後継者を、どう決めるか。
経営者が最後に向き合う、いちばん重い問いです。そして、正解を教えてくれる人がほとんどいない問いでもあります。自分の子に継がせるか、社内から選ぶか、外から招くか。選んだ結果が分かるのは、自分がもういなくなってからです。
東洋古典のなかで、この問いにいちばん長く、いちばん真剣に取り組んだ記録を一つ挙げるなら、『貞観政要(じょうがんせいよう)』だと思います。
唐の二代皇帝・太宗(李世民)と家臣たちの問答集で、「帝王学の教科書」として千年以上読まれてきた本です。後継者の選び方、育て方、兄弟の扱い、教育係の選び方について、太宗は何度も家臣に問い、家臣は何度も太宗を諫めています。太子の教育と、太子と諸王の序列だけで、まるごと数篇が割かれているほどです。
ところが、です。
太宗は、後継者選びに失敗しています。
長男で皇太子の承乾(しょうけん)は、素行が乱れ、ついには謀反を企てて廃されました。才能を愛された四男の魏王・李泰(りたい)も、皇太子の座を狙ったとして退けられた。最終的に選ばれたのは、おだやかな性格の九男・李治(りち)、のちの高宗です。そしてその高宗の皇后が、のちに唐を一時中断させて自ら皇帝となる武則天でした。
いちばん考えた人が、いちばん苦しんだ。 この記事は、その記録を読みます。
誤解のないように書いておくと、この記事は「太宗のようにやれば後継者問題は解ける」という話ではありません。逆です。これだけ考えた人でも、どこで崩れたのか。 失敗の記録として読むから、使える部分があります。
「後継者問題」は一つの問題ではありません。この記事では、太宗と家臣たちのやりとりを手がかりに、六つに切り分けて読んでいきます。原文(白文)・書き下し文・現代語訳と解説つきです。
まず、切り分ける ― 後継者問題の六つの層
先に、六つを並べておきます。
一、創業の目で、守成を測っている。 自分と同じことができる人を探している。
二、育った場所の違いを、計算に入れていない。 自分が苦労から学んだことを、苦労しなかった人に求めている。
三、教える材料を、日常に置いていない。 教育を、特別な場でやろうとしている。
四、そばにいる人を、選んでいない。 本人ではなく、周りが後継者を作っていることに気づいていない。
五、分を、先に定めていない。 愛情で序列を揺らしている。
六、後継者が「諫める人」をどう扱うかを、見ていない。 いちばん大事な試金石を、見落としている。
一から三は、後継者を「どう見るか」「どう育てるか」の話です。 四から六は、後継者の周りの構造の話です。太宗が崩れたのは、主に後半でした。
では、一つずつ見ていきます。
一、創業の目で、守成を測っている
【白文】帝王之業,草創與守成孰難?……以斯而言,守成則難。……今草創之難,既已往矣,守成之難者,當思與公等慎之。
【書き下し】帝王の業、草創と守成と孰(いず)れか難き……斯(これ)を以て言えば、守成は則ち難し……今、草創の難きは、既已に往けり。守成の難き者は、当に公等と与に之を慎むことを思うべし
「創業は易く守成は難し」の出典として知られる一段です。
太宗が家臣に尋ねます。事業を興すのと、守るのと、どちらが難しいか。 天下取りを一緒に戦った房玄齢(ぼうげんれい)は「創業が難しい」と答え、治世を支えている魏徴(ぎちょう)は「守成が難しい」と答えました。
太宗は、どちらが正しいとは言いません。房玄齢は天下を取る苦労を見てきたから創業が難しいと言い、魏徴は天下を治める危うさを見ているから守成が難しいと言う。 答えの違いを、答えた人がどこに立っていたかで説明しました。
これを後継者の問題に当てはめると、一つの落とし穴が見えてきます。
創業者は、創業の目で後継者を見てしまう。
