「敬天愛人」。西郷隆盛といえば、この四文字です。

ところで、この記事はこれまで、有名な武将の「遺訓」をいくつも疑ってきました。徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し」は明治十一年ごろの作。伊達政宗の「仁に過ぎれば弱くなる」も明治二十七年が初出で、伊達家の史料に根拠がない。どちらも、後世の誰かが武将の名前を借りて書いたものでした。

西郷隆盛は、違います。

『南洲翁遺訓』は、西郷が死んで十三年後に出ています。ここまでは他と同じです。ところが、作った人が違う。

編纂したのは、旧庄内藩の人々でした。 戊辰戦争で幕府側について官軍に激しく抵抗した、つまり西郷にとっては敵だった側です。

しかも当時、西郷は西南戦争を起こして敗死した「賊軍の首魁」でした。名誉を回復する前です。その人物の言葉を、旧敵が自費でまとめ、風呂敷に背負って全国を歩いて配った。

これは、偽作を作る動機とは正反対の話です。

この記事では、その『南洲翁遺訓』の原文を読みながら、西郷が何を考え、何を読んでいたのかを辿ります。「敬天愛人」がどこに出てくるのか。そして遺訓の最後で、西郷自身が名指しで「これを読め」と挙げた本が何だったのかまで。

西郷隆盛とは、何をした人か

先に、輪郭を押さえます。

文政十年(一八二八年)、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。名は隆盛、号は南洲。

藩主・島津斉彬に見出されて表舞台に出ますが、斉彬の急死で立場を失い、二度、島に流されています。 安政六年(一八五九年)に奄美大島へ。いったん召還されたのち、文久二年(一八六二年)には徳之島から沖永良部島へ。二度目は牢に入れられ、粗末な小屋で過ごしました。

この島での歳月が、彼の読書の時間でした。 のちに遺訓に見られる漢籍と陽明学の素養は、多くがここで積まれています。

元治元年(一八六四年)に呼び戻されてからは、一気に中心へ出ます。薩長同盟、王政復古、そして戊辰戦争。江戸城を無血で開城させたのも彼です。

明治政府では参議、陸軍大将にまで昇りますが、征韓論をめぐって政府を割り、明治六年(一八七三年)に鹿児島へ帰ります。そして明治十年(一八七七年)、西南戦争。 城山で自刃しました。享年五十一。

賊軍として死んだ人物です。名誉が回復されるのは、その十二年後、明治二十二年(一八八九年)の大日本帝国憲法発布にともなう大赦を待つことになります。

『南洲翁遺訓』は、敵が作った本

『南洲翁遺訓』は、四十一条と追加二条からなります。西郷自身が書いたものではありません。彼から直接聞いた話を、後にまとめたものです。

まとめたのが、旧出羽庄内藩の人々でした。

順を追います。慶応四年(一八六八年)の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側につき、官軍に激しく抵抗しました。最後まで戦った藩の一つです。当然、厳しい処分を覚悟していました。

ところが、実際に下された降伏条件は、きわめて寛大なものでした。 その処分を指示したのが、西郷です。

城の明け渡しにあたって、官軍側は威圧的な振る舞いを一切しなかったと伝えられます。藩主の身柄も保全された。予想していたものと、あまりに違った。

庄内の人々は、この処分に感銘を受けます。そして明治三年から八年にかけて、旧藩主の酒井忠篤をはじめとする庄内の人々が、鹿児島まで足を運んで西郷から教えを受けました。 敵だった相手のもとへ、学びに行ったのです。

そのとき聞いた話を書き留めたものが、西郷の死後に整えられ、明治二十三年(一八九〇年)、酒井忠篤と旧藩士たちの手で刊行されます。

そして、ここからが凄い。旧庄内藩士たちは、この本を風呂敷に背負って、全国を行脚しながら配って歩きました。

売るためではありません。西郷の名誉が回復された翌年のことです。自分たちが受けた恩を、言葉の形で残そうとした。

だから『南洲翁遺訓』は、他の武将の遺訓とは性格が違います。顕彰のために子孫が作ったのでも、明治の誰かが名前を借りたのでもない。 敵だった人たちが、実際に聞いた話を書き留めたものです。

もちろん、聞き書きである以上、西郷の言葉そのままではありません。記憶と編集が入っています。それでも、この本の成り立ち自体が、西郷という人物の何かを証明しているように思います。

