紀元前338年、秦の国境の関所に近い宿屋で、一人の男が一夜の宿を断られました。宿の主人は、目の前の客が誰なのかを知りません。断った理由は、ただ「法でそう決まっているから」でした。
【書き下し】商君亡げて関下に至り、客舎に舍らんと欲す。客人其の是れ商君なるを知らず、曰く、「商君の法、人を舍むるに験無き者は之に坐す」と。商君喟然として嘆じて曰く、「嗟乎、法を為るの敝、一に此に至るか」と。
出典:史記 商君列伝
身分を証明するものを持たない客を泊めれば、宿の者も罪に問われる。その法を作ったのは、断られた客自身でした。商鞅(しょうおう)。秦の宰相として国の仕組みを根こそぎ作り替え、のちに始皇帝が天下を統一する土台を築いた改革者です。その人が、追われる身になったとき、自分の作った法に行き場をふさがれました。「ああ、法を作った弊害が、ここまで及ぶのか」。中国語には、この場面から生まれた「作法自斃(法を作りて自ら斃る)」という成語があります。
商鞅の名は、法家(ほうか)の書『商君書(しょうくんしょ)』とともに知られています。「徙木(しぼく)の信」の逸話を聞いたことがある人もいるでしょう。けれども、その人がどんな一生を送ったのかは、意外に語られません。
この記事では、前漢の歴史家・司馬遷(しばせん)が書いた『史記(しき)』の「商君列伝」を背骨にして、商鞅の生涯をたどります。あわせて、同じ出来事を別の角度から伝える『戦国策』『呂氏春秋』『新序』『塩鉄論』と、『商君書』そのものも開きます。
商鞅とは ― 先に輪郭を押さえておく
先に、分かっていることを並べておきます。
- 生まれ:戦国時代の小国・衛(えい)の公族。ただし正妻の子ではない庶子です。生年ははっきりせず、紀元前390年ごろとする見方があります。
- 名前:姓は公孫(こうそん)、名は鞅(おう)。衛の出身なので「衛鞅(えいおう)」とも呼ばれ、のちに商(しょう)の地を与えられて「商君(しょうくん)」、そこから「商鞅」と呼ばれるようになりました。
- 仕えた君主:秦の孝公(こうこう)。紀元前356年と紀元前350年の二度にわたって大規模な改革(変法)を行いました。
- 死:紀元前338年。孝公が亡くなった年に、謀反の罪を着せられて殺されました。
- その後:秦が六国を滅ぼして天下を統一するのは紀元前221年。商鞅の死から117年後のことです。
「法家」とは、道徳や人柄ではなく、明文化した法と賞罰で国を動かすべきだと考えた学派です。商鞅はその最初の大きな実践者で、のちに韓非(かんぴ)が理論としてまとめ上げました。
一、「用いないなら、殺せ」と言われた若者
若いころの商鞅は、隣の大国・魏(ぎ)で宰相の公叔座(こうしゅくざ)に仕えていました。公叔座は彼の才能を見抜いていましたが、君主に推す前に重い病に倒れます。見舞いに来た魏の恵王(けいおう)に、公叔座は後任としてこの若者を推しました。王は黙ったままでした。そこで公叔座は、人払いをしてこう言います。
【書き下し】座、人を屏けて言ひて曰く、「王即し鞅を用ゐるを聴かずんば、必ず之を殺し、境を出でしむる無かれ」と。……鞅曰く、「彼の王、君の言を用ゐて臣に任ずる能はず、又安ぞ能く君の言を用ゐて臣を殺さんや」と。卒に去らず。
出典:史記 商君列伝
使わないなら、殺せ。他国に渡すな。公叔座はそう進言したあとで、今度は当の商鞅を呼んで「すぐに逃げよ」と告げました。君主への忠と部下への情を、順番どおりに両方果たしたわけです。
商鞅の返事が、この人の性格をよく表しています。「あの王は、あなたの言葉に従って私を用いることができなかった。ならば、あなたの言葉に従って私を殺すこともできないでしょう」。相手の器を読み切って、逃げませんでした。実際、恵王は帰り道で「公叔座も病で気の毒に、血迷ったことを言う」と笑っただけでした。