ゼロから事業を立ち上げた人が、後継者候補を見て思うことは、たいてい同じです。「覇気が足りない」「修羅場をくぐっていない」「自分があの年のころは」。
ですが、太宗の問いに従えば、それは別の仕事の物差しです。後継者に求められるのは、草創ではなく守成です。房玄齢の強さではなく、魏徴の強さのほうです。
守成の強さとは何か。魏徴は、国が衰えるのは「手に入れたあとに志が驕り、民が休みたいのに労役をやめず、民が疲れても贅沢をやめない」ところから始まる、と言っています。つまり、やめるべきことをやめられる力です。攻める力ではない。
創業者と同じことができる後継者を探すと、必ず見つかりません。 そして、見つからないことを理由に、引き継ぎが先送りされていきます。
最初に確認すべきことは、自分がいま、どちらの物差しで候補を見ているかです。
出典:貞観政要 君道
二、育った場所の違いを、計算に入れていない
【白文】朕歷觀前代撥亂創業之主,生長人間,皆識達情偽,罕至於敗亡。逮乎繼世守文之君,生而富貴,不知疾苦,動至夷滅,
【書き下し】朕は歴(あまね)く前代の乱を撥(おさ)め業を創むるの主を観るに、人間に生長し、皆な情偽に識達す。敗亡に至る者は罕(まれ)なり。世を継ぎ文を守るの君に逮(およ)びては、生まれながらにして富貴、疾苦を知らず。動もすれば夷滅に至る。
太宗が、房玄齢に語った言葉です。
乱世を治めて事業を興した君主は、みな民間で育ち、人の心の真偽を知り尽くしていた。だから滅びた者はまれだ。ところが跡を継いで守る君主は、生まれながらに富貴で、苦しみを知らない。だから、ともすれば滅ぼされる。
一の「創業と守成」の話を、人の育ちの側から言い直しています。
太宗はこのあと、自分の弟たちについてこう続けます。弟たちは深い宮中に生まれ、見識が遠くに及ばない。私は食事のたびに農作の苦労を思い、衣を着るたびに糸紡ぎの辛さを思う。だが、弟たちが私に学べるだろうか。
そして結論は、「学べない。だから良い補佐役をつけるしかない」でした。
ここに、後継者問題の二つ目の層があります。創業者が身につけた感覚の多くは、経験からしか身につかない。そして後継者は、その経験をする機会そのものを持っていない。
実は、この構図は太宗よりずっと古くから知られていました。『荀子』哀公篇に、魯の哀公が孔子にこう打ち明ける場面があります。
【書き下し】魯の哀公、孔子に問いて曰く、寡人は深宮の中に生まれ、婦人の手に長ず。寡人未だ嘗て哀を知らず、未だ嘗て憂を知らず、未だ嘗て労を知らず、未だ嘗て懼を知らず、未だ嘗て危を知らず、と。
私は奥深い宮殿に生まれ、女官の手で育てられた。悲しみも、憂いも、苦労も、恐れも、危うさも、知ったことがない。
二代目が自分でこう言えるなら、まだ救いがあります。孔子はこのあと、宗廟に入ったとき、朝早く政務に臨むとき、城門から滅びた国の跡を眺めるとき——日々の具体的な場面で、それぞれを「思え」と答えています。経験できないものは、想像する訓練で補え、というわけです。
ここから言えるのは、「苦労が足りない」は後継者の欠点ではなく、構造だということです。事業が成功したからこそ、次の世代は苦労しない環境で育つ。創業者の成功そのものが、後継者から経験を奪っている。
だから、責めても変わりません。経験の代わりになるものを、意図して用意するしかない。太宗の答えは「補佐役」、孔子の答えは「場面ごとに思う訓練」でした。
三、教える材料を、日常に置いていない
【白文】見其乘舟,又謂曰:『汝知舟乎?』對曰:『不知。』曰:『舟所以比人君,水所以比黎庶,水能載舟,亦能覆舟。爾方為人主,可不畏懼!』
