管仲(かんちゅう)という名前は、二つの言葉と一緒に覚えられていることが多いと思います。一つは「管鮑(かんぽう)の交わり」。もう一つは「衣食足りて礼節を知る」。友情の人であり、経済から政治を考えた人。どちらも間違いではありません。
ただ、その一生をたどると、印象はかなり変わります。管仲は、のちに自分の主君になる人を、若いころ矢で射ています。殺すつもりで放った一矢でした。その相手に宰相として迎えられ、四十年近く国を動かし、最後は病床で「あなたはおそらく、私の言うことを守れないでしょう」と主君に言い残して死にます。そして主君は、そのとおりになりました。
この記事では、管仲の生涯を、師導が収録する『史記』『管子』『論語』『呂氏春秋』『荀子』の原文でたどります。同じ出来事が、書によって少しずつ違って書かれていることも、そのまま示します。
引用は、師導が収録する底本の書き下し(読み下し文)の欄から、そのまま切り出しています。
管仲とは ― 先に輪郭と、一つのお断り
管仲は、春秋時代(紀元前八〜前五世紀)の斉(せい)の宰相です。名は夷吾(いご)、仲は字(あざな)で、生まれた年は分かっていません。亡くなったのは紀元前六四五年とされます。
仕えた主君は斉の桓公(かんこう)、在位は紀元前六八五年から前六四三年です。桓公は、周の王室が弱ったあとの諸侯をまとめる「覇者(はしゃ)」の最初の一人になりました。覇者とは、王ではないけれども、諸侯の会盟を主宰して秩序を保つ実力者のことです。紀元前六五一年の葵丘(ききゅう)の会盟が、その頂点とされます。桓公は管仲を「仲父(ちゅうほ)」、つまり父に次ぐ人と呼びました。
先に一つ、お断りをしておきます。『管子(かんし)』という書物は、管仲が自分で書いた本ではありません。 管仲の名を冠していますが、実際には、管仲の死後、斉の都に集まった学者たち(稷下(しょくか)の学者と呼ばれます)が、長い時間をかけて書き継いだ論集です。前漢の劉向(りゅうきょう)が八十六篇に整理し、いま読めるのは七十六篇です。
ですから、『管子』に書かれた管仲の言葉や逸話は、本人の記録ではなく「斉の人々が伝えた管仲」です。それでも、この本には管仲の若いころから臨終までの話が、驚くほど具体的に残っています。この記事では、そうした性格の本であることを踏まえたうえで読んでいきます。
一、若いころ ― 商売で多く取り、三度仕えて三度追われた
管仲の若いころについては、本人の述懐とされる言葉が『史記』に残っています。「管鮑の交わり」の出典です。
【書き下し】吾始め困みし時、嘗て鮑叔と賈し、財利を分かつに多く自らに与ふるも、鮑叔、我を以て貪と為さず、我が貧なるを知ればなり。……吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はるるも、鮑叔、我を以て不肖と為さず、我が時に遭はざるを知ればなり。……公子糾敗れ、召忽之に死し、吾幽囚せられて辱めを受くるも、鮑叔、我を以て無恥と為さず、我が小節を羞ぢずして功名の天下に顕はれざるを恥づるを知ればなり。我を生みし者は父母なるも、我を知る者は鮑子なり。
出典:史記 管晏列伝
鮑叔(ほうしゅく、鮑叔牙)は管仲の幼なじみです。一緒に商売をすれば管仲が儲けを多く取り、仕官すれば三度とも追い出され、戦に出れば三度とも逃げ帰った。表から見れば、欲深く、無能で、臆病な男です。鮑叔はそのたびに、事情のほうを見ていました。貧しかったから、時に恵まれなかったから、老いた母がいたから。