では、中身に入ります。

一、「敬天愛人」 ― 出どころは第二十一条

【原文】道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己れに克つの極功は「毋意毋必毋固毋我」と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。能く古今の人物を見よ。事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み事をも敬する故、功も立ち名も顕はるるなり。功立ち名顕はるるに随ひ、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒慎の意弛み、驕矜の気漸く長じ、其の成し得たる事業を負み、苟も我が事を仕遂んとてまづき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。

「敬天愛人」の四文字が出てくるのが、この第二十一条です。

ただ、この条の本題は前半ではありません。後半の分析のほうが、はるかに具体的です。

西郷は、事業を興す人について、こう観察します。

「事業を創起する人、其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希れなる」——八割まではできる。残り二割ができる人が、まれである。

そして、その理由が段階を追って書かれます。

初めは、よく自分を慎み、事を敬する。 だから功が立ち、名が現れる。
功が立ち名が現れるにつれて、いつしか「自ら愛する心」が起こる。
恐れ慎む気持ちがゆるむ。
驕りがしだいに増す。
成し得た事業を鼻にかける。
まずい仕事に陥る。
ついに敗れる。

つまり、成功そのものが、敗因の起点になっている。 慎んだから成功し、成功したから慎まなくなり、慎まなくなったから敗れる。

そして西郷は、逃げ道を塞ぎます。「皆な自ら招く也」。 外部要因を一つも認めていません。

なお、克己の極致として引かれる「毋意毋必毋固毋我(意なく、必なく、固なく、我なし)」は、『論語』子罕篇で孔子が絶っていた四つのことです。私意を持たず、決めつけず、固執せず、我を張らない。

事業を八割まで持っていける人は、たくさんいます。そこから先で落ちる理由を、西郷は能力ではなく、成功による緩みに置きました。

出典:南洲翁遺訓 第二十一条

二、なぜ「敬天」の次に「愛人」が来るのか

【原文】道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。

第二十四条。ここで「敬天愛人」の中身が説明されます。

敬天とは、天を敬うこと。 では、なぜそこから「愛人」が出てくるのか。

「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ」——天は、自分も他人も同じように愛している。

だから、天に倣うのであれば、自分を愛するのと同じ心で人を愛することになる。

論理の運びが明快です。「他人を愛せよ」という命令ではありません。天が両方を同じに扱っているという事実から、自然に導かれる帰結として置かれている。

そして見逃せないのが、「我を愛する心を以て」という部分です。

自分を愛する心を、否定していません。 それを基準に据えて、同じ強さで人を愛せと言っている。自分を犠牲にせよという話ではない。

これは重要です。次の条以降で西郷は「己れを愛するは善からぬことの第一也」と厳しく言うのですが、そこで否定されているのは自分だけを愛することです。自分を大事にすること自体は、むしろ基準として使われている。

現代の言葉に置き換えるなら、こうなるでしょうか。自分に対して使っている物差しを、そのまま他人にも当てる。 自分の失敗には理由があると考えるなら、他人の失敗にも理由があると考える。自分には事情があると思うなら、相手にも事情があると思う。

「同一に」という一語が、この条の全部です。

出典:南洲翁遺訓 第二十四条

三、西郷が名指しで薦めた本

【原文】漢学を成せる者は、弥漢籍に就て道を学ぶべし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏伝を熟読し、助くるに孫子を以てすべし。当時の形勢と略ぼ大差なかるべし。

遺訓の最後、追加二条目に置かれているのが、読書案内です。

この記事は「西郷隆盛の愛読書」と題していますが、実は推測の必要がありません。西郷自身が、二冊を名指ししています。

『春秋左氏伝』を熟読し、助けとして『孫子』を用いよ。

そして、理由が具体的です。「苟も当時万国対峙の形勢を知らんと欲せば」——いま列強が並び立っている国際情勢を理解したいなら、と。

明治初期です。日本は開国して間もなく、不平等条約を抱え、欧米列強に囲まれていました。その状況を理解するために西郷が挙げたのが、二千数百年前、春秋時代の諸侯が入り乱れた記録でした。