【書き下し】其の舟に乗るを見て、又た謂いて曰く、『汝は舟を知るか』と。対えて曰く、『知らず』と。曰く、『舟は人君に比する所以なり。水は黎庶に比する所以なり。水は能く舟を載せ、亦た能く舟を覆す。爾は方に人主と為らんとす。畏懼せざるべけんや』と。
では、太宗は後継者に何をしたのか。
晩年、新たに皇太子を立てたあと、太宗は家臣にこう語っています。「昔は世継ぎに胎教を施したというが、私にはその暇がなかった。だが太子を立ててからは、物に出会うたびに、必ず教え諭している」。
そして、その具体例を四つ挙げます。
食事のとき——「お前は飯を知っているか」「知りません」「農作の苦労はすべて人の力から出る。農繁期に民を使わなければ、いつもこの飯がある」。
馬に乗るとき——「お前は馬を知っているか」「知りません」「人の代わりに苦労してくれる者だ。休ませて力を使い尽くさなければ、いつも馬がいる」。
舟に乗るとき——「舟は君主、水は民だ。水は舟を浮かべもするし、ひっくり返しもする。お前はこれから君主になる。恐れずにいられるか」。
曲がった木の下で休むとき——「この木は曲がっているが、墨縄を当てればまっすぐになる。君主も、道に外れていても、諫めを受け入れれば聖になれる」。
四つとも、講義ではありません。 太子が飯を食べ、馬に乗り、舟に乗り、木陰で休む——その瞬間に、その物を使って一言だけ言っている。
これが、二の問題への太宗なりの答えでした。経験させられないなら、日常の物に意味を持たせる。 飯を見るたびに農民を、馬を見るたびに働く者を、舟に乗るたびに民を思い出すように。
事業承継の現場では、後継者教育は特別な場で行われがちです。外部の研修に出す、経営塾に通わせる、他社で修業させる。どれも意味はあります。ですが、いちばん長い時間は、日常です。
一緒に工場を歩くとき、取引先から帰る車の中、社員の家族の葬儀の帰り道。その場にあるものを指して一言だけ言うほうが、研修の一日より残ります。
そして四つ目の「曲がった木」の話を覚えておいてください。君主も、諫めを受け入れれば聖になれる。 太宗が後継者に伝えた教えの最後が、これでした。六番目の話で、もう一度出てきます。
出典:貞観政要 教戒太子諸王
四、そばにいる人を、選んでいない
【白文】上智之人,自無所染,但中智之人無恒,從教而變,況太子師保,古難其選。……秦之胡亥,用趙高作傅,教以刑法,及其嗣位,誅功臣,殺親族,酷暴不已,旋踵而亡。故知人之善惡誠由近習。
【書き下し】上智の人は、自ら染まる所無し。但だ中智の人は恒無く、教に従いて変ず。況んや太子の師保は、古より其の選を難しとす。……秦の胡亥は、趙高を用いて傅と作す。教うるに刑法を以てす。其の位を嗣ぐに及び、功臣を誅し、親族を殺す。酷暴已(や)まず、踵を旋(めぐ)らして亡ぶ。故に知る、人の善悪は誠に近習に由るを。
ここから、後継者本人ではなく、後継者の周りの話になります。
太宗は言います。最上の知者は、周りに染まらない。だが中くらいの人間は、教えによって変わる。 そして、秦の二世皇帝・胡亥の例を挙げます。宦官の趙高を教育係にし、刑法ばかり教わった。位を継ぐと功臣を殺し、親族を殺し、あっという間に国を滅ぼした。
だから、人の善悪は、身近に接する者で決まる。
「上智の人は染まらない」という前置きが、実は重要です。太宗は、自分の後継者が上智の人だとは想定していない。ほとんどの人は中くらいで、周りの色に染まる。だから、周りを選ぶことが後継者を選ぶことになる、と言っているわけです。
この話には、もう一つ厳しい続きがあります。
【白文】自古草創之主,至於子孫多亂,何也?……公意推過於主,朕則歸咎於臣。夫功臣子弟多無才行,藉祖父資蔭遂處大官,德義不修,奢縱是好。主既幼弱,臣又不才,顛而不扶,豈能無亂?