この述懐を「友情の美談」として読んだ記事は、史記の名言12選で書きました。ここで押さえておきたいのは、別のことです。管仲の前半生は、失敗の連続だったということ。生まれた年が分からないので何歳のころかは言えませんが、のちの名宰相は、桓公に迎えられるまで何者でもありませんでした。
二、帯留めに当たった一矢 ― 主君になる人を射た男
転機は、斉の国の跡目争いでした。暴君だった襄公(じょうこう)が殺され、国外に逃れていた二人の公子が、先を争って帰国しようとします。鮑叔は公子小白(しょうはく)に、管仲は兄の公子糾(きゅう)に仕えていました。
その争いのなかで、管仲は小白を弓で射ます。『管子』大匡(だいきょう)篇はこう書きます。
【書き下し】桓公莒より先に入る、魯人齊を伐ち、公子糺を納れ、乾時に戰う、管仲桓公を射て鈎に中つ、魯師敗績す。
出典:管子 大匡
「鈎(こう)」は帯の留め金のことです。矢は小白の帯留めに当たり、命を取るには至りませんでした。
おもしろいのは、同じ一矢が、書によって違う場面で語られていることです。『管子』大匡篇のこの段では、小白が先に帰国して位についたあと、乾時(かんじ)の戦いで射たことになっています。ところが『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』は、二人が先を争って帰国する道中の出来事として書いています。
【書き下し】管仲、弓を扞きて公子小白を射て、鉤に中つ。鮑叔、公子小白を御して、僵れしむ。管子以て小白死せりと為し、公子糾に告げて曰く、「之を安んぜよ。公子小白已に死せり。」鮑叔因りて疾驅して先づ入る。故に公子小白以て君と為るを得たり。
出典:呂氏春秋 貴卒
こちらでは、矢が当たった小白が倒れて死んだふりをし、管仲はそれを信じて主君に「もう急がなくてよい」と告げてしまいます。その隙に小白は国に入り、位につきました。これが桓公です。管仲は、主君を勝たせるはずの一矢で、相手に時間を与えてしまったことになります。
どちらの場面が史実に近いかは、ここでは決めません。確かなのは、管仲が桓公を殺そうとしたこと、そして桓公がそれを覚えていたことです。
三、鮑叔の推薦 ― 「彼は自分の君のために動いたのです」
争いは小白、つまり桓公の勝ちに終わりました。公子糾は殺され、一緒に仕えていた召忽(しょうこつ)は主君に殉じて死にます。管仲は死なず、捕らえられました。
桓公は鮑叔を宰相にしようとします。鮑叔は断り、代わりに管仲を推しました。『管子』小匡(しょうきょう)篇は、そのときの問答をこう伝えます。
【書き下し】公曰く、「管夷吾親ら寡人を射て、鈎に中たり死に殆し、今乃ち之を用うるは、可なるか」と。鮑叔曰く、「彼は其の君の為に動くなり、君若し宥して之を反さば、其の君の為にすること亦た猶お是くのごとし」と。
出典:管子 小匡
自分を殺しかけた男を使ってよいのか。鮑叔の答えは短いものでした。あの男は自分の主君のために動いた。あなたが赦して呼び戻せば、同じことをあなたのためにするだろう。行いの善し悪しではなく、誰のために動いたかを見ているのです。
鮑叔はさらに、自分が管仲に及ばない点を五つ数え上げています。
【書き下し】若し必ず國家を治めんとせば、則ち臣の能くする所に非ざるなり、其れ唯だ管夷吾か。臣の管夷吾に如かざる所の者五つ。……夫れ管仲は、民の父母なり。將に其の子を治めんと欲せば、其の父母を棄つ可からず」と。
出典:管子 小匡
五つとは、民を愛すること、国の手綱を外さないこと、諸侯と信義で結べること、礼義を定めて手本にできること、軍門に立って兵を奮い立たせること、です。謙遜で終わらせず、比べようのない具体を並べる。人を推すときの言葉として、これ以上のものはなかなかありません。
四、罪人の姿で迎えられる
