「合従連衡(がっしょうれんこう)」という言葉は、世界史の教科書で一度は目にしているはずです。戦国時代の中国で、東の六つの国が手を組んで西の大国・秦に対抗する策が「合従」、秦と一国ずつ手を結ぶ策が「連衡」。前者を説いて回ったのが蘇秦(そしん)、後者で合従を崩したのが張儀(ちょうぎ)です。

司馬遷の『史記』は、この二人をよくできた物語の主人公として描いています。二人は同じ師・鬼谷先生(きこくせんせい)のもとで学んだ同門で、蘇秦は「張儀には及ばない」と認めていた。先に出世した蘇秦は、わざと旧友の張儀を辱めて秦へ向かわせ、裏で資金を出して秦の宰相に押し上げた。やがて二人は、天下を縦と横に引き合う好敵手になる――。

ところが、この筋書きは、一九七三年に中国の墓から出た一巻の帛書(はくしょ)によって大きく揺らいでいます。そして実は、司馬遷自身も、蘇秦について書くことの危うさに気づいていました。

この記事では、蘇秦と張儀がどう生きたかを、『史記』と『戦国策(せんごくさく)』の原文でたどります。そのうえで、どこまでが確かで、どこからが後世の整理なのかを分けて示します。

先に押さえておくこと ― 合従と連衡、そして二つの年表

戦国時代(前五世紀〜前二二一年)の後半、西の秦が抜きんでて強くなりました。東には韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国があります。

  • 合従(がっしょう):「従」は縦のこと。南北に並ぶ六国が縦に連なって、秦に共同で当たる策。
  • 連衡(れんこう):「衡」は横のこと。秦と東の国が東西に一対一で結ぶ策。結果として六国の連合は崩れる。

この二つを説いて諸国を渡り歩いた弁論家たちを「縦横家(じゅうおうか)」と呼びます。後漢の班固がまとめた図書目録『漢書』芸文志(げいもんし)には、縦横家の書として「蘇子三十一篇」「張子十篇」が載っています。どちらも今は伝わっていません。

年代は、ここでは二つに分けて考えます。

  • 『史記』の筋書き:蘇秦と張儀は同時代の人。蘇秦が合従を成し、そのあと張儀が連衡で崩す。
  • 出土資料にもとづく見方:張儀は前三二八年に秦の宰相となり、前三一〇年(前三〇九年説もある)に魏で亡くなった。蘇秦が活躍したのは、それより後の前三世紀のはじめ、燕の昭王の時代で、前二八四年ごろ斉で死んだ。

二つ目の見方が正しければ、二人は同じ舞台に並んでいません。この食い違いは後の節で詳しく扱います。まずは『史記』と『戦国策』が描いた二人を、そのまま読んでいきます。

一、笑われて帰った男 ― 蘇秦の出発

蘇秦は東周の都・雒陽(らくよう)の人です。『史記』によれば、斉で学び、鬼谷先生に師事したあと、諸国を遊説して回りました。しかし何年たっても芽が出ず、困窮して郷里に帰ります。

【書き下し】兄弟嫂妹妻妾、竊かに皆之を笑ひて曰く、「周人の俗、産業を治め、工商に力め、什二を逐ふを以て務めと為す。今子は本を釈てて口舌を事とし、困しむは、亦た宜ならずや」と。蘇秦之を聞きて慚ぢ、自ら傷み、乃ち室を閉ぢて出でず、其の書を出だして遍く之を観る。曰く、「夫れ士、業已に首を屈して書を受くるも、以て尊栄を取る能はずんば、多しと雖も亦た奚を以て為さん」と。是に於いて周書陰符を得、伏して之を読む。期年、以て揣摩を出だし、曰く、「此れ以て当世の君に説く可し」と。

兄弟も兄嫁も妹も妻も、陰で笑いました。周の人間は家業に励み、商売で二割の利を追うのが本分だ。それを口先の弁論にかまけて困り果てている。当然の報いだろう、と。

蘇秦は恥じ入り、部屋にこもって蔵書を読み返します。そして「頭を垂れて学問をしても、それで世に出られないなら、何冊読んでも意味がない」と考え、『周書陰符(しゅうしょいんぷ)』という書を手に入れて、一年かけて揣摩(しま)を身につけました。揣摩とは、相手の心を推し量ること。のちに「揣摩憶測」という四字熟語にも残る言葉です。