【書き下し】古より草創の主、子孫に至りて多く乱るるは、何ぞや……公の意は過ちを主に推す。朕は則ち咎を臣に帰す。夫れ功臣の子弟は、多く才行無く、祖父の資蔭を藉りて遂に大官に処る。徳義修めず、奢縦是れ好む。主は既に幼弱、臣も又た不才。顛れて扶けず、豈に能く乱無からんや。
昔から、創業の君主の家は、子孫の代で多く乱れる。なぜだろうか。
房玄齢は「幼い君主が宮中で育ち、世間を知らないからです」と答えました。二で見た話と同じです。
ところが太宗は、それを退けます。「あなたは過ちを君主に帰する。私は臣下に帰する」。
功臣の子弟には、才も行いもない者が多い。親の功績のおかげで高い地位に就き、徳を修めず、贅沢を好む。君主が幼く、臣下も無能。倒れかけても支えない。乱れないはずがない。
これは、事業承継でいちばん言いにくい話です。二代目の周りにいるのは、先代の功労者の子どもたちであることが多い。 創業メンバーの息子が部長になり、古参の番頭の娘婿が役員になる。後継者が二代目なら、周りもまた二代目です。
太宗が言っているのは、後継者だけを見ていては足りない、ということです。後継者を支えるはずの層まで、同じ構造で弱くなっている。 後継者本人を鍛えても、周りが倒れかけたとき支えないなら、結果は同じになります。
処方は明快で、太宗自身が別の段で言っています。師傅(教育係)を精選せよ。正直で忠実な者を、それぞれ二、三人挙げよ。 後継者のそばに置く人を、血縁でも功績でもなく、正直さで選ぶことです。
五、分を、先に定めていない
【白文】諫議大夫褚遂良曰:「即日四方仰德,不敢為非,但太子、諸王,須有定分,陛下宜為萬代法以遺子孫,此最當今日之急。」太宗曰:「此言是也。朕年將五十,已覺衰怠。既以長子守器東宮,諸弟及庶子數將四十,心常憂慮在此耳。
【書き下し】諫議大夫褚遂良曰く、「即日、四方は徳を仰ぎ、敢えて非を為さず。但だ太子・諸王は、須らく定分有るべし。陛下宜しく万代の法を為して以て子孫に遺すべし。此れ最も今日の急に当たる」と。太宗曰く、「此の言は是なり。朕は年将に五十ならんとす。已に衰怠を覚ゆ。既に長子を以て器を東宮に守らしむ。諸弟及び庶子は数将に四十ならんとす。心に常に憂慮するは此に在るのみ。
ここが、太宗が崩れた場所です。
貞観十六年、太宗は家臣たちに「いま国家にとって何が最も急務か」と尋ねました。民を養うこと、異民族を安んじること、礼義——と答えが続くなか、褚遂良(ちょすいりょう)だけがこう答えます。「太子と諸王の分限を定めることです。これこそ今日の最も急務です」。
太宗は即座に同意しました。「その通りだ。私はもうすぐ五十で、衰えを感じている。長子を皇太子にしているが、弟や庶子は四十人近い。心に常に憂えているのは、ここだ」。
分かっていたのです。 問題の所在も、急ぐべきことも。
では、なぜ崩れたのか。その答えは、同じ本の別の篇に、はっきり書き残されています。
【白文】太子承乾多不修法度,魏王泰尤以才能為太宗所重,特詔泰移居武德殿。魏徵上疏諫曰:「魏王既是陛下愛子,須使知定分,常保安全,每事抑其驕奢,不處嫌疑之地也。今移居此殿,使在東宮之西,海陵昔居,時人以為不可。
【書き下し】太子承乾は多く法度を修めず。魏王泰は尤も才能を以て太宗の重んずる所と為る。特に詔して泰を武徳殿に移居せしむ。魏徴、疏を上りて諫めて曰く、「魏王は既に是れ陛下の愛子なり。須らく定分を知り、常に安全を保ち、事毎に其の驕奢を抑え、嫌疑の地に処らざらしむべし。今、此の殿に移居せしめ、東宮の西に在らしむ。海陵の昔居りし所なり。時の人は以て不可と為す。
皇太子の承乾は、素行が乱れていた。一方、魏王の李泰は才能があり、太宗に愛されていた。そこで太宗は、李泰を武徳殿に移り住ませた。