「当時の形勢と略ぼ大差なかるべし」。 春秋時代とほぼ大差ない、と言い切っています。

なぜ古い漢籍が役に立つのか。理屈は一貫しています。「道は天地自然の物、東西の別なし」。 道は自然のものだから、時代も洋の東西も関係ない——これは遺訓の第九条でも、第二十四条でも繰り返されている、西郷の基本の構えです。

そして師導では、『春秋左氏伝』も『孫子』も収録しています。 西郷が示したこの組み合わせを、そのまま辿ることができます。

出典:南洲翁遺訓 追加二

四、その『春秋左氏伝』を開くと ― 「神は徳にのみ依る」

【白文】公曰:「吾享祀豐絜,神必據我。」對曰:「臣聞之,鬼神非人實親,惟德是依。故《周書》曰:『皇天無親,惟德是輔。』又曰:『黍稷非馨,明德惟馨。』……神所馮依,將在德矣。
【書き下し】公曰く、「吾が享祀は豐絜なり、神必ず我に據らん」と。對へて曰く、「臣之を聞く、鬼神は人を實に親しむに非ず、惟だ德にのみ是れ依ると。故に『周書』に曰く、『皇天親無し、惟だ德にのみ是れ輔く』と。又曰く、『黍稷馨しきに非ず、明德惟れ馨し』と。……神の馮り依る所、將に德に在らんとす。

西郷が薦めた『春秋左氏伝』を、実際に開いてみます。

僖公五年。虞(ぐ)という小国が、隣の晋から「虢(かく)を攻めたいので道を貸してほしい」と頼まれます。家臣の宮之奇(きゅうしき)は反対します。虢が滅べば、次は虞だ、と。

それに対して虞公が言うのが、この一段の冒頭です。「わが祭祀は豊かで清らかだ。神は必ず私に味方するだろう」。

宮之奇の返答が、この段の核心です。

「鬼神は人を実に親しむに非ず、惟だ徳にのみ是れ依る」——神霊は人になつくのではない。ただ徳にだけ依る。

だから供物の量は関係ない。「黍稷馨しきに非ず、明徳惟れ馨し」——穀物が香るのではない。徳が香るのだ。

そして決定的な問いが置かれます。もし晋が虞を取り、そのうえで立派に祭祀を行ったなら、神はそれを拒むでしょうか。

拒みません、という含みです。祭祀は、誰の味方でもない。

虞公は聞き入れず、晋に道を貸しました。宮之奇は一族を連れて去り、こう言い残します。「虞はもう年末の祭りを迎えられまい」。 そのとおりになりました。

さて、ここで西郷の言葉に戻ります。

「天は人も我も同一に愛し給ふ」。

「皇天親無し、惟だ徳にのみ是れ輔く」。

同じことを言っています。 天は誰の味方でもない。えこひいきをしない。だから、天に頼るのではなく、徳のほうを自分で用意するしかない。

西郷が「春秋左氏伝を熟読せよ」と言い、その左氏伝にこう書いてある。敬天愛人の土台が、どこにあったかが見えてきます。

出典:春秋左氏伝 僖公五年

五、「人を相手にせず、天を相手にせよ」

【原文】人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ可し。

四十九字。 遺訓のなかで、もっとも広く知られた一条でしょう。

「人を相手にせず、天を相手にせよ」。 他人の評価や反応を基準にするのをやめ、天を基準にせよ。

そのうえで、具体的な作法が三つ並びます。

己れを尽す。
人を咎めず。
我が誠の足らざるを尋ぬ。

三つとも、視線が自分に向いています。

なぜ「天を相手にする」と、こうなるのか。理屈は単純です。人を相手にすると、うまくいかないとき、相手のせいにできる。 上司が分かってくれない、部下が動かない、市場が悪い。相手がいる以上、原因の置き場所が外にできてしまう。

天を相手にすると、返ってくる先が自分しかありません。 天は言い訳を聞かないし、交渉もできない。

これは孤高の勧めではなく、原因の置き場所を動かす技術です。

ただし、厳しさもあります。「我が誠の足らざるを尋ぬ可し」——足りないところを探せ、と言われれば、必ず見つかります。逃げ場のない構えでもある。

そして面白いのは、同じ遺訓の第十七条で、西郷は「曲げて相手の意に従えば軽侮を招く」と、人の反応を論じていることです。人の反応を見るなと言う人が、別の条では人の反応を分析している。