ここで押さえておきたいのは、蘇秦が学び直したのが「正しいことを言う技術」ではなく、「相手が何を欲しているかを読む技術」だったという点です。家族に笑われた経験が、彼の関心を議論の中身から聞き手の側へ移しました。

出典:史記 蘇秦列伝

二、錐で股を刺す ― 蘇秦は最初、「連衡」を説いていた

同じ場面を、『戦国策』はもっと劇的に書いています。秦の国の話を集めた「秦策」の最初の章は、次の一文で始まります。

【書き下し】蘇秦始めて連橫を將(も)って秦の惠王に說きて曰わく、

蘇秦は最初、連衡を説いていたのです。のちに合従の旗手となる人物が、はじめは秦の側に立って「天下を呑み込めます」と売り込んでいた。秦の恵王はこれを退けます。『史記』はその理由を、ちょうど商鞅(しょうおう)を処刑したばかりで、弁舌の徒を嫌っていたから、と書いています(商鞅がどう生き、どう死んだかは別の記事でたどりました)。

売り込みに失敗した蘇秦は、無一文で家に帰ります。

【書き下し】秦王に說くこと書十たび上りて說行われず。黑貂の裘弊れ、黃金百斤盡き、資用乏絕して、秦を去りて歸る。縢を羸(や)せしめ蹻を履き、書を負い橐を擔い、形容枯槁し、面目犂黑にして、歸る色有り。家に歸り至るに、妻紝より下らず、嫂炊を為さず、父母與に言わず。蘇秦喟然として歎じて曰わく、「妻我を以て夫と為さず、嫂我を以て叔と為さず、父母我を以て子と為さず、是れ皆秦の罪なり。」乃ち夜書を發き、篋數十を陳べ、太公陰符の謀を得て、伏して之を誦し、簡練して以て揣摩を為す。書を讀みて睡らんと欲すれば、錐を引きて自ら其の股を刺し、血流れて足に至る。

上奏文は十回出して、十回とも通らなかった。資金は尽き、帰っても妻は機織りの台から降りず、兄嫁は飯を炊かず、父母は口をきかない。蘇秦は夜中に太公望の兵法書とされる『陰符』を読み込み、眠くなると錐(きり)で自分の股を刺した。血が足まで流れた――。

これが「蘇秦刺股(そしんしこ)」の故事です。のちに「懸梁刺股(けんりょうしこ)」と対にされて、苦学の代名詞になりました(「懸梁」は別人・孫敬の逸話です)。唐の太宗も、臣下に学問の大切さを説くとき「是を以て蘇秦は股を刺し、董生は帷を垂る。」と、この話を引いています(貞観政要 崇儒学)。

ただし、原文を読むと、蘇秦が股を刺しながら口にしていた言葉は「学問のため」ではありません。「どうして君主を説いて金玉錦繡を出させ、卿相の位を取れない者があろうか」。目的ははっきりしていました。

出典:戦国策 秦策一「蘇秦始將連橫」

三、六国の宰相 ― 「前には倨りて後には恭なるや」

学び直した蘇秦は、今度は東へ向かいます。燕の文侯を説き、趙の粛侯を説き、韓・魏・斉・楚を次々に説いて、六国の合従を成立させました。『史記』は、蘇秦が「従約の長」となり、六国すべての宰相を兼ねたと書きます。以後、秦の兵は十五年にわたって函谷関の外をうかがわなかった、とも。

合従の成立を報告しに趙へ戻る途中、蘇秦は故郷の雒陽を通ります。行列は王者と見まがうほどで、周の顕王まで道を掃き清めて迎えました。かつて笑った家族は、顔を上げることもできません。

【書き下し】蘇秦笑ひて其の嫂に謂ひて曰く、「何ぞ前には倨りて後には恭なるや」と。嫂委蛇蒲服し、面を以て地を掩ひて謝して曰く、「季子の位高く金多きを見ればなり」と。蘇秦喟然として嘆じて曰く、「此れ一人の身、富貴なれば則ち親戚之を畏懼し、貧賤なれば則ち之を軽易す、況んや衆人をや。且つ我をして雒陽負郭の田二頃有らしめば、吾豈に能く六国の相印を佩びんや」と。