鮑叔は、魯(ろ)の国にいた管仲を「処刑したいので引き渡してほしい」という口実で取り戻させます。魯の謀臣は、斉が管仲を用いるつもりだと見抜いて殺そうとしましたが、鮑叔が押し切りました。管仲は縛られ、檻に入れられて斉に送られます。
国境での出迎えの場面が、『管子』に細かく残っています。
【書き下し】堂阜の上に至り、鮑叔祓いて之を浴すること三たび、桓公親ら之を郊に迎う。管仲纓を詘め衽を揷み、人をして斧を操りて其の後に立たしむ。公斧を辭すること三たび、然る後に之を退く。公曰く、「纓を垂れ衽を下せ、寡人將に見えんとす」と。管仲再拜稽首して曰く、「公の賜に應じ、之を黄泉に殺すも、死して且つ朽ちず」と。公遂に與に歸り、之を廟に禮し、三たび酌して政を為すを問う。
出典:管子 小匡
管仲は罪人の姿で現れ、斧を持った者を自分の後ろに立たせました。いつでも首を落とせ、という意思表示です。桓公はその斧を三度辞退して下がらせ、身なりを整えさせてから会いました。そして祖先の廟で礼をし、杯を三度めぐらせてから、はじめて政治を問うています。処刑ではなく招きであることを、形で示したのです。
その後の桓公のふるまいも伝わっています。
【書き下し】管子、齊國を治め、事を舉げて功有れば、桓公必ず先づ鮑叔を賞して曰く、「齊國をして管子を得しめし者は、鮑叔なり。」
出典:呂氏春秋 賛能
管仲が手柄を立てるたびに、桓公はまず鮑叔を賞した。管仲を連れてきたのは鮑叔だから、というのです。『史記』も、世の人々は管仲の賢さより鮑叔の人を見る目をたたえた、と書いています。
【書き下し】鮑叔既に管仲を進め、身を以て之に下る。子孫世々斉に禄せられ、封邑を有つこと十余世、常に名大夫為り。天下、管仲の賢を多とせずして、鮑叔の能く人を知るを多とす。
出典:史記 管晏列伝
鮑叔は、自分より上に管仲を置き、自分はその下についた。名宰相の物語は、推した人の物語から始まっています。
五、倉廩実ちて礼節を知る ― 経済から入る政治
宰相になった管仲は、何から始めたのか。『管子』の巻頭、牧民(ぼくみん)篇の書き出しがよく知られています。
【書き下し】凡そ地を有ちて民を牧う者は、務めは四時に在り、守りは倉廩に在り。國に財多ければ則ち遠き者來たり、地辟け舉がれば則ち民留まり處り、倉廩實つれば則ち禮節を知り、衣食足れば則ち榮辱を知り、上度に服せば則ち六親固く、四維張れば則ち君令行わる。
出典:管子 牧民
「倉廩(そうりん)」は米蔵のことです。蔵が満ちてはじめて人は礼節をわきまえ、衣食が足りてはじめて栄誉と恥を知る。「衣食足りて礼節を知る」ということわざの元になった一節です。礼を教えてから食わせるのではなく、食わせると礼が立つ、という順序で書かれています。
司馬遷は『史記』の管仲の伝で、この言葉を管仲の政治の要として引き、さらに管仲のやり方をこうまとめました。
【書き下し】柯の会に於いて、桓公、曹沫の約に背かんと欲するや、管仲因って之を信にす。諸侯是に由り斉に帰す。故に曰く、「与ふるの取ると為るを知るは、政の宝なり」と。
出典:史記 管晏列伝
柯(か)の会盟で、桓公は魯の将軍・曹沫(そうばつ)に短剣で脅され、奪った土地を返すと約束させられました。帰国した桓公は約束を破ろうとします。管仲はそれを止め、脅されて結んだ約束でも守らせました。土地は失いましたが、諸侯は「斉は約束を守る国だ」と知り、斉に従うようになります。
この「与えることが、取ることになる」という言葉も、元は『管子』牧民篇にあります。
【書き下し】民は憂勞を惡む、我之を佚樂せしむ。民は貧賤を惡む、我之を富貴にす。民は危墜を惡む、我之を存安す。民は滅絕を惡む、我之を生育す。……故に予うるの取ると為るを知るは、政の寶なり。
