論語 / 季氏篇
齊景公有馬千駟,死之日,民無德而稱焉。伯夷叔齊餓於首陽之下,民到于今稱之。其斯之謂與?
新字:斉景公有馬千駟,死之日,民無徳而称焉。伯夷叔斉餓於首陽之下,民到于今称之。其斯之謂与?
書き下し
斉の景公、馬千駟有り。死するの日、民徳として称する無し。伯夷・叔斉、首陽の下に餓う。民今に到るまで之を称す。其れ斯を之謂うか。
現代語訳
斉の景公は馬を四千頭も持っていたが、死んだ日に、民でその徳をたたえる者はいなかった。伯夷と叔斉は首陽山のふもとで飢え死にしたが、民は今に至るまで彼らをたたえている。(あの言葉は)このことを言っているのだろうか。
解説
富の頂点にいた君主と、餓死した二人の兄弟。死後の評価が完全に逆転している。生前に所有していたものと、死後に残るものは別だという実例である。四千頭の馬という具体的な数字が効いている。膨大な資産があり、それが一つも記憶に結びつかなかった。何も残らなかったのではない。馬は誰かの手に渡り、消費された。残らなかったのは、称えるべき理由のほうである。事業を営む人にとって、この対比は考える材料になる。規模を大きくすることと、記憶に残ることは別の作業だ。前者は測定できるので目標にしやすく、後者は測定できないので後回しになる。ただし、どちらか一方だけを選ぶ必要はない。景公が非難されているのは、富んでいたからではなく、富の他に何も無かったからである。

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富評価死後伯夷叔斉記憶
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