「以前は横柄だったのに、なぜ今はそんなに恭しいのですか」。兄嫁は地に顔を伏せて答えます。「あなたの位が高く、お金持ちになられたからです」。

有名なのはこのやりとりですが、読みどころはその後の蘇秦のため息です。富貴なら親戚でさえ恐れかしこまり、貧賤なら軽んじる。まして他人ならなおさらだ。それに、もし自分に雒陽の城壁近くの田が二頃(にけい)でもあったなら、六国の宰相の印など身につけられなかっただろう。

満たされていたら、動かなかった。蘇秦は自分を突き動かしたものが何だったかを、よく分かっていました。そして千金を散じて、一族や友人に分け与えます。

(『戦国策』の同じ場面では、兄嫁は蛇のように這って四度拝み、「恭」が「卑」になっています。)

出典:史記 蘇秦列伝

四、「吾が舌を視よ」 ― 張儀の出発

張儀は魏の人です。『史記』は、張儀も蘇秦とともに鬼谷先生に学び、蘇秦自身が「張儀には及ばない」と思っていたと書きます。

張儀の出発点も、蘇秦に劣らず惨めでした。

【書き下し】嘗て楚相に従ひて飲む。已にして楚相璧を亡ふ。門下、張儀を意ひて曰く、「儀は貧にして行無し、必ず此れ相君の璧を盗めり」と。共に張儀を執へ、掠笞すること数百、服せず、之を醳す。其の妻曰く、「嘻、子、書を読み游説する毋くんば、安ぞ此の辱を得んや」と。張儀、其の妻に謂ひて曰く、「吾が舌を視るに尚ほ在りや不や」と。其の妻笑ひて曰く、「舌在るなり」と。儀曰く、「足れり」と。

楚の宰相の宴に同席したあと、宰相の璧(へき、宝玉)がなくなった。「張儀は貧乏で素行が悪い。こいつが盗んだに違いない」。張儀は捕らえられ、数百回も鞭打たれましたが、白状しませんでした。妻が「本を読んで遊説などしなければ、こんな辱めは受けなかったのに」と嘆くと、張儀は言います。「私の舌はまだあるか、見てくれ」。妻が笑って「ありますよ」と答えると、「それで十分だ」。

体を打たれても、舌が残っていれば商売はできる。張儀の自己認識は、この一言にすべて出ています。

当時、この張儀を「大丈夫(だいじょうふ)」、つまり本物の男だと見る人もいました。景春(けいしゅん)という人物が、孟子にこう問いかけています。

【書き下し】景春曰く、「公孫衍・張儀は豈に誠の大丈夫ならずや。一たび怒りて諸侯懼れ、安居して天下熄む。」孟子曰く、「是れ焉くんぞ大丈夫為るを得んや。子未だ禮を學ばざるか。丈夫の冠するや、父、之に命ず。女子の嫁するや、母、之に命ず。往きて之を門に送り、之を戒めて曰く、『往きて女の家に之き、必ず敬し必ず戒め、夫子に違うこと無かれ。』順を以て正と為す者は、妾婦の道なり。天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行う。志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其の道を行う。富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず。此を之れ大丈夫と謂う。」

公孫衍や張儀がひとたび怒れば諸侯が震え、彼らが静かにしていれば天下が収まる。これこそ大丈夫ではないか。孟子は即座に否定しました。相手の意向に従うことを正しさとするのは「妾婦(しょうふ)の道」だ。富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、それが大丈夫だ、と。

蘇秦は「田が二頃あったら動かなかった」と言いました。孟子の言う大丈夫は、貧しさでも豊かさでも動かない人です。同じ時代に、正反対の人間像が並んでいたことになります。

出典:史記 張儀列伝孟子 滕文公章句下

五、辱めて送り出す ― 『史記』がいちばん劇的に書いた場面

『史記』の二人の物語は、ここで一本に結ばれます。

合従を成した蘇秦は、秦が盟約を崩しに来ることを恐れていました。秦の内側から秦を操れる人物が欲しい。そこで人をやって、それとなく張儀に「旧友の蘇秦を頼ってはどうか」と吹き込ませます。張儀が趙を訪ねると、蘇秦は取り次ぎもさせず何日も待たせ、ようやく会えば堂の下に座らせ、召使いの食事を出し、叱りつけて追い返しました。怒った張儀は、趙を苦しめられるのは秦だけだと考え、秦へ向かいます。

