から、いちばんよく出る言葉かもしれません。ただ、この言葉には問題があります。主語が部下になっていることです。
言い換えてみると、はっきりします。「部下が育たない」を「私は部下を育てられていない」と言い直したとき、急に具体的な問いが立ち上がります。私の何が足りていないのか。
そして、そう問い直すと、次の壁にぶつかります。「育てる」は、一つの行為ではありません。
選ぶこと。教えること。やらせること。任せること。待つこと。答えを与えないでいること。見ていること。どれか一つが欠けても、人は育ちません。 そして厄介なことに、欠けている場所は人によって違います。
熱心に教えているのに育たない人がいます。任せているのに育たない人もいます。どちらも努力はしている。ただ、欠けている場所が違うだけです。
この記事では、「部下が育たない」という状態を七つの原因に切り分け、それぞれについて東洋古典が何を書いているかを読んでいきます。原文(白文)・書き下し文・現代語訳と解説つきです。
読み方の提案が一つあります。七つを全部やろうとしないでください。 読みながら「これは自分のことだ」と思ったところが、たぶん一つか二つあります。そこだけで十分です。
まず、切り分ける ― 七つの原因
先に、七つを並べておきます。
一、選ぶ段階で外している。 育つ見込みのない人を、育てようとしている。
二、教えたつもりで、教えていない。 伝えた回数と、伝わった量を混同している。
三、教えたが、やらせていない。 分かった状態で止まっている。
四、やらせたが、任せていない。 手を出す、口を出す、巻き取る。
五、急かして、枯らしている。 早く育てようとして、逆のことをしている。
六、答えを与えすぎている。 効率よく教えた結果、自分で考える機会を奪っている。
七、そもそも、見ていない。 育っているかどうかを、実は測っていない。
この七つは、順番に並んでいます。 上から順に確認していくのが実務的です。二番の問題を抱えたまま四番の対処をしても、効きません。
では、一つずつ見ていきます。
一、選ぶ段階で外している
【白文】貞觀六年,太宗謂魏徵曰:「古人云,王者須為官擇人,不可造次即用。……徵對曰:「知人之事,自古為難,故考績黜陟,察其善惡。今欲求人,必須審訪其行。若知其善,然後用之。設令此人不能濟事,只是才力不及,不為大害。誤用惡人,假令強幹,為害極多。
【書き下し】貞観六年、太宗魏徴に謂いて曰く、「古人云う、王者は須らく官の為に人を択ぶべし。造次に即ち用うべからず、と。……徴対えて曰く、「人を知るの事は、古より難しと為す。故に績を考え黜陟し、其の善悪を察す。今、人を求めんと欲せば、必ず須らく審らかに其の行いを訪ぬべし。若し其の善を知らば、然る後に之を用う。設令(たと)い此の人、事を済(な)す能わずとも、只だ是れ才力の及ばざるのみ。大害と為らず。誤りて悪人を用いば、仮令(たと)い強幹なりとも、害を為すこと極めて多し。
まず、いちばん手前の話をします。育成の前に、選択があります。
『貞観政要』のこの一段で、太宗はこう言います。「王者は、官(ポスト)のために人を択ぶべきである。慌ただしく、すぐに用いてはならない」。
そして魏徴の答えが、実務的に非常に鋭い。
「人を知ることは、古来難しい」。 そのうえで、彼は誤用の二種類を区別します。
能力が足りない人を用いた場合 ——その人が仕事を成せなくても、それは才力が及ばないだけで、大きな害にはならない。
行いの悪い人を用いた場合 ——たとえ有能であっても、害はきわめて多い。
さらに続けます。乱世であれば才能だけを求め、行いは問わないこともある。だが太平の時であれば、才と行いの両方を兼ね備えていなければ任用してはならない、と。
これは、育成の議論に一つの前提を突きつけています。育てられるものと、育てられないものがある。
能力は、時間をかければ伸びます。手順を教え、経験を積ませ、フィードバックを返せば、たいていは伸びる。ところが、行いの部分——誠実さ、約束を守るか、都合の悪いことを報告するか——は、育成では動きにくい。
そして魏徴が言うとおり、そこが欠けている人が有能だと、害はむしろ大きくなります。 能力があるぶん、影響範囲が広いからです。
「部下が育たない」と悩む前に、確認すべきことがあります。その人は、育つ位置にいるのか。 能力の問題なら、育成の話です。行いの問題なら、育成では解けません。それは配置か、採用の話です。
もっとも、これを言い訳に使うのは危険です。「あいつは行いが悪いから」で片づけると、育成の努力そのものが止まります。 魏徴が言っているのは、選ぶ段階で慎重であれということであって、選んだ後で見捨てろということではありません。
出典:貞観政要 択官
二、教えたつもりで、教えていない
【白文】子曰:不憤不啓,不悱不發。舉一隅不以三隅反,則不復也。
【書き下し】子曰わく、憤せざれば啓せず、悱せざれば発せず。一隅を挙げて三隅を以て反さざれば、則ち復せず。