魏徴が、すぐに諫めます。武徳殿は皇太子の住む東宮のすぐ西にある。しかもそこは、かつて海陵王が住んだ場所だ。
海陵王とは、李元吉——太宗が玄武門の変で討った、実の弟です。十数年前、太宗自身が、兄の皇太子と弟を討って位を得た。その弟が住んでいた、東宮の隣の建物に、いま、皇太子ではない愛息を住ませようとしている。
皇太子の隣に、才能ある弟を置く。 宮廷中が、それが何を意味するか分かりました。太宗だけが、分かっていなかった。
太宗の返事は率直です。「私はよく考えなかった。大変な誤りだ」。 そして李泰を元の邸に戻しました。
ですが、一度見せた愛情は、取り消せません。この李泰への寵愛は、ほかの段にも繰り返し出てきます。支給される物資が皇太子を超えていると褚遂良に諫められ(太子諸王定分)、李泰(当時は越王)を大臣たちが軽んじていると聞くと激怒して、魏徴に諫められ、最後には自分でこう認めています(直諫)。
【白文】朕之所言,當身私愛。魏徵所論,國家大法。
【書き下し】朕の言う所は、身に当たりての私愛なり。魏徴の論ずる所は、国家の大法なり。
私の言ったことは、身内への私的な愛情だ。魏徴が論じたことは、国家の大法だ。
太宗は、自分で言い当てています。私愛と大法。 後継者問題とは、つまるところ、この二つが一人の人間の中でぶつかる問題です。
そして太宗は、そのたびに気づき、そのたびに引き下がり、そのたびにまた、李泰を特別扱いしました。
結末は、史書に残っています。貞観十七年(六四三)、皇太子の承乾は謀反の計画が発覚して廃されました。李泰も、皇太子の座を得ようと画策したとして退けられた。太宗が選んだのは、同じ長孫皇后が生んだ三人目の子・李治でした。『資治通鑑』は、このとき太宗が「今後、皇太子が道を外し、藩王がその座をうかがうようなことがあれば、両方とも退けよ。これを子孫の代までの法とする」と述べたと記しています。
分を定めることの大切さを、自分の子を二人失って、ようやく法にした。
事業承継に置き換えると、これは兄弟間の承継でいちばん起きることです。長男を後継者と決めている。ですが、次男のほうが優秀に見える。だから次男に大きな事業部を任せ、社長室の隣に席を置き、重要な会議に呼ぶ。本人は「両方を育てている」つもりでいる。 周りは、それを「後継者が変わるかもしれない」と読みます。そして両方の派閥ができる。
分を先に定める。 決めたら、愛情で揺らさない。優秀なほうを愛するのは親として自然ですが、それは私愛であって大法ではないと、太宗は自分で言っています。
日本には、この問題を先回りして片づけた人もいます。徳川家康は、将軍になってわずか二年で、その職を秀忠に譲りました。まだ健康で、実権も握ったままでした。将軍職が徳川家の世襲であることを、自分が生きているうちに既成事実にしたわけです。分を、自分の目が黒いうちに定めてしまった。その家康が関ヶ原の七か月前に刊行させた本が、この『貞観政要』でした(徳川家康の愛読書)。
出典:貞観政要 太子諸王定分/貞観政要 悔過/貞観政要 直諫
六、後継者が「諫める人」をどう扱うかを、見ていない
【白文】且人主安危所系,不可輒為驕縱。但出敕云,有諫者即斬,必知天下士庶無敢更發直言。故克己勵精,容納諫諍,
【書き下し】且つ人主は安危の系(かか)る所なり。輒(すなわ)ち驕縦を為すべからず。但だ敕を出して云わば、諫むる者有らば即ち斬る、と。必ず知る、天下の士庶は敢えて更に直言を発する無からんことを。故に己に克ち精を励まし、諫諍を容納す。
最後の層です。