【書き下し】蘇秦已にして其の舍人に告げて曰く、「張儀は天下の賢士なり、吾殆ど如かざるなり。今吾幸ひに先づ用ゐらる、而れども能く秦の柄を用ゐる者は独り張儀のみ。然れども貧にして進む因無し。吾其の小利を楽しみて遂げざるを恐る、故に召して之を辱め、以て其の意を激す。子我が為に陰かに之を奉ぜよ」と。張儀既に秦に相たり。舍人辞去し、実を以て儀に告ぐ。張儀曰く、「嗟乎、此れ吾が術中に在りて悟らず、吾蘇君に及ばざること明らかなり」と。

蘇秦は家臣にこう打ち明けていました。張儀は天下の賢士で、自分はとても及ばない。ただ貧しくて出世の糸口がない。小さな利に満足して終わるのが心配だから、わざと辱めて奮い立たせた。お前はひそかに彼を援助してやれ――。張儀が秦の宰相になったあと、その家臣から真相を聞かされ、張儀は「私は蘇君の術中にいて気づかなかった。蘇君には及ばない」と嘆じます。

人を育てる話としても読める、よくできた場面です。けれども、この場面は、先に触れた出土資料の見方が正しければ成り立ちません。張儀が秦の宰相になったとき、蘇秦はまだ世に出ていなかったことになるからです。いちばん劇的な場面が、いちばん疑わしい。この点は第八節で扱います。

出典:史記 張儀列伝

六、六百里と六里 ― 張儀が楚にしたこと

秦の宰相となった張儀の仕事で、いちばん有名なのが楚の懐王(かいおう)との一件です。秦は斉を討ちたかったが、斉と楚は同盟していた。そこで張儀は楚へ乗り込みます。

【書き下し】張儀楚王に説きて曰く、「大王誠に能く関を閉ぢ斉に約を絶たば、臣請ふ商於の地六百里を献ぜん」と。楚王大いに説びて之を許す。群臣皆賀するも、陳軫独り之を弔ひて曰く、「商於の地得可からずして斉秦合す、斉秦合すれば則ち患ひ必ず至らん」と。楚王聴かず。張儀秦に至り、詳りて綏を失ひ車より墮ち、朝せざること三月。楚王以て斉を絶つこと未だ甚だしからずと為し、乃ち勇士をして北のかた斉王を罵らしむ。斉秦の交合し、張儀乃ち朝し、楚の使者に謂ひて曰く、「臣に奉邑六里有り、願はくは以て大王の左右に献ぜん」と。楚の使者曰く、「臣王より令を受くるに、商於の地六百里を以てす、六里を聞かず」と。

斉と縁を切ってくだされば、商於(しょうお)の地六百里を献上しましょう。楚王は大喜びで承知し、群臣も祝いましたが、陳軫(ちんしん)ひとりが弔いの言葉を述べます。土地は手に入らず、斉と秦が結ぶだけです、と。張儀は秦に帰ると、車から落ちたふりをして三か月出仕しません。楚王は断交が足りないのかと考え、わざわざ勇士をやって斉王を罵らせました。斉と秦が手を結んだところで、張儀はようやく姿を見せ、楚の使者に言います。「私の領地六里を献上しましょう」。

怒った楚は秦を攻め、大敗します。『史記』は、首を斬られること八万と書きます。

前漢の劉向(りゅうきょう)が編んだ『新序(しんじょ)』は、この一件を楚の忠臣・屈原(くつげん)の側から書いています。張儀は楚の重臣や王の寵姫・鄭袖(ていしゅう)に賄賂を贈って屈原を讒言させ、遠ざけていました。楚が張儀の身柄を求めると、張儀は自分から楚へ向かいます。

【書き下し】張儀曰く、一儀を以て漢中の地に易う。何ぞ儀を愛しまんや、と。

自分ひとりで漢中の地と引き換えになるなら安いものだ。張儀は捕らえられますが、賄賂を受けていた重臣たちの取りなしで、生きて帰されました。そして楚の懐王は、のちに秦との会見に出向いた先で捕らえられます。

【書き下し】懷王遂に會す。果たして囚拘せられ、秦に客死し、天下の笑いと爲る。

屈原は会見を止めていました。懐王は聞かずに出かけ、秦で客死します。屈原はやがて追放され、汨羅(べきら)に身を投げました。

屈原の生涯 ― 正しいのに通らなかった人。漁父の問答、汨羅、端午の節句の由来まで

張儀の舌は、一国の王を二度欺きました。それでも殺されなかったのは、張儀が楚の宮廷のどこに誰の利害があるかを、正確に読んでいたからです。

出典:史記 張儀列伝新序 節士新序 節士

七、二人の最期 ― 車裂きの計と、魏での死

『史記』の蘇秦は、燕の王の母と密通し、誅殺を恐れて斉へ逃れたことになっています。表向きは燕で罪を得た亡命者として斉に仕え、実際は燕のために働いていた。斉では寵を争う大夫たちに刺客を放たれ、深手を負います。