矛盾ではないと思います。基準が天であることと、人の反応を観察することは、両立します。 見るけれども、それを基準にはしない。

出典:南洲翁遺訓 第二十五条

六、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」

【原文】命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れども、个様の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ

遺訓のなかで、もっとも引かれる一条です。

「仕抹(始末)に困るもの也」——扱いに困る、手に負えない。

これは褒め言葉として言われています。 理由は明快で、動かす手段がないからです。

命で脅せない。名誉で釣れない。地位でも動かない。金でも動かない。打つ手がない。

だからこそ、「艱難を共にして国家の大業は成し得られる」。

逆に言えば、こうなります。何かで動かせる人は、危機のときに、別の誰かが別の何かで動かします。 金で動く人は、より多く出す側へ行く。地位で動く人は、より高い地位を示す側へ行く。平時には有能に見えて、非常時に離れる。

そしてもう一つ、この条には重要な指摘があります。

「个(か)様の人は、凡俗の眼には見得られぬぞ」——そういう人は、ふつうの目には見つけられない。

当然です。名も官位も求めないのですから、目立ちません。 手を挙げないし、自分を売り込まない。探しても見つからないという性質が、この人物像には最初から組み込まれている。

これは、採用や登用の場面で厄介な問題を突いています。選抜の仕組みは、たいてい「手を挙げた人」から選びます。 意欲を示した人、成果を主張した人。その仕組みで拾えるのは、定義上、名や地位を求める人です。

西郷が続けて引くのは『孟子』の大丈夫の条です。「富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」——富貴も、貧賤も、威圧も、その人を動かせない。

出典:南洲翁遺訓 第三十条

七、「十に七八は小人なれば」 ― 人事のリアリズム

【原文】人材を採用するに、君子小人の弁酷に過ぐる時は却て害を引き起すもの也。其の故は、開闢以来世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其の長所を取り之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也。

前の条と並べて読むと、この人の現実感覚がよく分かります。

まず、前提が身も蓋もありません。「開闢以来、世上一般、十に七八は小人なれば」——世の中の八割は小人だ。

だとすれば、小人を排除する人事は成り立ちません。 八割を除いたら、組織は動かない。

だから西郷はこう言います。「能く小人の情を察し、其の長所を取り、之れを小職に用ゐ、其の材芸を尽さしむる」。 使うのです。心情を理解し、長所を取り、小さな職に就けて、才能を出し切らせる。

そして、藤田東湖の言葉が引かれます。「小人程才芸有りて用便なれば、用ゐざればならぬもの也」——小人ほど有能で使い勝手がよいから、用いないわけにいかない。

この認識が重要です。無能だから小人なのではありません。有能だからこそ厄介なのです。

そして、線が一本引かれます。

「去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」。

使う。ただし、上には立てない。

これは、現代の人事でそのまま使える分離です。有能さと、上に立たせてよいかは、別の判断である。

多くの組織で起きているのは、この二つの混同です。成果を出した人を、そのまま管理職にする。 営業成績が一番の人が課長になり、技術が一番の人が部長になる。

西郷と東湖が言っているのは、能力の評価は職務で報い、上に立てるかどうかは別の基準で決めろということです。そして、その別の基準が何かも、遺訓は前の条で示していました。命も名も官位も金もいらぬかどうか。

出典:南洲翁遺訓 第六条

八、「公平ならざれば、英雄の心は決して攬られぬ」

【原文】人を籠絡して陰に事を謀る者は、好し其の事を成し得るとも、慧眼より之れを見れば、醜状著るしきぞ。人に推すに公平至誠を以てせよ。公平ならざれば英雄の心は決して攬られぬもの也。

第三十五条。前の条の裏返しにあたります。

人を籠絡して、陰で事をはかる。 それで事が成ったとしても、見る目のある人からは醜く見えている、と西郷は言います。

そして、代わりに置かれるのが「公平至誠」です。

ここで注目したいのは、理由の置き方です。西郷は「それが正しいから」とは言っていません。

「公平ならざれば、英雄の心は決して攬(と)られぬもの也」。

公平でなければ、優れた人の心は動かせない。

これは道徳ではなく、設計の話です。籠絡という技術は、凡庸な人には効きます。ところが、本当に来てほしい人には効かない。 むしろ、籠絡が見えた時点で去られる。

つまり、裏で動かす技術を磨けば磨くほど、集まる人の質が下がっていく。

短期的には、籠絡のほうが効率的に見えます。話が早い。相手を選んで、それぞれに違う顔を見せて、個別に納得させる。ただしそれは、個別に納得させられる人だけが残る組織を作っているということでもあります。