この場面は『呂氏春秋』と『戦国策』にもほぼ同じ形で残っています。『呂氏春秋』の編者の結論は、血迷っていたのは推した公叔座ではなく笑った王のほうだ、というものでした。
二、帝道・王道・覇道 ― 四度目で、王の膝が前に出た
公叔座が亡くなると、商鞅は、西の秦で孝公が国中に布告を出して賢者を求めていると聞き、秦へ向かいます。孝公の寵臣・景監(けいかん)のつてで謁見がかないました。
ところが最初の謁見で、孝公は話の途中で何度も居眠りをします。二度目も響かない。三度目で「よい」とは言ったものの、用いるまでには至らない。四度目の謁見で、孝公は話に引き込まれて「自ら厀の席に前むを知らざるなり」、知らず知らずのうちに膝が前へ出ていました。何日話しても飽きなかったといいます。何を変えたのか。商鞅は景監にこう明かしています。
【書き下し】吾君に説くに帝王の道を以てして三代に比するに、君曰く、久遠なり、吾待つ能はず、と。且つ賢君なる者は、各々其の身に及びて名を天下に顕はす、安ぞ能く邑邑として数十百年を待ちて以て帝王を成さんや、と。故に吾彊国の術を以て君に説き、君大いに之を説べるのみ
出典:史記 商君列伝
一度目に説いたのは古の聖王の道(帝道)、二度目は王道でした。孝公の答えは「遠すぎる。待てない。賢君というものは、自分の代で名を挙げるものだ」。そこで三度目から、国をすぐに強くする術(覇道)に切り替えたら、喜ばれた。
相手の時間軸に合わせた提案、として読めます。ただ司馬遷は、帝王の術で説いたのは上っ面の議論で本心ではなかった、と論賛で厳しく見ています。最初の二度は、相手を探るための捨て石だった、という読み方です。どちらに読むにせよ、ここで二人が握ったのは「自分の代で成果を出す」という約束で、これが改革の速さと荒さを決めていきます。
三、甘龍・杜摯との論争 ― 同じ議論が、三つの本に残っている
孝公は改革に踏み切る前に、重臣の甘龍(かんりゅう)・杜摯(とし)と商鞅を御前で論争させました。この論争は、『史記』だけでなく『商君書』の第一篇「更法(こうほう)」にも、劉向(りゅうきょう)の編んだ『新序』にも、ほぼ同じ文章で残っています。
商鞅の論は明快です。
【書き下し】愚者は成事に闇く、知者は未萌に見る。民とは始めを慮るべからずして、成るを樂しむべし
出典:商君書 更法
民とは、始めを相談する相手ではない。成った結果を一緒に喜ぶ相手だ。合意を取りに行かず、結果で納得させる、という段取りの宣言です(『史記』の同じ場面は、決断できないときの記事でも取り上げました)。
見落とされがちなのは、反対した側の言い分です。甘龍はこう述べました。
【書き下し】民に因りて教うる者は、勞せずして功成り、法に據りて治むる者は、吏は習いて民は安んず。
出典:商君書 更法
いまの民に合わせて教えれば苦労なく成果が出る。いまの法で治めれば、役人は手順に慣れていて、民は先を読める。制度を変えるときにいちばん高くつくのは、この「慣れ」と「見通し」が失われることだ、という指摘です。保身ではありません。いまの経営でも、制度改定の議論で最初に出るべき論点です。
商鞅はこれを「世俗の言」と退け、反対者を「愚者」「不肖者」と呼び捨てにしました。
面白いのは、同じ論争を収めた『新序』の結びです。劉向は、この議論の勝ち負けを逆につけています。
【書き下し】是に於いて孝公龍・摯の善謀に違い、遂に衞鞅の過言に從う。法嚴にして酷刑深し。而して必ず之を守るに公を以てす。時に當たりて强を取る。遂に鞅を封じて商君と爲す。孝公死するに及び、國人商君を怨み、之を車裂するに至る。其の患い流れ漸み、始皇に至りて赤衣路を塞ぎ、羣盜山に滿つ。卒に亂を以て亡ぶ。削刻無恩の致す所なり。
出典:新序 善謀
孝公は甘龍・杜摯の「善謀」に背き、衛鞅の「過言」に従った。その結果、秦は一時は強くなったが、商鞅は車裂きにされ、害は始皇帝の代まで流れて国を滅ぼした。ほぼ同じ文章の論争が、書き手によって「改革の宣言」にも「失敗の記録」にもなるのです。