【書き下し】蘇秦且に死せんとして、乃ち斉王に謂ひて曰く、「臣即し死せば、臣を車裂して以て市に徇へ、蘇秦燕の為に斉に乱を作すと曰へ、此くの如くせば則ち臣の賊必ず得ん」と。是に於いて其の言の如くし、而して蘇秦を殺す者果たして自ら出づ、斉王因りて之を誅す。

私が死んだら遺体を車裂きにして市中にさらし、「蘇秦は燕のために斉で乱を起こそうとした」と布告してください。そうすれば犯人は必ず名乗り出ます。そのとおりにすると、刺客は手柄になると思ったのでしょう、自ら名乗り出て、処刑されました。死ぬ間際まで、蘇秦は人の欲を読んでいました。

張儀の最期は、もう少し静かです。秦の恵王が死んで武王が立つと、張儀は群臣に憎まれ、身の危険を感じます。そこで「斉王は私を憎んでいるから、私のいる国を攻めるはずだ。私が魏へ行けば斉は魏を攻め、そのすきに秦は韓を討てる」と武王に献策し、自分を秦から送り出させました。魏では、斉の軍を言葉ひとつで引き揚げさせています。

【書き下し】張儀魏に相たること一歳、魏に卒す。

最後まで自分の身の置き場を、自分の舌で作った人でした。

後の時代の人々は、二人の終わり方をよく覚えていました。清代の格言集『囲炉夜話(いろやわ)』は、こう書いています。

【書き下し】人皆な會く說話せんと欲す、蘇秦は乃ち會く說話するに因りて身を殺す。

誰もが話し上手になりたがる。だが蘇秦は、話し上手だったせいで殺された。

出典:史記 蘇秦列伝史記 張儀列伝囲炉夜話

八、帛書が揺らしたもの ― 司馬遷は自分で書いていた

一九七三年、湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)三号漢墓から、絹に書かれた文書群が出土しました。そのうちの一巻が、のちに『戦国縦横家書(せんごくじゅうおうかしょ)』と名づけられたものです。全二十七章。うち十一章は『戦国策』や『史記』とほぼ同じ内容ですが、残る十六章は、それまでどの書にも伝わっていない文章でした。

墓が営まれたのは前漢のはじめで、司馬遷が生まれるより前です。そこに収められていた書簡や進言の多くは、蘇秦のものと考えられています。唐蘭(とうらん)や楊寛(ようかん)らの研究によれば、そこに見える蘇秦は、燕の昭王に仕え、燕のために斉へ入り込んで斉と趙を離間させた人物で、活動したのは前三世紀のはじめでした。『史記』の年代より数十年遅く、張儀の死後にあたります。

『戦国策』にも、この「燕の間諜としての蘇秦」を思わせる手紙が残っています。斉から燕王に送ったものです。

【書き下し】臣斉に貴くば、燕の大夫将に臣を信ぜざらんとす。臣賤しくば、将に臣を軽んぜんとす。

私が斉で重く用いられれば、燕の大夫たちは私を信じなくなる。軽く扱われれば、私を侮る。どちらに転んでも疑われることは分かっていた、と書き、手紙の後半で「臣令を受けて以て斉に任ぜられ、五年に及べり。」と続けます。燕王の命を受けて斉に入り、五年がたった。『史記』が書く「密通がばれて斉へ逃げた」とは、ずいぶん違う話です。

では、司馬遷は騙されていたのか。実は、司馬遷自身が蘇秦列伝の結びにこう書いています。

【書き下し】然れども世に蘇秦を言ふこと多く異なり、異時の事之に類する者有れば皆之を蘇秦に附す。夫れ蘇秦は閭閻より起こりて、六国を連ねて従親せしむ、此れ其の智の人に過ぐる者有り。吾故に其の行事を列し、其の時序を次で、独り悪声を蒙らしむる毋からしむ」と。