出典:管子 牧民
民が嫌がる苦労・貧しさ・危うさ・死を、先に取り除いてやる。そうすれば民は、まさにその苦労や危うさを君のために引き受ける。刑罰では届かないところに、交換で届かせるという考え方です。経営に置き換えるなら、処遇と安心を先に渡すことが、いちばん確かな求心力になる、ということでしょう。
六、五人を推し、自分は取り替えない
管仲は、何でも自分でやる宰相ではありませんでした。宰相になって三か月、百官の人事について桓公にこう申し出ています。
【書き下し】升降揖讓、進退閑習、辭を辨ずるの剛柔、臣は隰朋に如かず、請う立てて大行と為さん。……此の五子なる者は、夷吾一つも如かず、然り而して以て夷吾に易うるは、夷吾は為さざるなり。君若し國を治め兵を彊くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し霸王たらんと欲せば、夷吾此に在り」と。
出典:管子 小匡
外交儀礼は隰朋(しっぽう)、開墾と農政は甯戚(ねいせき)、軍は王子城父(おうじじょうほ)、裁判は賓胥無(ひんしょむ)、諫言は東郭牙(とうかくが)。五つの分野で、自分はこの五人に及ばないと認め、それぞれを長に据えるよう求めました。そして最後に一言、付け加えます。この五人と私を取り替えることはしない。国を治め兵を強くするだけなら五人で足りる。覇者になりたいなら、私がここにいる、と。
鮑叔が管仲を推したときと、同じ形をしています。自分が及ばない点を具体的に数え、その人を上に立てる。管仲は、自分がされたことを、そのまま人にしました。違うのは、管仲が最後に自分の役割も手放さなかったことです。専門家を並べることと、全体の方向を決めることは別の仕事だ、と分かっていたのでしょう。
七、止められなかったこともある
管仲が何でも思いどおりに動かせたわけではありません。『管子』大匡篇には、桓公が管仲の反対を聞かずに兵を整え、私情から宋を討って大敗した話が残っています。
【書き下し】管仲曰く、「不可なり。百姓病めり、公先ず百姓に與えて其の兵を藏めよ。其の兵に厚きよりは、人に厚きに如かず。齊國の社稷未だ定まらず、公未だ人に始めずして兵に始む、外は諸侯に親しまれず、内は民に親しまれず」と。……明年、公怒りて、管仲に告げて曰く、「宋を伐たんと欲す」と。管仲曰く、「不可なり。臣聞く内政修まらざれば、外事を舉ぐるも濟らずと」。公聽かず、果たして宋を伐つ。諸侯兵を興して宋を救い、大いに齊師を敗る。
出典:管子 大匡
武器に厚くするより、人に厚くするほうがよい。内政が整わなければ、外で事を起こしても成らない。管仲の言葉は短く、聞けば誰にでも分かるものでした。それでも桓公は、宋から来た夫人に船を揺らされて怖い思いをした腹いせに、宋を討ち、宋を救いに来た諸侯の軍に大敗します。
正しいことを言うことと、それを通すことは、別の力です。管仲は、主君の私情から始まった失敗のあとで、その失敗を材料に次の手を打つ人でした。『史記』が「禍(わざわい)に因って福と為し、敗を転じて功と為す」と評したのは、この性格のことです。
八、後継ぎに、親友を推さなかった
晩年、管仲は病に倒れます。桓公は見舞い、自分の死後に政治を誰に任せればよいかと尋ねました。桓公が名前を挙げたのは、当然のように鮑叔でした。管仲の答えは、こうです。
【書き下し】鮑叔は、君子なり。千乘の國、其の道を以て之に予えざれば、受けざるなり。然りと雖も、以て政を為す可からず。其の人と為りや、善を好みて惡を惡むこと已甚だし、一惡を見れば終身忘れず」と。……善を以て人に勝つ者は、未だ能く人を服する者有らざるなり。善を以て人を養う者は、未だ人を服せざる者有らざるなり。
