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史記 / 孟子荀卿列伝

其次騶衍、後孟子。騶衍睹有國者益淫侈、不能尚德、乃深觀陰陽消息而作怪迂之變、終始大聖之篇十餘萬言。其語閎大不經、必先驗小物、推而大之、至於無垠。是以騶子重於齊。適梁、惠王郊迎、執賓主之禮。適趙、平原君側行撇席。如燕、昭王擁彗先驅、請列弟子之座而受業。其游諸侯見尊禮如此、豈與仲尼菜色陳蔡、孟軻困於齊梁同乎哉。持方枘欲內圜鑿、其能入乎。

新字:其次騶衍、後孟子。騶衍睹有国者益淫侈、不能尚徳、乃深観陰陽消息而作怪迂之変、終始大聖之篇十余万言。其語閎大不経、必先験小物、推而大之、至於無垠。是以騶子重於斉。適梁、恵王郊迎、執賓主之礼。適趙、平原君側行撇席。如燕、昭王擁彗先駆、請列弟子之座而受業。其游諸侯見尊礼如此、豈与仲尼菜色陳蔡、孟軻困於斉梁同乎哉。持方枘欲內圜鑿、其能入乎。

書き下し

其の次は騶衍、孟子に後る。騶衍、国を有つ者の益々淫侈にして徳を尚ぶ能はざるを睹て、乃ち深く陰陽消息を観て怪迂の変を作り、終始・大聖の篇十余万言あり。其の語は閎大不経にして、必ず先づ小物に験し、推して之を大にし、無垠に至る。是を以て騶子斉に重んぜらる。梁に適くや、恵王郊迎し、賓主の礼を執る。趙に適くや、平原君側行して席を撇ふ。燕に如くや、昭王彗を擁して先駆し、弟子の座に列するを請ひて業を受く。其の諸侯に游びて尊礼せらるること此くの如し、豈に仲尼の陳蔡に菜色し、孟軻の斉梁に困しむと同じからんや。方枘を持して圜鑿に内れんと欲す、其れ能く入らんや。

現代語訳

「実質より、耳あたりの良さ・壮大さが厚遇される」という世の皮肉を、鋭く突いた一段です。騶衍は、陰陽五行に基づく壮大で神秘的な宇宙論・歴史論(十万余語)を唱えました。司馬遷はそれを『閎大不経(大げさで道理に外れている)』と評します。ところが、この現実離れした壮大な説を唱えた騶衍は、行く先々の王から破格の厚遇を受けました。梁の恵王は郊外まで出迎え、趙の平原君はへりくだって席を払い、燕の昭王に至っては自ら箒を持って道を清め、弟子の列に加わって教えを乞うたのです。この待遇は、聖人・孔子が陳・蔡で飢えて顔色を失い、理想を説いた孟子が各国で困窮したのとは、あまりに対照的でした。ここに、司馬遷の痛烈な皮肉があります。真に正しく本質的な教え(孔子・孟子の徳治)を説く者は不遇をかこち、大げさで神秘的だが実質の乏しい説(騶衍の陰陽論)を唱える者が厚遇される。なぜか。孔子・孟子の教えは、王に厳しい自己変革を求める「耳の痛い正論」でした。一方、騶衍の壮大な説は、王を圧倒し、聞いて気持ちよく、直接の痛みを伴わない。司馬遷は『方枘を圜鑿に入れんとするようなもの(四角い枘を丸い穴に入れようとするようなもの)』と、正論が現実に合わない歯がゆさを表現します。組織や社会の教訓として、私たちは、地味だが本質的な提言より、派手で耳あたりの良い話に惹かれがちだと自覚すべきです。人を圧倒する壮大な構想や、心地よい追従が厚遇され、厳しくも本質を突く正論が軽んじられる——この傾向は現代の組織にもあります。何が「本当に価値ある教え・提言」かを、派手さや心地よさで判断せず、実質で見極める目を持つこと。そして、正論が受け入れられにくいという現実を踏まえて、どう伝えるかを工夫すること。この二つが問われます。

解説

あなたは、地味だが本質的な提言より、派手で耳あたりの良い話・壮大な構想に惹かれていませんか?人を圧倒する話や心地よい追従を厚遇し、厳しくも本質を突く正論を軽んじていませんか?何が本当に価値ある提言かを、実質で見極められていますか?

この一句を、あなたの毎日に。

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