四、徙木の信 ― 法を出す前に、約束が守られることを見せた
新しい法令はできあがりました。しかし商鞅は、すぐには公布しませんでした。民が信じないのではないか、と恐れたからです。
【書き下し】令既に具はり、未だ布かざるに、民の信ぜざるを恐れ、已に乃ち三丈の木を国都の市の南門に立て、民に能く北門に徙し置く者有らば十金を予へんと募る。民之を怪しみ、敢て徙す莫し。復た曰く、「能く徙す者には五十金を予へん」と。一人有りて之を徙す。輒ち五十金を予へ、以て欺かざるを明らかにす。卒に令を下す。
出典:史記 商君列伝
都の市場の南門に、三丈(約7メートル)の木を立て、「これを北門に移した者には十金を与える」と布告する。誰も動きません。そんな簡単なことで大金が出るはずがない、と怪しんだのです。そこで賞金を五十金に上げると、一人の男が半信半疑で木を運びました。商鞅はその場で五十金を渡し、「国は約束を破らない」ことを見せてから、法令を公布しました。これが「徙木(木を徙す)の信」です。
この逸話の肝は、賞金の額ではありません。新しい制度を出す前に、「この組織は言ったことを実行する」という実績を一つ作ったことです。どれほど立派な規程でも、それまで約束が守られてこなかった組織では、誰も本気にしません。商鞅は、法の中身より先に、法が信じられる状態を作りました。
五、太子の師を罰した ― 法に、身分の等級をつけない
新法の施行から一年、不便を訴える声は千を数えました。そこへ、次の君主となる太子が法を犯します。
【書き下し】是に於いて太子法を犯す。衛鞅曰く、「法の行はれざるは、上より之を犯せばなり」と。将に太子を法せんとす。太子は君の嗣なり、刑を施す可からず、其の傅公子虔を刑し、其の師公孫賈を黥す。
出典:史記 商君列伝
「法が行われないのは、上の者が破るからだ」。太子本人には刑を加えられないので、その守り役の公子虔(こうしけん)を罰し、教育係の公孫賈(こうそんか)の顔に入れ墨をしました。翌日から、秦の人々はみな法に従うようになったと『史記』は書きます。
『商君書』の「賞刑」篇は、この原則を条文の形で述べています。
【書き下し】所謂る壹刑なる者は、刑に等級無し。卿相將軍より以て大夫庶人に至るまで、王令に從わず、國禁を犯し、上制を亂す者有らば、罪は死にして赦さず。前に功有るも、後に敗有らば、為に刑を損ぜず。前に善有るも、後に過有らば、為に法を虧かず。
出典:商君書 賞刑
刑に身分の等級はない。宰相でも将軍でも庶民でも同じ。前に功績があっても、後の失敗で罰を軽くしない。過去の功労者だから見逃す、という組織の慢性病への処方として、これほど明確な文章は多くありません。
ただ、同じ段落の『史記』には、続きがあります。十年たって秦がよく治まると、かつて不便を訴えた人々のなかから、今度は法の便利さを褒めに来る者が出ました。
【書き下し】秦民の初め令の不便を言ひし者に来たりて令の便を言ふ者有り。衛鞅曰く、「此れ皆化を乱すの民なり」と。尽く之を辺城に遷す。其の後民敢て令を議する莫し。
出典:史記 商君列伝
商鞅は、褒めに来た者まで「教化を乱す民」として辺境へ移しました。法について論じること自体を許さなかったのです。批判も賞賛も封じれば、誰も何も言わなくなります。それは統制の完成であると同時に、上に立つ者が現場の声を聞く道を自分でふさいだ、ということでもありました。
六、十年で国を作り替える ― 什伍・県・度量衡
商鞅の改革は、法の条文だけでは終わりませんでした。社会の単位から作り替えています。
【書き下し】民をして什伍と為らしめて、相ひ牧司し連坐せしむ。姦を告げざる者は腰斬し、姦を告ぐる者は敵首を斬るに同じく賞し、姦を匿す者は敵に降るに同じく罰す。
出典:史記 商君列伝