太宗は、承乾の教育係たちにこう言っていました。「もし私が『諫める者は斬る』と勅を出せば、天下の誰も直言しなくなるのは分かりきっている。だから私は自分に克ち、諫めを受け入れているのだ。この心を、太子と語り合ってくれ。良くないことがあれば、思い切って諫めよ」。
三で見た「曲がった木も、墨縄を当てればまっすぐになる」と同じことです。君主の質は、諫めを受け入れるかどうかで決まる。 太宗は、それを後継者教育の中心に置いていました。
教育係たちは、言われたとおり承乾を諫めました。何度も。その結果が、次の二つの段です。
【白文】書入,承乾大怒,遣刺客將加屠害,俄屬宮廢。
【書き下し】書入るも、承乾は大いに怒り、刺客を遣わして将に屠害を加えんとす。俄かに宮の廃せらるるに属す。
教育係の張玄素(ちょうげんそ)が上書して諫めると、承乾は激怒して刺客を送り、殺そうとした。 その前にも、張玄素は承乾の下僕に鞭で殴られて死にかけています。
【白文】承乾大怒,遣刺客張師政、紇干承基就舍殺之。是時丁母憂,起復爲詹事。二人潛入其第,見志寧寢處苫廬,竟不忍而止。
【書き下し】承乾大いに怒り、刺客張師政・紇干承基を遣わして舎に就きて之を殺さしむ。是の時、母の憂に丁(あ)たる。起復して詹事と為る。二人潜かに其の第に入る。志寧の苫廬に寝処するを見て、竟に忍びずして止む。
もう一人の教育係、于志寧(うしねい)が諫めたときも、承乾は刺客を送りました。 刺客が屋敷に忍び込むと、于志寧は母の喪に服して、藁の粗末な小屋で寝ていた。刺客は、その姿を見て手を下せずに引き返しました。
太宗が後継者教育の中心に置いた「諫めを受け入れる」ことを、後継者は、諫めた者を殺そうとすることで拒んだ。
これは、後継者を見るうえでいちばん確かな試金石を示しています。
後継者候補の能力は、見えにくいものです。業績は環境に左右され、面談ではみな立派に話します。ですが、耳の痛いことを言った部下を、その人がどう扱うかは、隠せません。
黙って聞いて、あとで冷遇するのか。表では受け入れて、裏で外すのか。承乾は、張玄素の目の前で太鼓を壊してみせて「聞き入れた」ふりをし、そのあとで下僕に殴らせています。表と裏が違う。
事業承継の実務では、後継者候補の周りから率直に意見を言う人が減っていないかを見ることです。後継者の部署から、優秀で口うるさい人が異動を願い出ていないか。会議で、後継者に反対意見を言う人が、いつのまにかいなくなっていないか。
諫める人が消えた場所では、次に何が起きても、誰も知らせてくれません。 それは太宗が『貞観政要』の最初から最後まで、繰り返し恐れていたことでした。
出典:貞観政要 教戒太子諸王/貞観政要 規諫太子/貞観政要 規諫太子
太宗は、どこで崩れたか
ここまで六つを見てきました。太宗は、ほとんどすべてを分かっていました。
創業と守成の違いを知っていた。二代目の育ちの弱さを知っていた。日常で教えていた。教育係を精選していた。分を定めることが急務だと認めていた。諫めを受け入れることを、後継者教育の中心に置いていた。
それでも崩れた。
崩れた場所は、はっきりしています。五番目です。 愛する子を特別に扱い、分を揺らした。そして揺れた分の上で、承乾は追い詰められ、李泰は野心を持ち、宮廷は割れました。承乾の荒れ方と、李泰への寵愛の、どちらが先だったのか。『貞観政要』はそこまでは書いていません。ですが、二つが互いを強め合ったことは、段を並べるとよく分かります。
実は、太宗はこの崩れ方も予見していました。
【白文】漢高祖,泗上一亭長耳,初能拯危誅暴,以成帝業,然更延十數年,縱逸之敗,亦不可保。何以知之?孝惠為嫡嗣之重,溫恭仁孝,而高帝惑於愛姬之子,欲行廢立,