前の条で「小人は十に七八」と言った同じ人が、こちらでは「英雄の心を攬れ」と言う。八割は小人だと認めたうえで、残り二割をどう引き寄せるかを考えている。 その答えが、公平と至誠でした。

出典:南洲翁遺訓 第三十五条

九、割れた茶碗の欠けらを、集めない

【原文】過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。

第二十七条。比喩が見事です。

割れた茶碗の欠けらを、拾い集めて合わせてみる。 元には戻りません。過ちを悔やんで取り繕おうとするのは、それと同じだ、と。

示される手順は、驚くほど簡潔です。

過ったと気づく。それでよい。
その事は棄てて、顧みない。
すぐ、一歩踏み出す。

「反省を深めよ」とは、一言も言っていません。 むしろ、深く悔やむことを時間の無駄として退けています。

ここで西郷が禁じているのは、反省ではなく「取り繕はんとて心配する」ことです。割れた事実を、無かったことにしようとする動き。言い訳を考える、責任の所在をぼかす、報告を遅らせる。これらは全部、欠けらを集める作業です。

そして、その動機がどこにあるかも、遺訓は書いています。第二十六条に、こうあります。「過を改むることの出来ぬも、皆自ら愛するが為」。

自分がかわいいから、割れていないことにしたい。だから前へ進めない。

実務では、この一条は報告の速さに直結します。悪い報告が早く上がってくる組織と、遅れる組織の違いは、たいてい担当者の性格ではありません。取り繕う時間が要るかどうかです。そして取り繕う時間が要るのは、割れたことを責められると分かっているからです。

「其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し」。 これが上司の側の態度になっていれば、報告は速くなります。

出典:南洲翁遺訓 第二十七条

十、「人は須らく事上に在りて磨くべし」 ― 西郷と陽明学

【白文】問:「靜時亦覺意思好,才遇事便不同,如何?」先生曰:「是徒知養靜,而不用克己工夫也。如此,臨事便要傾倒。人須在事上磨,方立得住,方能靜亦定,動亦定。」
【書き下し】問う、「静なる時は亦た意思の好きを覚ゆ。才(わず)かに事に遇えば便ち同じからず。如何」と。先生曰く、「是れ徒らに静を養うを知りて、克己の工夫を用いざるなり。此くの如くんば、事に臨みて便ち傾倒せんことを要す。人は須らく事上に在りて磨(みが)くべし。方に立ち得て住し、方に能く静にも亦た定まり、動にも亦た定まる」と。

最後に、西郷の思想の背景にあるものに触れます。陽明学です。

王陽明の言行録『伝習録』から、一段を引きます。

弟子が質問します。「静かな時は心持ちが良いのですが、事に遭うと違ってきます。どうしてでしょう」。

分かる悩みです。落ち着いて考えているときは冷静でいられる。ところが実際に問題が起きると、平静さが崩れる。

王陽明の答えは容赦ありません。「それはただ静けさを養うことだけを知って、己に克つ工夫を用いていないのだ」。 そのやり方では、事に臨めば必ず崩れる。

そして、有名な一句が置かれます。

「人は須らく事上に在りて磨くべし」——人は、事の上で磨くべきだ。

そうしてこそ、立って崩れず、静かでも定まり、動いても定まる。

「事上磨錬(じじょうまれん)」という言葉の出どころです。

西郷とこの思想の関係は、彼の経歴を見ればよく分かります。二度の島流し、投獄、そして戦争。 静かな書斎で完成した人ではありません。牢の中で本を読み、出てからは政局のただ中にいた。

遺訓の第二十一条で克己を説き、第二十五条で「己れを尽し人を咎めず」と言い、第二十七条で「直に一歩踏み出す可し」と言う。どれも、静かな場所で完成させるのではなく、事の上で磨く発想です。

なお、西郷は佐藤一斎の『言志四録』全千百三十三条から、百一条を自ら抄録して手元に置いていました。「南洲手抄言志録」と呼ばれるものです。師導が収録している『言志四録』は、この西郷抄録の百一条です。