世間が語る蘇秦の話はまちまちで、別の時代の似た出来事まで、みな蘇秦のことにされている。それでも蘇秦は庶民から身を起こし、六国を連ねた。その智恵は人並みを超えている。だから行いを並べ、時の順に整理して、彼ひとりが悪評をかぶらないようにした――。

司馬遷は、蘇秦の話に後から付け足されたものがあることを承知していました。そのうえで、手元の材料で筋の通る順番を作ろうとした。その順番が、出土資料と合わなかったのです。ただし、司馬遷は今の私たちより多くの材料を見ていたはずで、出土資料の読み方にも異論はあります。ここでは「有力な見方」にとどめておきます。

張儀の側にも、似た揺れがあります。『戦国策』で張儀が秦王に説く長い弁論は、「臣之を聞く、知らずして言うは不智と為し、知りて言わざるは不忠と為す。」で始まります。ところがほぼ同じ文章が、『韓非子』の巻頭「初見秦篇」として、韓非の名で伝わっているのです(韓非子 初見秦)。弁論は、よく語られる人の名前に引き寄せられていきます。韓非の側からこの問題を見た記事もあります(韓非の生涯 ― 『説難』を書いた男は、なぜ説得に失敗して死んだのか)。

司馬遷は張儀列伝の結びで、もう一つ気になることを書いています。

【書き下し】夫れ張儀の行事は蘇秦より甚だし。然れども世に蘇秦を悪む者は、其の先づ死せるを以て、而して儀其の短を振暴して以て其の説を扶け、其の衡道を成せり。要するに、此の両人は真に傾危の士なるかな」と。

張儀のやったことは蘇秦よりひどい。それでも世間が蘇秦を憎むのは、蘇秦が先に死に、張儀がその短所を暴き立てて自説の支えにしたからだ。「先に死んだ」という一句は、出土資料の見方とは逆です。ただ、どちらが先だったにせよ、語られる人物像は、生き残って語る側の都合で作られる。司馬遷はそこまで見抜いていました。

出典:史記 蘇秦列伝戦国策 燕策「蘇秦自齊獻書於燕王」戦国策 秦策一「張儀說秦王」史記 張儀列伝

九、鬼谷先生は誰か ― 「揣摩」という言葉の行き先

二人の師とされる鬼谷先生についても、分かっていることはわずかです。

いま『鬼谷子(きこくし)』という書が伝わっています。ところが、先に触れた『漢書』芸文志には、縦横家として「蘇子」「張子」は載っているのに、『鬼谷子』は見えません。はじめて図書目録に現れるのは、唐代にまとめられた『隋書』経籍志で、三巻とされています。唐の司馬貞『史記索隠』が引く楽壹(がくいつ)の注は「蘇秦がその道を神秘めかそうとして、鬼谷という名を借りた」という説を伝え、唐の柳宗元は、古い目録に無いことを理由に後世の書と断じました。鬼谷先生が実在したのか、この書が誰の手になるのかは、決着していません。

それでも、この書を開くと、『史記』の言葉と重なるところがあります。蘇秦が一年かけて身につけた「揣摩」。『鬼谷子』には、「揣篇(しへん)」と「摩篇(まへん)」という篇がそのままあります。

【書き下し】摩とは、揣の術なり。内符とは、揣の主なり。之を用うるに道有り、其の道は必ず隱る。㣲かに之を摩するに其の欲する所を以てし、測りて之を探れば、符に因りて必ず應ず。

摩とは、相手を推し量るための術である。相手の欲しているものに少しだけ触れ、様子を測って探れば、割符が合うように必ず反応が返ってくる。『史記』が伝える蘇秦の学び直しと、ほとんど同じことを書いています。篇名が『史記』の言葉に合わせて付けられたのか、古い教えが両方に残ったのかは、決められません。

この「揣摩」の力を、意外な人が高く評価しています。明の王陽明です。

【書き下し】先生曰く、「蘇秦・張儀の智も、也(また)是れ聖人の資なり。後世の事業文章、許多の豪傑名家も、只だ是れ儀・秦の故智を学び得たり。儀・秦の学術は、善く人情を揣摸し、一些も人の肯綮に中らざる無し。故に其の説、窮まる能わず。儀・秦も亦た是れ良知の妙用の処を窺見し得たり。但だ之を不善に用うるのみ」と。