「啓発」という言葉の出典です。
「憤」とは、分かりたいのに分からず、心がふさがって発奮している状態。「悱(ひ)」とは、言いたいことがあるのに言葉にならず、口ごもっている状態。
孔子は言います。その状態になるまでは、教えない。
そして続けます。一隅を挙げて三隅を以て反さざれば、則ち復せず。 四角い物の一つの角を示して、残りの三つの角を自分で返してこないようなら、繰り返さない。
厳しく聞こえます。ですが、これは冷たさの表明ではなく、教える順序の指定です。
多くの人が「教える」と言うとき、やっているのは説明です。手順を説明し、背景を説明し、注意点を説明する。丁寧であればあるほど良い、と思っている。
孔子は、その順序を逆にしています。先に、詰まらせる。 本人が「どうすればいいのか分からない」と思っている状態を作ってから、そこに一つだけ角を示す。
なぜか。説明は、受け取る準備のない人には入らないからです。
自分の経験を思い出せば分かります。何かを本当に覚えたのは、たいてい困ってから調べたときです。困る前に読んだマニュアルは、覚えていません。
実務では、これはこう使えます。教える前に、一度やらせる。 うまくいかない。そこで初めて教える。手順を先に全部説明してからやらせる、の逆です。
「同じことを何度も言っているのに覚えない」という悩みは、たいていここにあります。回数を増やしても入りません。詰まっていないからです。
ただし、注意点があります。安全と法令と、取り返しのつかないことは、この方法の対象外です。 詰まらせてから教えていては手遅れになるものは、先に全部教える。孔子の言っているのは、そうでない領域の話です。
出典:論語 述而篇
三、教えたが、やらせていない
【白文】不聞不若聞之,聞之不若見之,見之不若知之,知之不若行之。學至於行之而止矣。……故聞之而不見,雖博必謬;見之而不知,雖識必妄;知之而不行,雖敦必困。
【書き下し】聞かざるは之を聞くに若かず、之を聞くは之を見るに若かず、之を見るは之を知るに若かず、之を知るは之を行うに若かず。学は之を行うに至りて止む。……故に之を聞きて見ざれば、博しと雖も必ず謬る。之を見て知らざれば、識ると雖も必ず妄なり。之を知りて行わざれば、敦しと雖も必ず困しむ。
『荀子』儒効篇の、学びの五段階です。
聞かないより、聞くほうがよい。
聞くより、見るほうがよい。
見るより、知るほうがよい。
知るより、行うほうがよい。
学は、これを行うに至って止む。
そして後半が、この段の本体です。各段階で止まった場合に、何が起きるかが書かれています。
聞いたが、見ていない ——知識が広くても、必ず誤る。
見たが、分かっていない ——知っていても、必ずでたらめになる。
分かったが、やっていない ——理解が深くても、必ず行き詰まる。
三つとも、「不足する」ではなく「害が出る」と書いてあるところが重要です。中途半端な段階で止まると、無知よりむしろ危ない。
育成の現場で、いちばん多いのがここだと思います。研修は充実している。マニュアルもある。本人も理解している。それでもできない。
理由は単純で、「知る」と「行う」のあいだに段差があるからです。そして荀子は、その段差を跨がないかぎり学びは終わらない、と言い切っています。
実務での処方も、はっきりしています。やらせる。
ただし、ここで多くの管理職が止まります。理由も分かっています。やらせれば、失敗するからです。 顧客に迷惑がかかるかもしれない。自分がやったほうが速い。手戻りが出る。
だから、「まだ早い」が積み上がっていきます。 そして三年経っても、その人は「知っているができない」ままでいる。
やらせるとは、失敗を引き受けることです。 引き受けられる範囲を先に決めておくのが、上司の仕事になります。どこまでなら失敗させられるか。その線を引かずに「やらせろ」と言っても、現実には誰もやらせません。
出典:荀子 儒効篇
四、やらせたが、任せていない
【白文】故知勝有五:知可以戰與不可以戰者勝,識衆寡之用者勝,上下同欲者勝,以虞待不虞者勝,將能而君不御者勝。此五者,知勝之道也。
【書き下し】故に勝を知るに五あり。以て戦うべきと戦うべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下欲を同じくする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。将能にして君御せざる者は勝つ。此の五者は勝を知るの道なり。
『孫子』謀攻篇が挙げる、勝利を予見できる五つの条件です。最後の一つに注目してください。
「将能にして君御せざる者は勝つ」。
将軍が有能で、しかも君主が口出ししない場合に、勝つ。
二千五百年前の兵法書が、勝敗を分ける条件の一つとして「上が現場に介入しないこと」を挙げている。しかも、有能な将がいるだけでは足りない、と言っている。有能な将がいて、なおかつ上が黙っている。 この二つが揃って初めて条件になる。