民を五人組・十人組(什伍)に編成し、互いに監視させ、罪を連帯して負わせる。悪事を告発すれば敵の首を取ったのと同じ賞、隠せば敵に降ったのと同じ罰。同じ段には、軍功のある者は身分にかかわらず爵位を得られ、王族であっても軍功がなければ王族の籍に入れない、という規定も並びます。
「功有る者は顕栄し、功無き者は富むと雖も芬華する所無し」、功のある者は栄え、功のない者は富んでいても飾り立てられない、という一行もあります。生まれではなく実績で処遇するという原理と、密告と連座による監視が、同じ一つの制度のなかに入っています。切り離して「いいところだけ」を取り出すことはできない、というのが商鞅の改革の読みどころです。
紀元前350年には、都を雍(よう)から咸陽(かんよう)に移し、二度目の改革を行いました。
【書き下し】小郷邑聚を集めて県と為し、令丞を置くこと、凡そ三十一県。田を為むるに阡陌封疆を開き、賦税平らかなり。斗桶権衡丈尺を平らかにす。
出典:史記 商君列伝
小さな村々を三十一の県にまとめて役人を置き、田の区画を引き直して税を公平にし、枡・秤・物差しをそろえる。ここで商鞅が作ったものの一つが、いまも残っています。上海博物館が所蔵する青銅の枡「商鞅方升(しょうおうほうしょう)」です。孝公十八年(紀元前344年)、商鞅が基準の枡として定めたことが刻まれ、容量は約202ミリリットル。そしてその底には、紀元前221年、天下を統一した始皇帝の詔(みことのり)が追刻されています。商鞅の定めた枡が、百二十年あまりのちの統一帝国でも、そのまま基準として使われていたのです。
七、旧友を欺いた日
紀元前340年、商鞅は軍を率いて魏を攻めます。迎え撃つ魏の将は公子卬(こうしごう)、商鞅が魏にいたころの友人でした。
【書き下し】衛鞅、魏の将公子卬に書を遺りて曰く、「吾始め公子と驩ぶ。今俱に両国の将と為るも、相ひ攻むるに忍びず。公子と面相ひ見え、盟ひ、楽飲して兵を罷む可し」と。……衛鞅甲士を伏せて襲ひて魏の公子卬を虜にし、因りて其の軍を攻め、尽く之を破りて以て秦に帰る。
出典:史記 商君列伝
「昔なじみのあなたと戦うのは忍びない。会って盟約を結び、酒を酌み交わして兵を引こう」。そう手紙を送り、信じてやって来た公子卬を、伏兵で捕らえました。将を失った魏軍は大敗し、魏は河西の地を差し出して講和、都を東の大梁(たいりょう)へ移します。魏の恵王は、ここでようやく悔やみました。
【書き下し】梁の恵王曰く、「寡人公叔座の言を用ゐざりしを恨む」と。
出典:史記 商君列伝
かつて商鞅を「殺せ」と進言した公叔座の言葉を、恵王はこのとき思い出したわけです。商鞅はこの功で商の地十五邑を与えられ、「商君」と号しました。栄達の頂点です。
同じ事件は『呂氏春秋』にも記録があり、そちらは後日談まで書いています。孝公の死後、追われた商鞅が魏へ逃れようとしたとき、魏の襄疵(じょうし)は受け入れを断りました。
【書き下し】襄疵受けずして曰く、「君の公子卬に反するを以てや、吾君を知るに道無し。」
出典:呂氏春秋 無義
「あなたは公子卬を裏切った。だから私には、あなたを信じる手立てがない」。徙木の信で国の信用を作った人が、個人の信用は自分で壊していた。一度の勝利のために使った手が、最後に逃げ場を一つ消しました。
八、趙良の諫め ― 千人の諾諾は、一士の諤諤に如かず
宰相となって十年、王族や外戚には商鞅を恨む者が増えていました。あるとき趙良(ちょうりょう)という人物が商鞅に会います。商鞅が「私の治め方は、かつての名宰相・百里奚(ひゃくりけい)と比べてどうか」と尋ねると、趙良はまずこう前置きしました。
【書き下し】千羊の皮は一狐の掖に如かず、千人の諾諾は一士の諤諤に如かず。
出典:史記 商君列伝
千頭の羊の皮も、一匹の狐のわきの下の毛皮には及ばない。千人が「はい、はい」と言うのは、一人が遠慮なく正論を言うのに及ばない。日本語の「侃々諤々(かんかんがくがく)」の「諤諤」は、この一句から来ています(「侃侃」は『論語』郷党篇の語)。
