史記 / 孟子荀卿列伝
孟軻、騶人也。受業子思之門人。道既通、游事齊宣王、宣王不能用。適梁、梁惠王不果所言、則見以為迂遠而闊於事情。當是之時、秦用商君富國彊兵、楚魏用吳起戰勝弱敵、齊威王宣王用孫子田忌之徒、而諸侯東面朝齊。天下方務於合從連衡、以攻伐為賢、而孟軻乃述唐虞三代之德、是以所如者不合。退而與萬章之徒序詩書、述仲尼之意、作孟子七篇。
新字:孟軻、騶人也。受業子思之門人。道既通、游事斉宣王、宣王不能用。適梁、梁恵王不果所言、則見以為迂遠而闊於事情。当是之時、秦用商君富国彊兵、楚魏用吳起戦勝弱敵、斉威王宣王用孫子田忌之徒、而諸侯東面朝斉。天下方務於合従連衡、以攻伐為賢、而孟軻乃述唐虞三代之徳、是以所如者不合。退而与万章之徒序詩書、述仲尼之意、作孟子七篇。
書き下し
孟軻は、騶の人なり。業を子思の門人に受く。道既に通じ、游びて斉の宣王に事ふるも、宣王用ふる能はず。梁に適くも、梁の恵王言ふ所を果たさず、則ち以て迂遠にして事情に闊しと見なさる。是の時に当り、秦は商君を用ひて国を富まし兵を彊くし、楚魏は呉起を用ひて戦勝し敵を弱くし、斉の威王・宣王は孫子・田忌の徒を用ひて、諸侯東面して斉に朝す。天下方に合従連衡に務め、攻伐を以て賢と為す。而して孟軻乃ち唐・虞・三代の徳を述ぶ、是を以て如く所の者合はず。退きて万章の徒と詩書を序し、仲尼の意を述べ、孟子七篇を作る。
現代語訳
「時代に受け入れられなくても、正しいと信じる理想を捨てず、後世に遺す」——理想主義者・孟子の不遇と、その価値を描いた一段です。孟子は各国の王に「徳による政治(王道)」を説いて回りましたが、どの王にも用いられませんでした。梁の恵王からは「現実離れした迂遠な理想論」と見なされる始末。それも当然で、時代は弱肉強食の戦国乱世。秦は商鞅の富国強兵、楚魏は呉起の軍事、斉は孫子の兵法と、各国が「攻め勝つこと」を競い、合従連衡の権謀術数が幅を利かせていました。そんな中で、孟子だけが遥か昔の聖王(尭・舜・夏殷周)の徳治を説いたのです。時流に真っ向から逆らう理想論が、成果を急ぐ王たちに響かないのは当然でした。しかし孟子は、時流に迎合して自説を曲げることをしませんでした。用いられないと見るや、政治の世界から退き、弟子たちと『孟子』七篇を著して、自分の思想を後世に遺したのです。結果として、当時は不遇だった孟子の思想は、二千年以上にわたり東アジアの精神的支柱となりました。ここに、二つの教訓があります。第一に、正しいと信じる価値が、必ずしもその時代に受け入れられるとは限らない。時流が「効率」「勝利」「短期成果」に傾いているとき、長期的・本質的な価値(徳・信頼・持続可能性)を説く声は、「迂遠」と軽んじられがちです。第二に、しかし、時代に迎合して信念を曲げるのではなく、受け入れられないなら形を変えて(著述という形で)遺すという道がある。目先で報われなくとも、本物の価値は時を超えて評価される。時流に流されず、自分の信じる本質的な価値を守り、それを何らかの形で残し続ける——孟子の生き方は、短期的な成否だけで自分の信念を測るなと教えます。