【書き下し】漢の高祖は、泗上の一亭長のみ。初め能く危きを拯(すく)い暴を誅し、以て帝業を成す。然れども更に十数年を延べば、縦逸の敗、亦た保つべからず。何を以て之を知る。孝恵は嫡嗣の重と為り、温恭仁孝なり。而して高帝は愛姫の子に惑い、廃立を行わんと欲す。
貞観六年、まだ治世の前半に、太宗は漢の高祖・劉邦を批判しています。高祖は、嫡子の恵帝が温和で仁孝だったのに、寵愛する側室の子に心を惑わされ、後継者を替えようとした。君臣父子の間が、これほど乱れた。
「愛姫の子に惑い、廃立を行わんと欲す」。 十年後、太宗がやったことを、そのまま書いたような一文です。
そして太宗は、この段をこう結んでいます。「だから私は天下の安泰を恃まず、常に危亡を思って自らを戒め、終わりを保とうとしているのだ」。
他人の失敗として正確に分析できていたことを、自分の身では避けられなかった。 後継者の問題が難しいのは、ここだと思います。知識が足りないのではない。自分の子への愛情という、いちばん強い感情の中で判断しなければならないからです。
出典:貞観政要 慎終
六つのうち、どれを見るか
改めて、六つを並べます。
一、創業の目で、守成を測っている ——候補を見ている物差しは、草創か守成か。
二、育った場所の違いを、計算に入れていない ——経験の代わりになるものを用意しているか。
三、教える材料を、日常に置いていない ——飯と馬と舟で教えているか。
四、そばにいる人を、選んでいない ——後継者の周りもまた、二代目になっていないか。
五、分を、先に定めていない ——私愛と大法を、分けているか。
六、諫める人をどう扱うかを、見ていない ——後継者の周りから、口うるさい人が消えていないか。
一から三は、時間をかければ手を打てる層です。四から六は、先代にしか手を打てない層です。
後継者本人にはどうにもできません。周りを選ぶのも、分を定めるのも、諫める人を守るのも、いまの経営者の仕事です。そして太宗の例が示すとおり、崩れるのは、たいていこちら側です。
結び ― 自分の子への愛情を、誰が止めるか
太宗が亡くなったのは、貞観二十三年(六四九)です。
後を継いだ高宗の治世に、皇后の武氏——武則天——が次第に実権を握り、六九〇年、ついに自ら皇帝に即位して国号を周と改めます。唐が復活するのは七〇五年です。
これだけ後継者について考えた皇帝の王朝が、その死から四十年あまりで、一度途切れている。
そして『貞観政要』は、その後、唐がふたたび立ち直ろうとする時代に、史官の呉兢(ごきょう)によってまとめられました。「貞観の治」を、もう一度手本にするために。失敗を含めて書き残したのは、そのためだったのだと思います。
この記事で見てきたことを、一つにまとめるなら、こうなります。
後継者問題とは、後継者の能力の問題である以上に、先代の愛情の問題である。
太宗は、そのことを誰よりもよく知っていました。高祖を批判し、「私愛」と「大法」を自分で言い分け、「よく考えなかった、大変な誤りだ」と何度も認めた。それでも、止まらなかった。
止められる可能性があったのは、魏徴や褚遂良のような、先代に向かって「それは私愛です」と言える人だけでした。そして魏徴は、承乾が廃される貞観十七年の初めに亡くなっています。
後継者を決める前に、確かめておきたいことがあります。自分の周りに、自分の子への愛情を止めてくれる人は、まだいるか。
この記事で引いた段は、いずれも師導に原文・書き下し文・現代語訳と解説つきで収録しています。『貞観政要』には、太子の教育と、太子と諸王の序列だけで数篇が割かれています。
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