趙良の指摘は具体的でした。百里奚は疲れても車に座らず、暑くても日よけを張らず、供も連れずに国中を歩いた。死んだときは国中の男女が泣いた。ひきかえあなたは、寵臣のつてで取り入り、太子の師を刑し、外出には武装兵を乗せた車を十数台従えなければ出られない。
そして『書経』の「徳を恃む者は昌え、力を恃む者は亡ぶ」を引き、あなたの危うさは朝露のようなものだ、と言いました。趙良は、領地を返し、隠れた賢者を登用するよう君主に勧め、身を引くよう説きました。そして最後に、孝公が亡くなれば、あなたを捕らえる口実はいくらでもある、と予告します。
【書き下し】亡は足を翹げて待つ可し」と。商君従はず。
出典:史記 商君列伝
滅亡は、つま先立ちで待てるほど間近だ。商君は従わなかった。『史記』はそれだけを書いて、次の段へ進みます。
『戦国策』は、この時期についてもう一つ、見逃せない話を伝えています。
【書き下し】孝公之を行うこと八年、疾みて且に起きざらんとし、商君に傳えんと欲するも、辭して受けず。
出典:戦国策 秦策一
病に倒れた孝公は、位を商鞅に譲ろうとした。商鞅は辞退した。君主からそこまで信頼されていたことが、裏返せば、次の君主にとっては最大の脅威になります。『戦国策』によれば、孝公の死後、恵王にこう説いた者がいました。
【書き下し】今秦の婦人嬰兒皆商君の法を言い、大王の法を言う莫し。是れ商君反りて主と為り、大王更に臣と為るなり。
出典:戦国策 秦策一
秦では女も子どもも「商君の法」と言い、「大王の法」と言う者はいない。これでは商君が主で、大王が臣下だ。制度が作った人の名前で呼ばれ続けたことが、そのまま謀反の疑いの材料になりました。仕組みを属人化させたまま、後ろ盾が代替わりした。経営者が事業承継で最初に点検すべきところが、ここにそのまま書いてあります。
九、「法を為るの弊、一に此に至るか」
紀元前338年、孝公が亡くなり、太子が即位しました(恵文王。『史記』は「恵王」と書きます)。かつて鼻を削がれた公子虔の一派が「商君に謀反の企てあり」と訴え、役人が差し向けられます。冒頭の宿屋の場面は、このときのことです。
宿を断られた商鞅は魏へ逃げますが、先に見たとおり、公子卬を欺いた恨みで受け入れを拒まれ、秦へ送り返されました。
【書き下し】秦兵を発して商君を攻め、之を鄭の黽池に殺す。秦の恵王、商君を車裂して以て徇へて曰く、「商鞅の如く反する者莫かれ」と。遂に商君の家を滅ぼす。
出典:史記 商君列伝
商鞅は領地・商邑の兵で抵抗しましたが、攻められて殺されます。恵王はその遺体を車裂き(車につないで引き裂く刑)にして見せしめとし、一族を滅ぼしました。『史記』では、車裂きは死後の体に加えられています。『戦国策』は、商君が戻ると恵王が車裂きにし、「秦人憐れまず」、秦の人々は誰も哀れまなかった、と結んでいます。
最期の嘆きには、別の伝え方もあります。『塩鉄論』で儒学者の側(文学)はこう述べています。
【書き下し】故に孝公卒するの日、國を舉げて之を攻む、東西南北奔り走るべき莫し、天を仰ぎて嘆じて曰く、『嗟乎、政を為すの弊、斯くの極みに至れるか』と。卒に車裂族夷せられ、天下の笑いと為る。斯の人は自ら殺せるなり、人の之を殺すに非ざるなり。
出典:塩鉄論 非鞅篇
こちらでは嘆きの言葉が「政を為すの弊」になっていて、場所も宿屋ではなく「東西南北、逃げる先がない」という状況です。そして結論は「この人は自分で自分を殺したのだ。人が殺したのではない」。どちらの伝えでも、商鞅を追い詰めたのは、商鞅が作ったものでした。
十、人は殺されたが、法は残った
ここで話が終わらないのが、商鞅という人の不思議なところです。商鞅を殺した恵王は、商鞅の法を廃止しませんでした。およそ百年後、韓非は『韓非子』の「定法」篇で、こう書いています。
【原文】及孝公、商君死,惠王即位,秦法未敗也,而張儀以秦殉韓、魏。
出典:韓非子 定法