孫子は同じ篇の別の箇所で、君主が軍を害する三つのパターンも書いています。進むべきでないときに進めと命じる。軍の事情を知らずに軍政に干渉する。指揮系統を知らずに人事に口を出す。どれも、いま起きていることとして読めます。
「やらせている」と「任せている」は、まったく違います。
やらせている——作業をさせている。判断は自分がしている。
任せている——判断ごと渡している。
そして多くの職場で起きているのは、前者です。作業は渡した。でも報告のたびに指示が出る。 途中で方針が変わる。最後は上司が巻き取る。
これで人が育たないのは、当然です。判断していない人は、判断が上手くなりません。
厄介なのは、介入する側に悪意がないことです。心配だから。品質が気になるから。自分がやったほうが速いから。どれも本当のことです。
ですが、孫子はそこに一切の同情を示しません。「君御せざる者は勝つ」。 御さないほうが勝つ、と言っている。理由は書かれていませんが、想像はつきます。現場の情報を持っているのは現場だからです。
現実的な処方はこうです。任せる範囲を、金額と期間と影響範囲で先に決めておく。 その中では一切口を出さない。外に出るときだけ相談させる。線が引かれていないと、上司は毎回全部が心配になります。
出典:孫子 謀攻篇
五、急かして、枯らしている
【白文】必有事焉。而勿正。心勿忘。勿助長也。無若宋人然。宋人有閔其苗之不長而揠之者。芒芒然歸、謂其人曰、今日病矣,予助苗長矣。其子趨而往視之、苗則槁矣。……助之長者、揠苗者也。非徒無益、而又害之。
【書き下し】必ず事とする有れ。正(あらかじめ)めすること勿れ。心に忘るること勿れ。助けて長ぜしむること勿れ。宋人の若く然すること無かれ。宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて、之を揠く者有り、芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、『今日病れたり。予、苗を助けて長ぜしむ。』其の子趨りて往きて之を視れば、苗は則ち槁れたり。……之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而して又之を害す。
「助長」という言葉の出典です。いまでは「勢いを助ける」という意味で使われますが、もとはまったく逆の意味でした。
宋の国に、苗がなかなか伸びないのを心配した男がいました。畑へ行き、苗を一本ずつ引っ張って伸ばしました。
くたくたになって帰り、家人に言います。「今日は疲れた。苗の成長を助けてやった」。
息子が走って見に行くと、苗はすっかり枯れていました。
孟子は、この寓話の前後に条件を四つ置いています。
必ず事とする有れ ——何もしないのではない。取り組み続けよ。
正(あらかじめ)めすること勿れ ——成果を予期して、時期を決めつけるな。
心に忘るること勿れ ——かといって、放っておくな。
助けて長ぜしむること勿れ ——引っ張るな。
そして、こう締めます。天下に、苗を助けて長ぜしめない者は少ない。
さらに鋭いのは、逆側にも同じ厳しさを向けていることです。「無益だと思って放り出す者は、苗の草取りをしない者である」。放置も助長も、どちらも間違いだと言っている。
育成でこれが起きるのは、たいてい期限が決まっているときです。半年で一人前にしたい。来期には数字を持たせたい。だから詰める。毎週進捗を確認する。できていないところを毎回指摘する。
善意です。そして疲れます。 男は「今日は疲れた」と言っています。引っ張るほうも、本気で疲れている。
苗が伸びるのは、苗の仕事です。 人ができるのは、草を取り、水をやり、日を当てること。そこまでです。
現実的な問いはこれだと思います。この一週間で自分がやったことは、水やりだったか、引っ張りだったか。 引っ張りは、たいてい「確認」と「指摘」の形をしています。
出典:孟子 公孫丑章句上
六、答えを与えすぎている
【白文】孟子曰、君子深造之以道、欲其自得之也。自得之、則居之安。居之安、則資之深。資之深、則取之左右逢其原。故君子欲其自得之也。
【書き下し】孟子曰く、「君子の深く之に造(いたる)るに道を以てするは、其の之を自得せんことを欲すればなり。之を自得すれば、則ち之に居ること安し、之に居ること安ければ、則ち之に資ること深し。之を資ること深ければ、則ち之を左右に取りて其の原に逢う。故に君子は其の之を自得せんことを欲するなり。」
孟子の、学びについての一段です。鍵は「自得」という言葉にあります。
自分で得ること。教わるのではなく、自分でつかむこと。
そして孟子は、自得したときに何が起きるかを四段階で書いています。
自得すれば、之に居ること安し。 自分でつかんだものは、身に落ち着く。
