武士道 / 第五章 仁・愛不忍の心・仁の不仁に勝つは水の火に勝つが如し
孟子曰く、『仁之勝不仁也、猶水勝火。今之爲仁者、猶以一杯水、救一車薪之火也』と。又た曰く『怵惕惻隱之心、仁之端也』と。是れに由りで之を觀れば、孟子は、彼のアダミスに先んじて、夙に倫理哲學の基礎を同情に置くの說を唱破したるものに非らずや。凡そ國の東西を問はず、各武士が以て名譽の律法とせるものには、其規矩凖繩を等しうするものありき。換言せば頗る他の誹譏を招ける東洋の道德思想が、歐洲文學に於ける莊重なる格言と、符節を合するものあるは、盖し驚くに足るべきなり。人あり若し日本の士人に示すに彼のヴアヂルが羅馬建國の精神を歌ひて、順ふ者を安んじ、逆ふ者を挫きて、平和の計を定むるこそ、これぞ汝の業なれ。と云へるを以てせんか、彼れ或は直ちにマンチユアンの詩聖を目するに、皇國文學の精粹を剽窃するものとなす勿からん乎。
新字:孟子曰く、『仁之勝不仁也、猶水勝火。今之為仁者、猶以一杯水、救一車薪之火也』と。又た曰く『怵惕惻隠之心、仁之端也』と。是れに由りで之を観れば、孟子は、彼のアダミスに先んじて、夙に倫理哲学の基礎を同情に置くの説を唱破したるものに非らずや。凡そ国の東西を問はず、各武士が以て名誉の律法とせるものには、其規矩凖縄を等しうするものありき。換言せば頗る他の誹譏を招ける東洋の道徳思想が、欧洲文学に於ける荘重なる格言と、符節を合するものあるは、盖し驚くに足るべきなり。人あり若し日本の士人に示すに彼のヴアヂルが羅馬建国の精神を歌ひて、順ふ者を安んじ、逆ふ者を挫きて、平和の計を定むるこそ、これぞ汝の業なれ。と云へるを以てせんか、彼れ或は直ちにマンチユアンの詩聖を目するに、皇国文学の精粋を剽窃するものとなす勿からん乎。
書き下し
孟子曰く、『仁の不仁に勝つや、なほ水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、なほ一杯の水を以て、一車の薪の火を救ふがごときなり』と。又た曰く、『怵惕惻隠の心は、仁の端なり』と。是れに由りて之を観れば、孟子は彼のアダム・スミスに先んじて、つとに倫理哲学の基礎を同情に置くの説を唱破したるものに非らずや。凡そ国の東西を問はず、各武士が以て名誉の律法とせるものには、其規矩準縄を等しうするものありき。換言せば、すこぶる他の誹譏を招ける東洋の道徳思想が、欧洲文学に於ける荘重なる格言と、符節を合するものあるは、けだし驚くに足るべきなり。人あり、もし日本の士人に示すに、彼のヴァージルが羅馬建国の精神を歌ひて、『順ふ者を安んじ、逆ふ者を挫きて、平和の計を定むるこそ、これぞ汝の業なれ』と云へるを以てせんか、彼れ或は直ちにマントヴァの詩聖を目するに、皇国文学の精粋を剽窃するものとなす勿からんか。
現代語訳
孟子はこう言いました。仁が不仁に勝つのは、水が火に勝つようなものだ。今、仁を行う者は、一杯の水で車一台分の薪の火を消そうとするようなものだ、と。また、はっと驚きいたみ憐れむ心は仁の端緒である、とも言いました。これによって見れば、孟子はアダム・スミスに先んじて、早くから倫理哲学の基礎を同情に置く説を唱え破ったのではないでしょうか。およそ国の東西を問わず、それぞれの武士が名誉の掟としたものには、規準を同じくするところがありました。言い換えれば、かなり他から非難を受ける東洋の道徳思想が、ヨーロッパ文学の荘重な格言と割り符を合わせるように一致するのは、実に驚くべきことです。もし日本の武士に、ウェルギリウスがローマ建国の精神を歌って、従う者を安んじ逆らう者を挫いて平和の計を定めること、それこそ汝の業である、と言ったのを示したら、彼はすぐにマントヴァの詩聖を、わが国の文学の精髄を盗んだ者と見なすのではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
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論語・雍也篇宰我問いて曰く、「仁者は之に告げて『井に仁有り』と曰うと雖も、其れ之に従わんか。」子曰く、「何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむ可きも、陥る可からず。欺く可きも、罔う可からず。」
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