論語 / 八佾篇
子曰:『管仲之器小哉!』或曰:『管仲儉乎?』曰:『管氏有三歸。』曰:『然則知禮乎?』曰:『邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君為兩君之好、有反坫、管氏亦有反坫。管仲、其器小哉!』
新字:子曰:『管仲之器小哉!』或曰:『管仲倹乎?』曰:『管氏有三帰。』曰:『然則知礼乎?』曰:『邦君樹塞門、管氏亦樹塞門。邦君為両君之好、有反坫、管氏亦有反坫。管仲、其器小哉!』
書き下し
子曰く、『管仲の器、小なる哉!』或曰く、『管仲は倹なりや。』曰く、『管氏に三帰有り。』曰く、『然らば礼を知るや。』曰く、『邦君、塞門を樹つ、管氏も亦塞門を樹つ。邦君、二君の好を為すに反坫有り、管氏も亦反坫有り。管仲、その器小なる哉!』
現代語訳
孔子は言った。「管仲の器量は小さいな。」ある人が「管仲は倹約だったのですか」と尋ねた。孔子は言った。「管氏には三度の接待の場があった。」さらに「では礼を知っていたのですか」と問うと、孔子は言った。「諸侯は門をふさぐ木を立てるが、管氏も同じことをした。諸侯が友好を示すときには反坫を置くが、管氏もそうした。やはり器が小さいのだ。」
解説
どれほど大きな成果を上げた人物でも、自身の役割や分限(礼)をわきまえなければ、真の尊敬を得ることはできません。孔子は、管仲の素晴らしい実績を認めつつも、その驕りや分を越えた振る舞いを「器が小さい」と断じました。リーダーは、成果を上げた時こそ、謙虚さを失わず、組織全体の調和を考える品位が求められます。
この章句が説くこと
管仲分礼品位
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『長短経』正論周衰えて、礼廃れ楽壊れ、大小相い踰ゆ。管仲の家、遂に三帰を備う。法に循い正を守る者は、世に侮られ、奢溢僭差なる者は、之を顕栄と謂う。子夏の門人の高弟自りするも、猶お云う「出でては紛華盛麗を見て悦び、入りては夫子の道を聞きて楽しむ。二者、心に戦い、未だ決する能わず」と。而るに況んや中庸以下の、失教に漸漬し、成俗に被服せるをや。孔子は必ず名を衛に正さんとせしも、居る所合わず。豈に哀しからずや」と。
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 無射の鐘二十一年春、天王將に無射を鑄んとす。泠州鳩曰く、「王其れ心疾を以って死せんか。夫れ樂は、天子の職なり。夫れ音は、樂の輿なり。而して鐘は、音の器なり。天子風を省みて以って樂を作り、器以って之を鐘(あつ)め、輿以って之を行る。小なる者は窕(ちょう)ならず、大なる者は槬(くわ)ならざれば、則ち物に和す。物和すれば則ち嘉成る。故に和聲耳に入りて、心に藏る。心億(やす)ければ則ち樂し。窕なれば則ち咸(あまね)からず、總なれば則ち容れず、心是を以って感く。感けば實に疾を生ず。今鐘槬なり、王の心堪へず、其れ能く久しからんや」と。三月、蔡の平公を葬る。蔡の大子朱位を失ひ、位卑きに在り。大夫の葬を送る者、歸りて昭子に見ゆ。昭子蔡の故を問ふ。以って告ぐ。昭子歎じて曰く、「蔡其れ亡びんか。若し亡びずんば、是の君や必ず終へざらん。詩に曰く、『位に解らず、民の塈(いこ)ふ攸なり』と。今蔡侯始めて位に即きて、卑きに適く。身將に之に從はんとす」と。夏、晉の士鞅來聘す。叔孫政を為す。季孫諸を晉に惡ましめんと欲し、有司をして齊の鮑國の費を歸すの禮を以って士鞅の為にせしむ。士鞅怒りて曰く、「鮑國の位は下にして、其の國は小なり。而るに鞅をして其の牢禮に從はしむ、是れ敝邑を卑しむるなり。將に諸を寡君に復さんとす」と。魯人恐れ、四牢を加へ、十一牢と為す。
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『慎思録』巻之五卑幼の輩、居れば則ち長者の位を避け、行けば則ち随ひ行き、言語応対は、則ち恂恂として謙遜す。是れ礼の当に然るべき所なり。後世の卑幼は此の礼に循はず。往往長者の位に居り、先生と並び行き、言語応対は、則ち尊長と抗敵す。唯速やかに成人の列に進まんことを欲し、等を躐え節を凌ぐ。分に安んぜざるの甚だしきなり。是を以て驕惰の心を養成して、教ふべからざるに至る。歎ずべきかな。
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史記 斉太公世家燕の荘公遂に桓公を送りて斉の境に入る。桓公曰く、「天子に非ずんば、諸侯相送るに境を出でず。吾以て燕に無礼なる可からず」と。是に於て溝を分ちて燕君の至る所を割きて燕に与へ、燕君に命じて復た召公の政を修め、貢を周に納れしむること、成・康の時の如し。諸侯之を聞き、皆斉に従ふ。二十七年、魯の湣公の母を哀姜と曰ふ。桓公の女弟なり。哀姜、魯の公子慶父に淫す。慶父、湣公を弑す。哀姜、慶父を立てんと欲す。魯人更めて釐公を立つ。桓公、哀姜を召して之を殺す。二十八年、衛の文公に狄の乱有り、急を斉に告ぐ。斉、諸侯を率ゐて楚丘に城きて衛君を立つ。二十九年、桓公、夫人蔡姫と船中に戯る。蔡姫水に習ひ、公を蕩かす。公懼れて之を止むるも、止めず。船を出でて怒り、蔡姫を帰すも、絶たず。蔡も亦怒り、其の女を嫁す。桓公聞きて怒り、師を興して往きて伐つ。三十年春、斉の桓公、諸侯を率ゐて蔡を伐つ。蔡潰ゆ。遂に楚を伐つ。楚の成王、師を興して問ひて曰く、「何の故に吾が地に渉るや」と。管仲対へて曰く、「昔、召康公、我が先君太公に命じて曰く、『五侯九伯、若実に之を征し、以て周室を夾輔せよ』と。我が先君に履を賜ふ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。楚の貢の包茅入らず、王の祭具はらず。是を以て来り責む。昭王南征して復らず。是を以て来り問ふ」と。楚王曰く、「貢の入らざるは、之有り、寡人の罪なり。敢て共せざらんや。昭王の出でて復らざるは、君其れ之を水浜に問へ」と。斉の師進みて陘に次る。夏、楚王、屈完をして兵を将ゐて斉を捍がしむ。斉の師退きて召陵に次る。桓公、其の衆を以て屈完に矜る。屈完曰く、「君、道を以てせば則ち可なり。若し不ずんば、則ち楚は方城以て城と為し、江・漢以て溝と為す。君安んぞ能く進まんや」と。乃ち屈完と盟ひて去る。陳を過ぐ。陳の袁濤塗、斉を詐り、東方に出でしむ。覚る。秋、斉、陳を伐つ。
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