出典:管子 戒
鮑叔は君子だ。道にかなわなければ大国を与えられても受け取らない。しかし政治は任せられない。善を好み悪を憎む気持ちが強すぎて、一つの悪を見れば生涯忘れないからだ。管仲が推したのは隰朋でした。善で人に勝とうとせず、善で人を養う人。国のことで知らないでおく部分がある人、というのが推薦の理由です。
自分を死地から救い、宰相の座まで譲ってくれた親友を、管仲は後継に推しませんでした。これを恩知らずと読むこともできます。けれども、鮑叔がかつて管仲を推したときの理屈を思い出すと、別の読み方ができます。鮑叔は、人柄の美点ではなく、その仕事に向いているかどうかで管仲を推しました。管仲は同じ物差しで、鮑叔を推さなかったのです。
同じ問答は『荘子』徐無鬼篇や『列子』にも、ほぼ同じ形で出てきます。それだけ、よく知られた話だったのでしょう。後継者選びを古典で読んだ記事に、後継者をどう決めるかもあります。
九、遺言と、覇者の最期
管仲は死の床で、もう一つ言い残しました。桓公のそばにいる側近たちを遠ざけよ、と。
【書き下し】管仲對えて曰く、「君の臣に命ずる微くんば、故に臣且に之を謁げんとす。然りと雖も、君猶お行う能わざるなり」と。
出典:管子 小称
申し上げます。ただ、あなたはおそらく守れないでしょう。そう前置きして、管仲は四人の名を挙げました。料理人の易牙(えきが)、宦官の豎刁(じゅちょう)、医術を使う堂巫(どうふ)、衛(えい)の公子開方(かいほう)。桓公の好みに合わせるために、易牙はわが子を料理して差し出し、豎刁は自ら去勢して後宮に入り、開方は十五年も親の顔を見に帰らなかった。自分の子も、自分の体も、自分の親も大事にしない者が、主君を大事にするはずがない、というのが管仲の見立てでした。
別の篇では、三人を「牙をむく犬」にたとえています。
【書き下し】今夫れ易牙は、子を之れ愛する能わず、將に安んぞ能く君を愛せんや。君必ず之を去れ」と。……今夫れ衛の公子開方は、其の千乘の太子を去りて臣として君に事う、是れ願う所にして君に得る者は、是れ將に其の千乘に過ぎんと欲するなり。君必ず之を去れ」と。
出典:管子 戒
開方についての見立てが、いちばん鋭いところです。大国の太子という地位を捨ててまで仕えるのは、それを上回るものを狙っているからだ、と。
桓公は約束どおり、管仲の死後に四人を追い出しました。そして、こうなります。
【書き下し】管仲死し、已に葬る。公四子なる者を憎み、之を官より廢す。堂巫を逐いて苛病起兵し、易牙を逐いて味至らず、豎刁を逐いて宫中亂れ、公子開方を逐いて朝治まらず。桓公曰く、「嗟、聖人も固より悖る有るか」と。乃ち四子なる者を復す。
出典:管子 小称
料理がまずくなり、宮中が乱れ、朝廷がまとまらない。不便に耐えられず、桓公は「聖人にも間違いはあるのか」と言って四人を呼び戻しました。一年後、四人は反乱を起こし、病床の桓公を一室に閉じ込めます。
【書き下し】公曰く、「嗟兹たるかな、聖人の言長きかな。死者知る無くんば則ち已まん、若し知る有らば、吾何の面目ありて以て仲父を地下に見んや」と。乃ち素幭を援きて以て首を裹みて絶ゆ。……桓公の身死して十一日、蟲户より出でて收められざりし所以の者は、賢を用うるを終えざるを以てなり。
出典:管子 小称
飢えと渇きのなかで、桓公は「どんな顔をして地下で仲父に会えばよいのか」と言い、自分で頭を覆って息絶えました。遺体は放置され、虫が戸口から這い出てはじめて死が知られた、と『管子』は書きます。