言志四録に学ぶリーダーシップ — 佐藤一斎の言葉と、西郷隆盛の一灯

出典:伝習録 陸澄録

まとめ ― 敵が背負って歩いた本

整理します。

「敬天愛人」は、第二十一条と第二十四条にあります。 天は自分も他人も同じように愛している。だから、自分を愛する心で人を愛する。「同一に」という一語が全部です。

西郷が名指しで薦めたのは、『春秋左氏伝』と『孫子』でした。 万国が対峙する明治の情勢は、春秋時代とほぼ大差ない、という理由で。

その左氏伝には「皇天親無し、惟だ徳にのみ是れ輔く」とありました。 天は誰の味方でもない。だから徳のほうを自分で用意するしかない。敬天愛人の土台が、そこにあります。

そして遺訓は、人事についても具体的でした。 世の八割は小人だ。使え、ただし上には立てるな。命も名も金もいらぬ人は目立たないから、探しても見つからない。籠絡は凡人には効くが、来てほしい人には効かない。

割れた茶碗の欠けらは、集めない。

最後に、冒頭の話に戻ります。

家康の遺訓も、政宗の五常訓も、明治の作でした。武将の名前を借りて、後世の誰かが理想を語ったものです。それが悪いとは思いません。 内容は、どちらもよくできている。

ただ、西郷の場合だけは、性格が違います。

賊軍として死んだ人物の言葉を、戦争で戦った相手側の人々が、十三年後に自費でまとめ、風呂敷に背負って全国を歩いて配った。

顕彰でも、権威づけでもありません。 そんなことをしても、彼らには一銭の得もない。むしろ、賊軍の首魁を称える本を配って歩くことには、当時それなりの覚悟が要ったはずです。

「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言った人の言葉が、こういう形で残った。 出どころを辿ると、その事実自体が、いちばん雄弁だという気がします。


西郷が薦めた二冊は、師導に全文を収録しています。

春秋左氏伝の名句一覧 孫子の名句一覧

孫子の兵法の名言13選 — 原文・現代語訳と、戦わずして勝つの本当の意味

『南洲翁遺訓』全四十三条も、原文・現代語訳・解説つきで読めます。

南洲翁遺訓の名句一覧

「明治になって現れた遺訓」については、こちらで辿りました。

徳川家康の愛読書 ― 名言「人の一生は重荷を負うて」の真偽と、家康が刷った本
伊達政宗の愛読書 ― 五常訓は本人の言葉ではない。では何を残したか

なお、渋沢栄一は西郷と実際に議論し、その様子を書き残しています。 若い官僚に本末転倒だと切論されて何も言い返さず黙って帰った西郷を、渋沢は「維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫も虚飾の無かつた人物」と評しました。

渋沢栄一の名言と愛読書 ― 『論語と算盤』の原文と、「夢七訓」の真偽

そのとき西郷が渋沢に頼みに行ったのは、相馬藩の「興国安民法」を廃止させないでほしい、という一件でした。興国安民法とは、相馬中村藩が藩をあげて採用していた二宮尊徳の報徳仕法のことです。維新の元勲が、一介の農政家が作った村の再建法を守るために、若い大蔵官僚のもとへ足を運んだ。そういう話です。

二宮尊徳の愛読書 ― 「道徳なき経済は犯罪」は本人の言葉ではない。では何と言ったか

本記事の出典について

『南洲翁遺訓』は、西郷隆盛自身が書いたものではありません。 旧庄内藩の関係者が、西郷から直接聞いた話を書き留め、後にまとめたものです。四十一条と追加二条からなり、明治二十三年(一八九〇年)に旧藩主・酒井忠篤と旧藩士たちによって刊行されました。聞き書きである以上、西郷の言葉そのままではなく、記憶と編集が入っています。 本記事はその前提のうえで読んでいます。

遺訓の原文は、伝わっている表記のまま引用しました。 読みやすさのために現代仮名遣いに直したり、送り仮名を補ったりはしていません。長い条は「……」で中略していますが、残した部分は一字も変えていません。

漢籍の白文・書き下し文・現代語訳・解説は、すべて師導が収録する底本の値です。 各節の末尾のリンクから、その章句の全文と解説をご覧いただけます。

生没年、二度の島流しの時期、西南戦争、名誉回復の年は、一般に伝わる記録に拠りました。