孝公と商君が死に、恵王が即位しても、秦の法は崩れなかった。ただし韓非はこのあとで、法はあっても君主に臣下の悪事を見抜く「術」がなかったために、せっかくの富強が臣下の私利に使われた、と批判を続けます。法だけでは足りない、というのが韓非の結論でした。韓非が商鞅の最期をどう書いたかは、韓非の生涯の記事で取り上げています。
商鞅の評価は、漢代になっても決着していません。紀元前81年、塩と鉄の専売をめぐる朝廷の論争を記録した『塩鉄論』には、「非鞅(ひおう)」、商鞅を非とする、という篇まであります。政府の側(大夫)は、秦が滅びたのは二世皇帝の代の奸臣のせいで、商鞅のせいではないと擁護しました。
【原文】今以趙高之亡秦而非商鞅、猶以崇虎亂殷而非伊尹也。
出典:塩鉄論 非鞅篇
趙高(ちょうこう)が秦を亡ぼしたことで商鞅を責めるのは、殷を乱した悪臣のせいで名宰相の伊尹(いいん)を責めるようなものだ、と。これに儒学者の側(文学)は、土台の問題だと切り返します。
【書き下し】商鞅は重刑峭法を以て秦國の基と為す、故に二世にして奪わる。
出典:塩鉄論 非鞅篇
伊尹は堯・舜の道を土台にしたから百代続いた。商鞅は重い刑と厳しい法を土台にしたから、二代で奪われた。秦に帝業を開いたことは分かっても、滅びの道を招いたことは分かっていない、と。商鞅は統一の功労者なのか、滅亡の原因なのか。この問いは、漢の朝廷で正面から争われました。儒家の荀子に至っては、商鞅の用兵を、欺きと裏切りに頼る「盗兵」の域を出ないと切り捨てています。
十一、『商君書』は、商鞅が書いたのか
では、商鞅の名を冠した『商君書』は、本人の著作なのでしょうか。答えは、少なくとも全部が本人の筆ではありません。
まず、第一篇「更法」の冒頭で、すでに「孝公」という諡(おくりな)が使われています。諡は君主の死後につける呼び名ですから、孝公の死後に書かれた文章です。そして孝公が死んだ年、商鞅も死んでいます。
さらに決定的なのが、「徠民(らいみん)」篇です。
【書き下し】且つ周軍の勝、華軍の勝、長平の勝、秦の民を亡う所の者は幾何ぞ、民客の兵にして本を事とするを得ざる者は幾何ぞ。臣竊かに以て數うべからずと為すなり。
出典:商君書 徠民
ここに出てくる「長平(ちょうへい)の勝」は、秦が趙を破った長平の戦い、紀元前260年のことです。商鞅の死から78年後の戦いを、この篇は過去の出来事として語っています。『商君書』は、商鞅の考えを受け継いだ法家の人々が、長い時間をかけて書き継いだ書と見るのが定説です。
それでも、この書と商鞅の人生は深く重なっています。司馬遷は伝記の末尾で、商君の「開塞」「耕戦」の書を読んだが、その内容は本人の行いとよく似ていた、と書きました。「開塞」はいまの『商君書』にも同じ名の篇があり、「耕戦」は現存の「農戦」篇にあたると考えられていますが、司馬遷の読んだ本と現存本がどこまで同じかは分かっていません。
『商君書』のなかで、商鞅の人生を振り返ったあとに読むと重く響く一行は、「画策」篇のこれです。
【書き下し】國に皆な法有り、而して法をして必ず行わしむるの法無し。
出典:商君書 画策
どの国にも法はある。ないのは、その法を必ず実行させるための法だ。商鞅が徙木の信と太子の師への処罰でやったのは、まさにこの「必ず行わしむるの法」を作ることでした。そしてそれが徹底されたからこそ、宿屋の主人は、目の前の宰相を泊めませんでした。
十二、司馬遷の評価 ― 「天資刻薄の人」
司馬遷の論賛(伝記の末尾に置く評)は、商鞅に対して厳しいものです。
【書き下し】商君は、其の天資刻薄の人なり。其の孝公に干むるに帝王の術を以てせんと欲し、浮説を挟持せるを跡づくるに、其の質に非ざるなり。且つ因由する所は嬖臣に由り、用ゐらるるに及びて、公子虔を刑し、魏将卬を欺き、趙良の言を師とせざるは、亦た以て商君の恩少なきを発明するに足る。
出典:史記 商君列伝