蘇秦・張儀の智も、聖人の素質だ。彼らは人情をよく推し量り、急所を一つも外さなかった。良知(りょうち)の妙なる働きを垣間見ていた。ただ、それを善くないことに使っただけだ。

技術そのものは本物だった。問題は使い道だった。王陽明の評は、次の節で見る後世の評価の分かれ目を、短く言い当てています。

出典:鬼谷子 摩篇伝習録 黄省曾録

十、後世の評価 ― 「傾危の士」か、「長に任ず」か

二人に対する評価は、ほぼ二つに割れてきました。

一つは、司馬遷の「傾危(けいき)の士」、つまり国を傾け危うくする人物という評価です。前漢の塩と鉄の専売をめぐる論争を記録した『塩鉄論』でも、儒者の側は「道によって進んだのでない者は道によって退けず、義によって得たのでない者は義によって滅びない」と、二人の栄達を危ういものとして語っています(塩鉄論 褒賢篇)。

もう一つは、人の使い方の側からの評価です。三国時代の魏の曹操は、人材を求める詔でこう書きました。

【書き下し】魏武の詔に曰く「進取の士は未だ必ずしも能く行有らず。行有るの士は未だ必ずしも能く進取せず。陳平豈に篤行ならんや、蘇秦豈に信を守らんや。而るに陳平は漢業を定め、蘇秦は弱燕を済う。其の長に任ずればなり」と。

攻めて取る人が品行方正とは限らず、品行方正な人が攻めて取れるとは限らない。陳平が篤実だったか。蘇秦が信義を守ったか。それでも陳平は漢の事業を定め、蘇秦は弱い燕を救った。長所に任せたからだ――。曹操が「蘇秦は弱燕を済(すく)う」と書いていることにも注意しておきたいところです。燕のために働いた蘇秦という像は、出土資料が見つかる前から、ちゃんと伝わっていました。

出典:長短経 任長

結び ― 舌は残った。では、何のために使うか

蘇秦と張儀の生涯を並べると、共通点がはっきりします。二人とも貧しいところから出て、笑われ、打たれ、その屈辱を燃料にしました。学んだのは正しさではなく、相手の欲を読む技術です。そして二人とも、その技術で国を動かし、その技術で身を守り、最後はその技術の評判ごと後世に語り直されました。

経営の現場に置き換えると、揣摩は交渉や営業や社内調整で毎日使われている力です。相手が何を欲しているかを読めない人は、どれほど正しいことを言っても通りません。その意味で、二人の技術は今も古びていません。

ただ、二人の物語には、技術だけでは済まない部分が二つあります。一つは、読んだ相手の欲を何に使うか。王陽明の言う「不善に用うる」かどうかは、技術の外側で決まります。『鬼谷子』自身も、書の終わり近くで、小人がこの術を使えば「能く家を敗り國を奪うに至る。」と書いています(鬼谷子 中経)。

もう一つは、語られ方です。蘇秦は「別の時代の似た話まで背負わされ」、張儀は「先に死んだ相手の短所を暴いて」自説を立てたと、司馬遷は書きました。弁の立つ人ほど、自分の物語を他人に書かれやすい。その物語を、二千年後の出土資料が書き直しつつあります。

鶏口牛後の一句を通して、蘇秦の説得の組み立てを読んだ記事もあります。こちらは一つの言葉の意味と出典を扱っています。

鶏口となるも牛後となるなかれ ― 意味と出典、そして韓はどうなったか

同じく『史記』に伝のある、国を動かした実務家たちの生涯です。

管仲の生涯 ― 主君を射た男が宰相になり、親友を後継に推さなかった理由
商鞅の生涯 ― 自分が作った法に追われた改革者。徙木の信から車裂きまで

この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・書き下し文・現代語訳と解説つきで収録しています。

鬼谷子の名句一覧
戦国策の名句一覧
史記の名句一覧

この記事の出典について

事績は『史記』蘇秦列伝・張儀列伝と『戦国策』に拠り、両書の食い違いはその旨を記しました。書き下し文は、師導が収録する各書の読みの欄をそのまま切り出しています。張儀の宰相就任(前三二八年)と没年(前三一〇年、前三〇九年説あり)は通説に、『戦国縦横家書』にもとづく蘇秦の年代は唐蘭・楊寛らの研究による一般的な理解に拠りました(異論があるため「有力な見方」として扱っています)。『鬼谷子』の揣篇・摩篇と『史記』の「揣摩」の関係についての記述は、本記事の見方です。