放置された日数は、書によって違います。『管子』小称篇は十一日、同じ『管子』の戒篇は「七日斂せず、九月葬らず」、『呂氏春秋』は知接篇で三か月、『史記』斉太公世家は六十七日としています。数字はそろいませんが、結末はどの書でも同じです。諸侯を九度集めた覇者が、誰にも看取られずに死んだ。 管仲が最初に言い添えた「あなたはおそらく守れないでしょう」は、そのとおりになりました。
十、孔子の評価は割れている
管仲が死んでおよそ百年後に、孔子が生まれます。孔子は管仲をどう見たか。これが、はっきり二つに割れています。
まず、厳しい評価。
【書き下し】子曰く、『管仲の器、小なる哉!』或曰く、『管仲は倹なりや。』曰く、『管氏に三帰有り。』曰く、『然らば礼を知るや。』曰く、『邦君、塞門を樹つ、管氏も亦塞門を樹つ。邦君、二君の好を為すに反坫有り、管氏も亦反坫有り。管仲、その器小なる哉!』
出典:論語 八佾
管仲は器が小さい。倹約だったわけでもなく、礼を知っていたわけでもない。主君と同じ格式の門の目隠しや、杯を置く台(反坫(はんてん))まで自分の屋敷にしつらえていた、というのです。
ところが同じ『論語』の憲問篇では、弟子の子貢(しこう)が「主君の公子糾に殉じず、その仇の宰相になった管仲は仁者ではないのでは」と問うたのに対し、孔子はこう答えています。
【書き下し】管仲、桓公を相けて、諸侯に霸たり、天下を一匡す。民今に到るまで其の賜を受く。管仲微かりせば、吾其れ髪を被り衽を左にせん。
出典:論語 憲問
管仲がいなければ、私たちは髪を結わず、衣を左前に着る異民族の風俗になっていただろう。民は今に至るまでその恩恵を受けている、と。弟子の子路の同じ問いにも、孔子は武力を使わずに諸侯を集めたのは管仲の力だとして、「如其仁(其の仁に如かんや)」と答えています(論語 憲問)。
人柄と生活ぶりには点が辛く、成し遂げた仕事には最大級の賛辞を送る。孔子の評価は、矛盾しているのではなく、人を測る物差しが二つあったのだと思います。
後の儒家、荀子(じゅんし)はもっと突き放しています。
【書き下し】管仲の人と為(な)りや、功に力(つと)めて義に力めず、知に力めて仁に力めず、野人なり、天子の大夫と為すべからず。
出典:荀子 大略
功には努めるが義には努めず、知には努めるが仁には努めない。「野人(やじん)」、つまり教養の足りない実務家だ、というのです。
司馬遷は、この孔子の辛い評価を受けて、理由を推し量っています。
【書き下し】管仲は世の所謂賢臣なり。然るに孔子之を小とす。豈に周道衰微し、桓公既に賢なるに、而も之を勉して王に至らしめず、乃ち覇を称せしめたる、と以為たるか。語に曰く、「其の美に将順し、其の悪を匡救す。故に上下能く相ひ親しむなり」と。豈に管仲の謂か。
出典:史記 管晏列伝
孔子が管仲を小さいと見たのは、桓公ほどの君主を王道まで導かず、覇者止まりにしたからではないか。そのうえで司馬遷は、「主君の美点に従って伸ばし、悪いところは正して救う」という古い言葉を引き、これこそ管仲のことではないか、と結んでいます。
十一、司馬遷が「行い」を書いた理由
『史記』の管仲の伝は、管仲と、約百年後の斉の宰相・晏子(あんし)を一つにまとめた「管晏(かんあん)列伝」です。管仲の段は、こう終わります。
【書き下し】管仲の富、公室に擬し、三帰・反坫有るも、斉人以て侈と為さず。管仲卒す。斉国、其の政に遵ひ、常に諸侯より彊し。後百余年にして晏子有り。
出典:史記 管晏列伝
管仲の屋敷は主君並みに贅沢だったが、斉の人はそれを咎めなかった。管仲の死後も、斉はその政治を守って強国であり続けた。孔子が「器が小さい」と言った同じ贅沢を、斉の人々は仕事に見合うものと受け止めていたことになります。
そして巻末で、司馬遷はこの伝の書き方を明かしています。