生まれつき冷酷で情の薄い人だった。寵臣のつてで取り入り、公子虔を刑し、魏の将を欺き、趙良の言葉を聞かなかったことが、それを物語っている、と。
司馬遷は改革の成果を否定していません。本文では十年で「道に遺を拾はず、山に盗賊無く、家給し人足る」と書いています。そのうえで、仕組みの出来と、それを動かした人の在り方を分けて評価しました。そして「卒に悪名を秦に受けしは、以有るかな」、最後に秦で悪名を受けたのも、もっともなことだ、と結んでいます。
結び ― 仕組みは、作った人も選ばない
商鞅の生涯を順にたどると、一つのことが繰り返し現れます。商鞅は、例外を作らない仕組みを作った。そして、その仕組みは作った本人にも例外を作らなかった。
太子の師を罰したのも、宿屋の主人が宰相を泊めなかったのも、身分で法を曲げなかったからです。徙木の信で「国は約束を守る」と示した人は、公子卬との約束を破り、それが魏の門を閉ざしました。「商君の法」という呼び名は成功の証でしたが、そのまま次の君主にとって排除の理由になりました。
『商君書』の「開塞」篇に、こういう一句があります。
【書き下し】その取るに力を以てし、持するに義を以てす。
出典:商君書 開塞
天下を取るときは力で取り、保つときは義で保つ。商鞅の名の書に、取ることと保つことは原理が違う、と書かれています。商鞅は取ることには成功しました。保つための手立て、つまり人の信頼や、耳の痛いことを言う一人を、自分のためには用意しませんでした。
経営に引き寄せれば、読みどころは三つあります。
一つめは、制度を出す前に、約束が守られる実績を一つ作ること。徙木の信は、いまでも有効な手順です。
二つめは、規程を例外なく運用するなら、自分もその例外にならない覚悟を持つこと。自分だけは外にいるつもりで作った仕組みは、立場が変わった日にこちらへ向かってきます。
三つめは、仕組みを人の名前で呼ばせたままにしないこと。「社長のルール」のままの制度は、社長が代わった日に、制度ごと、あるいは作った人ごと否定されます。趙良が「一士の諤諤」を持ち出したのは、商鞅の周りに、それを言う人がいなかったからでした。
同じく『史記』に伝のある、国を動かした実務家たちの生涯です。
→ 管仲の生涯 ― 主君を射た男が宰相になり、親友を後継に推さなかった理由
→ 蘇秦と張儀の生涯 ― 合従連衡の二人は、本当に同門のライバルだったのか
商鞅の法を理論としてまとめた韓非の生涯と、法治と徳治の違いについては、こちらの記事です。
→ 韓非の生涯 ― 『説難』を書いた男は、なぜ説得に失敗して死んだのか
→ 徳治主義と法治主義。ルールか人徳か?
この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳・解説つきで収録しています。『商君書』は現存二十四篇の全文を章句にしています。
この記事の出典について
商鞅の生涯は主に『史記』商君列伝に拠り、年代(変法の紀元前356年・350年、封建の紀元前340年、没年の紀元前338年)は通説に従いました。生年は伝わりません。
孝公が位を譲ろうとした話は『戦国策』秦策一に拠り、『史記』には見えません。最期の嘆きの言葉は、『史記』と『塩鉄論』で文言が異なります。
甘龍・杜摯との論争が三書のどれに先に成立したかは、判断していません。
商鞅方升の年代・容量・始皇帝の詔は、所蔵する上海博物館の解説に拠りました。「侃々諤々」の出典の説明は、国語辞典の記述に拠りました。
『商君書』の成立は、法家の後学が書き継いだとする『四庫全書総目提要』以来の見方に従いました。「耕戦」を「農戦」篇にあてるのは推定です。
引用は師導が収録する底本から切り出し、表記・句読点・字体は底本のままです。各節末のリンクから、その段の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。