居ること安ければ、之に資ること深し。 落ち着いていれば、深く頼りにできる。
資ること深ければ、之を左右に取りて其の原に逢う。 深く頼りにできれば、左右どこから手を伸ばしても、その源に行き当たる。
最後の一句が見事です。自得したものは、応用が利く。 想定していなかった場面でも、そこから引き出せる。
逆に言えば、教わったものは、教わった形でしか使えません。
これは、育成でいちばん誤解されている部分かもしれません。丁寧に教えることは、良いことだとされています。 手順書を整え、事例を示し、判断基準まで言語化する。
たしかに、立ち上がりは速くなります。ただし、そこで止まります。 想定外の場面に出会ったとき、その人は判断できません。判断基準を自分で作ったことがないからです。
孔子が「憤せざれば啓せず」と言ったのと、同じ場所を指しています。詰まらせてから教えるのが順序であり、答えではなく問いを渡すのが方法です。
実務では、こう置き換えられます。「どうすればいいですか」に、答えないでみる。
代わりに聞く。「あなたはどうすべきだと思う?」「二つ案を出すとしたら?」「それをやると、何が起きる?」
時間はかかります。 答えを言えば三十秒で終わる話が、五分になる。だから忙しいときほど、答えを言ってしまいます。
そして三年後、その人はまだ「どうすればいいですか」と聞いています。五分を惜しんだ結果です。
出典:孟子 離婁章句下
七、そもそも、見ていない
【白文】子曰、視其所以、観其所由、察其所安。人焉廋哉、人焉廋哉。
【書き下し】子曰く、「其の以てする所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや。」
最後は、観察の話です。
孔子は、人を見る方法を三段階で示しました。そして三つに、それぞれ違う動詞が当てられています。視・観・察。
其の以てする所を視る。 その人が「何をしているか」を見る。行為そのもの。
其の由る所を観る。 その人が「なぜそうしたか」を見る。動機、経緯。
其の安んずる所を察する。 その人が「何に落ち着くか」を見る。満足の在り処。
三つ目がいちばん深い。その人は、何をしているときが心地よいのか。 何をやり終えたときに、満ち足りた顔をするのか。
そして孔子は、二度繰り返します。「人焉んぞ廋さんや、人焉んぞ廋さんや」——これで、人は何を隠せようか。
さて、育成の話に戻ります。「部下が育たない」と言うとき、私たちは何を見ているでしょうか。
たいていは、一段目です。成果、数字、行動量。 それは「何をしているか」の情報です。
二段目——なぜそうしたか——は、聞かないと分かりません。同じ結果でも、慎重に判断した結果なのか、手を抜いた結果なのかで、次に打つ手はまったく違います。
三段目——何に安んじるか——は、時間をかけないと見えません。その人が本当に向いているのはどこなのか。 これが分からないまま育成すると、向いていない方向へ努力を積ませることになります。
育っていないのではなく、育っている方向が見えていないだけという場合が、実は少なくありません。数字は伸びていないが、後輩の面倒見が抜群にいい。プレゼンは下手だが、資料の詰めが誰より正確。一段目だけを見ていると、これらは「育っていない」と分類されます。
七つの原因を挙げてきましたが、この七つ目が欠けていると、他の六つの診断そのものができません。 見ていないのだから、どこが問題かも分からない。
出典:論語 為政篇
七つのうち、どれを選ぶか
ここまで、七つを見てきました。改めて並べます。
一、選ぶ段階で外している ——能力の問題か、行いの問題かを分ける。
二、教えたつもりで、教えていない ——詰まる前に説明していないか。
三、教えたが、やらせていない ——「知る」で止まっていないか。
四、やらせたが、任せていない ——判断ごと渡しているか。
五、急かして、枯らしている ——今週やったのは水やりか、引っ張りか。
六、答えを与えすぎている ——「どうすればいいですか」に答えていないか。
七、そもそも、見ていない ——視・観・察の、どこまで見ているか。
繰り返しますが、全部やろうとしないでください。
この七つは、同時には直せません。そして、同時に直そうとすると、五番(急かす)を自分でやることになります。
読みながら、一つか二つ、心当たりのあるものがあったはずです。それが、いま効く場所です。
そしてもう一つ。七つとも、部下ではなく自分の行動について書かれています。 これは意図的です。部下を変える方法は、そもそも存在しません。変えられるのは自分の振る舞いだけで、その結果として相手が変わることがある、というだけです。
最後に ― 朽ちた縄で、六頭立てを御す
【白文】昔子貢問理人於孔子,孔子曰:「懍乎,若朽索之馭六馬。」子貢曰:「何其畏哉?」子曰:「不以道導之,則吾仇也,若何其無畏?」故《書》曰:「民惟邦本,本固邦寧。」為人上者,奈何不敬?