【書き下し】吾、管氏の牧民・山高・乗馬・軽重・九府、及び晏子春秋を読むに、詳らかなるかな、其の之を言ふや。既に其の著書を見、其の行事を観んと欲す。故に其の伝を次づ。其の書に至りては、世に多く之有り、是を以て論ぜず、其の軼事を論ず。
出典:史記 管晏列伝
私は管仲の『牧民』『山高』『乗馬』『軽重』『九府』を読んだ。言っていることは詳しい。だから、実際に何をしたかを見たいと思った。著作は世に多く出回っているので論じず、知られていない逸話を書く、と。
『牧民』『乗馬』『軽重』は、いまの『管子』にも同じ名の篇があります。司馬遷の時代には、すでに「管仲の書」として読まれていたわけです。司馬遷はそれを読んだうえで、言葉ではなく行いで人を測ろうとしました。 鮑叔が管仲の事情を見たように、そして管仲が鮑叔を仕事の適性で見たように、この伝は最後まで「人をどう見るか」で貫かれています。
結び ― 推された人が、推す人になった
管仲の一生を並べ直すと、同じ形が何度も繰り返されていることに気づきます。
若いころの管仲は、失敗ばかりの男でした。その事情を見て、敵方から宰相に推したのが鮑叔です。宰相になった管仲は、自分が及ばない五人を具体的に挙げて、それぞれの長に推しました。そして最後には、恩人である鮑叔を、仕事に向かないという理由で後継に推さなかった。推された人が、同じ物差しで推す人になったのです。
崩れたのは、その物差しが主君に受け継がれなかったところでした。桓公は、管仲を迎えるときには大きな決断ができた人です。けれども、料理がまずい、宮中が乱れる、耳に心地よい言葉がない、という日々の不便には勝てませんでした。管仲が遠ざけよと言った側近は、どれも有能で、便利で、主君の好みをよく知っている人たちでした。
「倉廩実ちて礼節を知る」「与うるの取るたるを知るは政の宝」。管仲の名とともに残った言葉は、どれも順序の話です。何を先に置き、何を後に回すか。人事もまた、順序の話でした。誰を上に立て、誰を遠ざけ、誰に後を託すか。管仲の一生は、その順序を一度も取り違えなかった宰相と、最後に取り違えた覇者の記録として読めます。
関連する章句と記事
この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳・解説つきで収録しています。
同じ「管鮑の交わり」を名言として読んだ記事です。
→ 史記の名言12選 — 原文・現代語訳と、人を活かした者と活かせなかった者の記録
人を見る目、後継者の決め方を古典で読んだ記事もあります。
→ 人を見る目がない、採用で失敗すると感じたら ― 原因を七つに切り分ける、東洋古典の処方箋
→ 後継者をどう決めるか ― 名君・唐の太宗が失敗した事業承継を、『貞観政要』で読む
国を動かした実務家の生涯を、ほかにも書いています。
→ 商鞅の生涯 ― 自分が作った法に追われた改革者。徙木の信から車裂きまで
→ 蘇秦と張儀の生涯 ― 合従連衡の二人は、本当に同門のライバルだったのか
この記事の出典について
引用は、師導が収録する各書の底本の書き下しの欄から切り出したもので、仮名遣いや字体は底本のままです。『管子』は管仲本人の著作ではなく、後世の斉の学者たちが書き継いだ論集であり、同書に見える管仲の言行は伝承として扱っています。
生没年・在位年は通説によりました(管仲の没年は紀元前六四五年、桓公の在位は紀元前六八五〜前六四三年、葵丘の会盟は紀元前六五一年)。桓公の遺体が放置された日数は、『管子』小称篇・戒篇、『呂氏春秋』知接篇、『史記』斉太公世家の記述がそれぞれ異なるため、並べて示しました。『史記』斉太公世家は師導に章句として収録していないため、リンクは張っていません。