孟子 / 盡心章句下
孟子曰、由堯舜至於湯、五百有餘歲。若禹皋陶、則見而知之。若湯、則聞而知之。由湯至於文王、五百有餘歲。若伊尹萊朱則見而知之。若文王、則聞而知之。由文王至於孔子、五百有餘歲。若太公望・散宜生、則見而知之。若孔子、則聞而知之。由孔子而來至於今、百有餘歲。去聖人之世、若此其未遠也。近聖人之居、若此其甚也。然而無有乎爾、則亦無有乎爾。
新字:孟子曰、由堯舜至於湯、五百有余歳。若禹皋陶、則見而知之。若湯、則聞而知之。由湯至於文王、五百有余歳。若伊尹萊朱則見而知之。若文王、則聞而知之。由文王至於孔子、五百有余歳。若太公望・散宜生、則見而知之。若孔子、則聞而知之。由孔子而来至於今、百有余歳。去聖人之世、若此其未遠也。近聖人之居、若此其甚也。然而無有乎爾、則亦無有乎爾。
書き下し
孟子曰く、「堯舜由り湯に至るまで、五百有餘歲。禹・皋陶の若きは、則ち見て之を知る。湯の若きは、則ち聞きて之を知る。湯由り文王に至るまで、五百有餘歲。伊尹・萊朱の若きは、則ち見て之を知る。文王の若きは、則ち聞きて之を知る。文王由り孔子に至るまで、五百有餘歲。太公望・散宜生の若きは、則ち見て之を知る。孔子の若きは、則ち聞きて之を知る。孔子由り而來今に至るまで、百有餘歲。聖人の世を去ること、此の若く其れ未だ遠からざるなり。聖人の居に近きこと、此の若く其れ甚しきなり。然り而して有ること無しとせば、則ち亦た有ること無からん。」
現代語訳
孟子は言った。 「堯・舜から殷の湯王までは五百年。夏の禹王や舜の家臣であった皋陶などは、堯・舜の徳を直接見て知っており、湯王などは伝え聞いて知ったのである。湯王から周の文王までは五百年。湯王の家臣であった伊尹・萊朱などは、湯王の徳を直接見て知っており、文王などは、伝え聞いて知ったのである。文王より孔子までは五百年。文王の家臣であった太公望や散宜生などは、文王の徳を直接見て知っており、孔子などは、伝え聞いて知ったのである。孔子から今の時代までは百年。聖人孔子の時代からはそれほど遠く経っていない。また孔子が住んでいた魯の地は、私の故郷である鄒とはこんなにも近いのである。それにもかかわらず、私が孔子の徳を知らないとするならば、後世それを伝え聞き知る者もいなくなってしまうだろう。だから私は孔子の徳を述べるのだ。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・建本晋の襄公薨じ、嗣君少く、趙宣子相たり。大夫に謂いて曰わく、「少君を立つれば、多難ならんことを懼る。請う雍を立てん。雍長じ、出でて秦に在り、秦大にして、以て援と為すに足る」と。賈季曰わく、「公子楽に若かず。楽国に寵有り、先君愛して之を翟に仕えしむ、翟是を以て援と為す」と。穆嬴太子を抱きて庭に呼びて曰わく、「先君奚の罪ありや、其の嗣も亦奚の罪ありや。嫡嗣を捨てて立てずして外に君子を求む」と。朝を出でて抱きて宣子に見えて曰わく、「難きを悪みて、故に長君を立てんと欲するも、長君立ちて少君壮なれば、難乃ち至らん」と。宣子之を患い、遂に太子を立つ。
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説苑・修文春秋に曰く、「壬申、公高寢に薨ず。」傳に曰く、「高寢とは何ぞ?正寢なり。曷為れぞ或いは高寢と言い、或いは路寢と言うか?曰く、諸侯の正寢三つ、一に曰く高寢、二に曰く左路寢、三に曰く右路寢。高寢とは、始めて封ぜられし君の寢なり。二つの路寢とは、體を繼ぐ君の寢なり。其の二つなるは何ぞ?曰く、子父の寢に居らず、故に二寢あり。體を繼ぐ君は世世高祖の寢に居るべからず、故に高寢有り、名づけて高と曰う。路寢其の立つこと奈何?高寢中に立ち、路寢左右す。」と。春秋に曰く、「天王成周に入る。」傳に曰く、「成周とは何ぞ?東周なり。然らば則ち天子の寢奈何?曰く、亦二つの承明あり、體を繼ぎ文を守る君の寢、左右の路寢と曰う。之を承明と謂うは何ぞ?曰く、明堂の後に承くる者なり。故に天子諸侯三寢立ちて名實正しく、父子の義章らかに、尊卑の事別れ、大小の德異なるなり。」
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論語・里仁篇子曰く、三年父の道を改むること無きは、孝と謂う可し。
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尚書・大誥考室を作るが若く、既に法を厎すも、厥の子乃ち堂を肯えてせず、矧んや構を肯えてせんや。
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論語・八佾篇子曰く、『周、二代を監みて、郁郁として文なる哉。吾、周に従う。』
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尚書・多士惟れ殷の先人に冊有り典有り。