【書き下し】昔、子貢、人を理むるを孔子に問う。孔子曰く、「懍(りん)たり、朽索の六馬を馭するが若し」と。子貢曰く、「何ぞ其れ畏るるや」と。子曰く、「道を以て之を導かずんば、則ち吾が仇なり。若何ぞ其れ畏るる無からんや」と。故に『書』に曰く、「民は惟れ邦の本。本固くして邦は寧し」と。人の上と為る者、奈何ぞ敬せざらんや。
最後に、少し重い一段を置きます。『貞観政要』慎終篇で、魏徴が太宗を諫めた文章のなかに引かれた、孔子と子貢の問答です。
子貢が孔子に、人を治めるとはどういうことかを尋ねました。
孔子の答えは、たった一言です。「懍たり、朽索の六馬を馭するが若し」——ぞっとするようなものだ。朽ちた縄で、六頭立ての馬車を御するようなものだ。
子貢が驚いて聞き返します。「なぜ、そんなに恐ろしいのですか」。
孔子はこう答えます。「道をもって導かなければ、彼らは自分の仇になる。どうして恐ろしくないことがあろうか」。
想像してみてください。六頭の馬が全力で走っている。手綱は、朽ちかけた縄です。 いつ切れるか分からない。切れれば、六頭の馬はどこへ行くか分からず、御者は投げ出される。
人の上に立つとは、そういうことだと孔子は言っています。
これは、脅しではないと思います。緊張感の指定です。人を使うということは、本来それくらい危ういことなのだ、と。
そして魏徴は、この引用のあとに『書経』の一句を重ねます。「民は惟れ邦の本。本固くして邦は寧し」——民こそが国の根本であり、根本が固ければ国は安らかである。
六頭の馬は、危険であると同時に、その馬車を進める力そのものです。
「部下が育たない」という悩みは、裏返せば、その人たちの力に自分が乗っているということでもあります。育たないと困るのは、それだけ依存しているからです。
そして手綱は、いつも少し朽ちています。 完璧に統率できている状態など、たぶん存在しません。
孔子が示したのは、その前提を引き受ける態度でした。「奈何ぞ敬せざらんや」——どうして、慎まずにいられようか。
出典:貞観政要 慎終
まとめ
「部下が育たない」を七つに切り分けてきました。最後に、この記事で言いたかったことを一つにまとめます。
「育たない」は、症状名です。病名ではありません。
熱が出た、と言っているのと同じです。熱があることは分かるが、原因は分からない。そして原因が違えば、処方も違います。風邪に胃薬を出しても効かないように、教え方の問題に「任せ方」の処方を当てても効きません。
だから、まず切り分ける。
そして、切り分けるためには見ていなければならない——というのが、七番目の話でした。孔子の視・観・察。何をしているか、なぜそうしたか、何に安んじるか。
古典が育成について語るとき、技法の話は驚くほど少ないことに気づきます。褒め方、叱り方、面談の仕方といった話は、ほとんど出てきません。
代わりに書かれているのは、上に立つ側の態度です。詰まるまで教えるな。やらせろ。口を出すな。引っ張るな。答えを言うな。見ろ。慎め。
どれも、自分を抑える方向の指示です。
たぶん、それが答えなのだと思います。人を育てる技術の大半は、やりたくなることをやらないでいる技術です。教えたい、直したい、間に合わせたい、安心したい。その衝動を、どこまで抑えられるか。
宋の男は、苗を引っ張りました。熱心だったからです。
この記事で引いた古典は、いずれも師導に全文を収録しています。それぞれの書を通して読むと、育成以外の場面でも使える句がたくさん見つかります。
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